世界が呼ぶ
例えば時間を過去に戻せるとして、わたしは今の自分と違う自分になることができるのだろうか。きっと、できないと思う。未来がわかっていたって私は同じことを繰り返すだろう。2年間の同棲を経て残ったものは、吐き出された嫌いの言葉と、指定した額より2倍の数字が記入された通帳だけだった。
○
友人の紹介でやってきた新しい会社で先輩となる社員さんに自己紹介をすると、相手はしばし固まったあと、
「なまえって、あのなまえ?」
と聞き返してきた。あのなまえ、と言われてもそれがその人にとって誰を指しているのかがわからず、わたしにはうまく反応ができない。
「俺、蘭たん。多分、中学で同じクラスだったと思うんだけど」
蘭たん、蘭たん……記憶の中でその名前を検索する。そして思い出す。中学二年生の時、一年間だけ同じクラスだった男の子。無口で何を考えているか分からなくて、名前が珍しい不思議な子。あと、かわいい。本来ならば男の子にかわいいという表現を使うのは間違っているかもしれないが、かわいいと言っても、女の子的な可愛さじゃなくて、無垢とか汚れがないとか、そういうたぐいのかわいさが、彼にはあった。そういう意味で「かわいい」という言葉が彼を表すのに適切だったのだ。それがわたしの中にある、「蘭たん」の記憶。
「あ、お、覚えてます。蘭たん……さんですよね。ほとんど喋ったことなかったから、逆によくわかったなって今驚いてます」
「あれあれ? お二人知り合いな感じですか〜?」
なんとも言えない空気を変えたのは、わたしの友人であり、今まさに会社の案内をしてくれていた藤山ちゃんだった。明るく快活な性格ゆえか、彼女は随分と社内で顔が広いようで、彼にもずいぶんと気軽に話しかけていた。
「い、一応?」
「あはは、何それ! ビミョな反応〜〜!」
「まぁ俺あの頃超陰キャだったし。スクールカースト的になまえさんとはほとんど関わりなくても仕方ないよね」
「え、いやそんな」
「ぶっちゃけ蘭たんさんは今でも陰キャですよねぇ〜」
「うっさいわ」
けたけたと藤山ちゃんの笑い声が社内の休憩室に響く。仲いいなあこの二人、と思いながらぼんやりその会話を眺めていると、藤山ちゃんがわたしの腕を掴んだ。ぐっ、と彼の座っている席の向かい側に無理やり座らせられた。
「大体社内紹介も終わったし、そろそろお昼休みだし、お二人で昔話でもどうですか?」
「え、」
「そんなわけでばいばーい! 昼休み終わったらまた声かけるね〜!」
戸惑うわたしを置いて藤山ちゃんはその場からそそくさと立ち去ってしまった。相変わらず嵐のような子だ……。溜め息をついて、目の前に座る男の人の顔を見た。彼は藤山ちゃんのこんな行動には慣れっこなのか、まったく動じておらず、その視線はまっすぐにわたしに向けられていた。
「あいつが友達なんて大変そうだね」
「いい子、なんですけどね」
「はは。あ、タメ口でいいよ。同い年だし」
「え、でも」
「いーから。同い年の奴に敬語使われると俺がなんか気持ち悪い」
「……うん。わかった、ありがとう」
蘭たんは笑いながらコーヒーを一口飲んだ。わたしはカバンから昼食用に作っていたお弁当を取り出し、机に広げた。卵焼き、たこさんウインナー、サラダ、ふりかけご飯。大丈夫、ちゃんと美味しい。わたし、まだ、大丈夫。自分に言い聞かせるようにそれらを咀嚼する。
「生物係」
ふと、彼がどこか懐かしく感じる単語を口にした。何だっただろう。また昔の記憶を手繰り寄せ、あ、と思う。
「なまえさん生物係やってたよね、中学の時」
「うん。そんなことまでよく覚えてたね」
「そりゃあ覚えてるよ。生物係なんてサボりたい人が何か入らなきゃと思って入る係なのに、なまえさん、毎日ちゃんと花の水やりしてた」
言われてみれば確かに、毎日休み時間にクラスの花瓶の水を取り替えたり、外にある花壇の花にジョウロで水をやったりしていた気はする。まさか、それを蘭たんが見てくれていたなんて思ってもみなかったけれど。
「普段は陽キャ女子とつるんでて全然真面目そうに見えないのに、そういう変に真面目なところ、俺好きだったからさ」
「え」
好きという言葉をさらっと口に出されて、身体の奥で心臓が鼓動を打つ。だけどすぐにそれは焦りや不快感に変わっていく。
お前のそういうところが嫌いだったよ
好きも嫌いも、簡単に口に出せてしまうんだ。そんなことに一喜一憂していたらあっというまに自分がつぶれてしまう。だから深く考えることも、向き合うこともやめたんじゃないか。
「あ、ごめん。なんか口説いてるみたいになった」
初日からセクハラすんなって藤山に怒られそう、と蘭たんはいたずらをした子どもみたいに笑う。前にも同じようなことで怒られたことがあるのだろうか。
「大丈夫だよ。わたしなんかのこと、そういう風に思ってくれて嬉しい」
嘘じゃない。本当に、嬉しい。わたしも笑いながら卵焼きを口にする。味付けを少し失敗したのかいつもよりもしょっぱい味がした。蘭たんはじ、とこちらを見つめたまま数秒黙り込んだ。何かを考えているようだけれど、昔と変わらず、その表情から何を考えているのかはいまいち読み取れない。
「なまえさんは覚えてないかもだけど」
「うん?」
「俺となまえさん、一回だけふつうに喋ったことあるんだよ」
「え、いつ?」
そんなこと、あっただろうか。申し訳ないがわたしの記憶の中にはない。聞き返すと蘭たんはまた口を閉じてしまう。まずい、気を悪くさせただろうか。彼が覚えていて自分がまったく覚えていないというのはなかなかに失礼かもしれない。思わず「ご、ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にすると、蘭たんさんは気にしなくていいよと言うかのように首を横に振った。
「ほんとにくだらないことだからさ」
蘭たんから返ってきた言葉はそれだけで、その話はそこで終わってしまった。その声から、これ以上の詮索を求めていないように感じたので、わたしは何も聞くことができない。少し気になる。あの頃のわたしと蘭たんが、一体いつ、何を話したのか。
「なまえさん、なんか変わったね」
何気なく、蘭たんが言う。変わった、のだろうか、わたしは。よくわからない。それがいいことなのか悪いことなのかも、わたしにはわからなかった。