無意識の海に沈めたら


 一日の仕事を終えて帰ろうとした時、出口付近にあるホワイトボードに自然に目がいった。あれ、と思って立ち止まる。端に描かれた可愛らしい犬のイラスト。何故だか目が離せなくなった。
 どこかで一度、見たことがある気がする。でも、どこで?

「お先に失礼しまーす」

 記憶を巡らせていると、すこし離れたところから蘭たんの声が聞こえる。その声でわたしは一つの答えに辿り着いた。
 そうだ、蘭たんだ。この絵は過去に蘭たんが描いていたものとよく似ている。







 それは暑い暑い炎天下の日。グラウンドを駆け回る生徒たちを背に、わたしは重い足をずるずる引きずって歩いていた。がらりと保健室のドアを開けてもそこに先生はいなくて、溜め息を零す。仕方なく擦りむけた膝を水道で流して辺りをきょろきょろと見回す。そこで私は、地面に座り込み背中をまるくした一人の男の子を見つけた。

「なにやってるの?」

 私が声を掛けると男の子はびくりと肩を揺らし、「え」と振り返る。男の子の正体はクラスメイトの蘭たんくんだった。まさか自分に声を掛けてくる人間がいるなんて思ってもいなかったみたいに、目を見開いている。

「……なにって、落書き」

 見ればわかるじゃんとでも言いたげな反応に私は苦笑した。なるほど確かに、彼は地面に指をつけている。私が訊きたかったのは『こんな時にこんな場所で』何をしているのかということなのだけれど、質問の意図は伝わっていないみたいだ。というか聞くだけムダかもしれない。どちらにせよ体育祭をサボっていることには違いないのだから。

「先生、どこにいるか知ってる?」
「知らない」
「そ、そっか」

 思えば彼は、普段の体育の授業でもよく見学をしていた印象がある。たまにちゃんと参加しても、いつも気だるそうだった。運動が好きじゃないんだろうな。
 なんとなく彼に近寄って地面を見つめると、そこには可愛らしい猫のイラストが描かれていた。その隣には犬や、クマや、……パッと見なんの生き物なのか検討もつかない不思議な生物の絵もある。

「わ、すご。蘭たんくんって器用なんだね」
「別に」
「私もここでサボっちゃおうかな」

 怪我してるし、とどこか言い訳みたいに付け足して彼の隣に座り込んだ。

「……真面目ななまえさんでもサボったりするんだ」
「え?」
「ちゃんと競技参加しなよーとか注意されるかと思ったのに」
「それはまあ、参加したほうがいいとは思うけど……」

 別に私は実行委員でもないし、彼が思うほど真面目な人間でもない、と思う。それにこうやって蘭たんくんと二人きりで話すのは初めてで、今後こんな機会はもうないかもしれない、と思うとそれはとても貴重な時間のように思えたのだ。

「誰にだって、何かが嫌になる時ってあるもんね」

 言いながら、指で蘭たんくんと同じように猫を描いてみる。けれど彼のようにうまくは描けなかった。隣にいる彼は「へたくそ」と言って私と同じように猫のイラストを地面に描いていく。ムッとして、もう一度挑戦してみる。がたがたでバランスもぐちゃぐちゃな猫を見て、蘭たんくんはけらけらと笑った。

「なにこれ。目どーなってんの」
「かわいいじゃん!」
「えぇ?」

 どこがだよ、と蘭たんくんは呆れたように私を見る。納得がいかない私はその後もひたすらに落書きをし続けた。

「なまえさん」

 蘭たんくんが不意に手の動きを止めた。なんだろうと思って彼を見ると、視線をうろうろと彷徨わせながら、何かを言おうと口を開く。それとほぼ同じタイミングで、『ただ今、すべての種目が終了しましたー』という気だるそうな放送委員のアナウンスが入った。

「……行こっか」

 途切れたままの言葉を喉の奥に引っ込めて、蘭たんくんは立ち上がる。それ以上喋る気がないことを何となく察した私は、うん、と頷いて慌ててグラウンドへと戻った。蘭たんくんと一緒に戻っても良かったのだけれど、なんだか気恥ずかしくてわざと距離を開けた。
 「なにしてたの?」と友達に訊かれた時、「んー、保健室で先生と喋ってた」と自然と自分が嘘を吐いてしまったことに驚いた。どうして秘密にしておきたいって思うんだろう。あの時間を、ほかの誰にも知られたくないなんて、なんでそう思ってしまうんだろう。
 その理由も、あの時の彼が何を言おうとしていたのかも、わからないままだ。





 ホワイトボードのねこを指でなぞる。

 俺となまえさん、一回だけふつうに喋ったことあるんだよ

 以前、私と一度話したことがあると蘭たんは言った。私はその時思い当たる出来事がなくてそうだっけ、なんて軽々しく返事をした。だけど蘭たんは覚えてくれていたのだ。あの一度、そんな長い時間のことじゃないのに。

 ほんとにくだらないことだからさ

 確かにくだらないこと、かもしれない。学生時代の取り留めもない思い出のひとつ。だけど消えてしまったわけじゃない。一度は忘れていたけれど、ちゃんと私の心には残っていた。それはきっと、彼が特別だったからだ。ぽっと胸に灯る感情に気付いて、私は思わず俯いた。ちがう、そうじゃない。そんなはずないんだ。二人で飲んだりしたから、浮かれているだけだよ。誰にも見られないよう首を振って私は会社を後にした。