美術大学に入ったのなんて、言ってしまえば気まぐれだった。ただ、なんとなく興味があっただけ。それを職にしようだとかそんなことは考えていなくて、俺はいつだってその時やりたいことをやりたいようにやって、ふらふらと生きていた。

「すてきな絵だね」

 初めて彼女にそう言われた時のことは今でも覚えている。何の絵を描いたかは覚えていないのに、彼女の俺の絵を見つめる視線はずっと忘れらないままだ。たまたま講義で隣の席に座って、それまで同じ学科なのに一度も話したことがなかったから、いきなり声をかけられた時は正直戸惑った。

「……どーも」

 一先ずお礼を言った。彼女は相変わらずきらきらとした目で、俺の絵を見ていた。

「前から絵、うまいと思ってたんだ。この線とか、この色とか。どうやってやったの?」
「え、テキトー」
「テキトー!? 嘘だ」
「いや、嘘じゃないけど」
「そんなぁ……。蘭たんくんは才能があるんだねぇ、羨ましい」

 彼女は自然に俺の名前を呼んだ。一方的に自分のことを相手が知っているのは何だか微妙な感覚で、だけど不思議と嫌じゃなかった。俺に言いたいことだけ言って、彼女は自分のカンバスに向き直った。ペンを握る彼女の横顔はどこまでも真剣で、俺とは違うタイプの人間だと思った。
 それから彼女は講義の度に俺の隣に座っては、俺の絵を見て、俺の絵が素敵だ、好きだと言った。最初は、俺に好意を持っているのだと思っていた。過去まったく知らない女の子から一方的に好かれていたことだってある。大抵そういう場合は俺が相手に興味を示さないと女の子の方から勝手に離れていくのだが、彼女は違った。彼女は俺の返事や反応は求めておらず、純粋に俺の絵を見たいのだと俺は理由もなく確信していた。そして俺はいつからか、彼女が口にするその「好き」が俺自身に対するものであればいいのにと思うようになっていた。





「蘭たん、今日の夜って暇?」

 講義が終わり、人がばらばらと帰り始めるなか彼女が尋ねてきた。

「特に用はないけど。どしたん」
「わたしの家に来てほしいなって」
「家?」
「うん。蘭たんに見てほしいものがあるんだ」

 #name1#はそれだけ言って、荷物を纏めると行こうか、と彼女自身の家に向かい歩き始めた。見てほしいものが何なのかということはもちろん気になったが、それ以上に初めて足を踏み入れる彼女の家のほうがずっと気になった。話す数だって増えたし、一緒にいることも増えたが、お互いの家にはまだ一度だって行ったことがなかった。

 彼女のアパートは大学から歩いて行ける距離にあった。ドアのロックを解除する彼女は、何だか少し緊張しているみたいだった。俺が彼女の家に入るのをためらうように、彼女も俺を家に入れることに何か感じているのだろうか。だって彼女は女で、俺は男だから。

「だいぶ散らかってるけど、どうぞ」
「……ほんとに散らかってんね」

 彼女の部屋は、謙遜ではなく本当に散らかっていた。それもたくさんの色鉛筆や絵の具、キャンパスノートによって。大学から出てきたのに、また大学に戻ってきたみたいな、そんな香りがした。数多くの美術道具が机に拡がっているからだろう。こんなにもたくさん、家でも絵を描いているのか、#name1#は。大学で見ていた彼女の絵に対する熱意はほんの一部だったに過ぎないことを、俺は実感した。

「見てほしいのはね、これなの」

 彼女はごくりと唾を呑み込み、部屋の奥から大きなキャンバスを取り出した。

「なにこれ」
「全国コンクールに出そうと思ってる、絵。昨日やっと完成したの。出す前に蘭たんに見てもらいたくて」
「俺に?」
「うん。怖いけど……蘭たんの感想が聞きたい」

 蘭たんはわたしの憧れだから、と、一切のお世辞も嘘も含まれていない声で言って、彼女は俺にその絵を渡した。受け取ってその絵を見る。素直に上手だ、と思った。今まで見てきた彼女のどの絵よりもずっとクオリティが高く、丁寧で、かつ情熱的な絵だと思った。

「今までの絵の中で一番いいんじゃないかな」
「本当?」
「うん。っていうか俺に見てもらうよりも教授とかに見てもらったほうがいいんじゃないの」
「ううん。いいの。これは蘭たんにしか見せないって決めてたから」

 絵を返した。それを受け取った彼女は、はあーっと大きく息を吹き、俺の言葉を噛みしめるように「ありがとう」と何度も言った。俺に褒められたその絵を見つめて、心底うっとりした表情をしていた。愛おしそうなその視線に、赤く染まる頬に、俺は何も言えなかった。彼女がここに入る前緊張していた理由も、俺のそばにいる理由もすべてわかってしまった。

「せっかくだから、ゆっくりしていって。今更だけどお茶とか持ってくるね」
「……いい。それより、こっち来て」
「え?」

 この場から去ろうとした#name1#の腕を掴んで、無理やり引き寄せた。

「ら、蘭たん、何を」
「#name1#はさ、俺の描く絵が好きで、それに憧れてるんだよな」
「え……?」
「じゃあ俺のことはどう思ってるの」

 俺の腕の中で、#name1#が戸惑っているのがわかった。だけど一切抵抗しない。触れられるのが嫌だったらすぐに振りほどけばいいのに、#name1#はそれをしない。俺はそれをわかっている。

「俺は#name1#のことが好きだよ」

 そういえば、いつから呼び捨てで互いの名前を呼び合うようになったのだろう。俺たちはもう「ただの友達」というラインでは収まりきらないぐらい、近づいてしまっている。ずっと保っていたそれを、彼女が壊したくなかったであろう壁を、俺はめちゃくちゃに壊してしまいたいのだ。

「俺のこと、軽蔑した? 気持ち悪いって思った?」

 だったらもう、俺に近づかないで。これ以上どうにもならない感情を抱え込ませるのはやめてよ。#name1#の身体を引き離すと、彼女は、う、と小さなうめき声を出した。彼女が半ば泣きそうになっているのがわかった。彼女が怯えるとわかっていて、ずっと言わずにいた。彼女が泣くと思って、隠していた。もう何もかもが終わりだ。

「嫌いに、なった?」

 ああ、彼女が「俺」を見ている。絵なんて本当はどうでもよくて、#name1#のことだけを欲しているどうしようもない俺を見ている。

「嫌いになんて、なれるわけない」

 苦しそうに俺を見つめるその目に苛立って、俺は#name1#にキスをした。いっそ嫌いになってくれたら、俺だって楽になれるのに。


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