うつくしい福音
いつからか、映画館が好きになっていた。特にスクリーンのある部屋が好きだ。ひろいひろい世界の中で自分だけが狭い箱の中にいるみたいな感覚を味わえるから。つい足を運んでしまう。そんなのがいつの間にか習慣になって、毎週金曜の仕事終わりは映画館に通うのが癖になっていた。
だけど、「あのこと」があってからはずっと映画館へ来るのがなんだか億劫だった。
『美女と野獣』
映画のタイトルが書かれた半券を持ち、自分の席につく。スクリーンでは当たり前みたいに、お姫様と王子様の恋物語を描く。運命の出逢い。結ばれるはずのなかった二人の想いが通じ合う。きれいでうつくしい世界だ。私を取り巻く世界とはちがう。
私はそれに気づきたくなくて、映画館を避けていたのかもしれないな、と思った。
(……バカみたいだ)
映画と自分をくらべるなんて。本当にバカバカしい。上映を終え真っ暗になったスクリーンを見つめたまま溜め息を吐いた。
「なまえさん?」
頭上から降ってくる声に思わず肩が震えた。振り返るとそこには蘭たんがいて、その目は驚いたようにまるくなっている。びっくりしたのは私も同じだ。「なまえさんもこれ観てたんだね」蘭たんは不思議とちょっと嬉しそうだった。
「てかどしたん、ぼーっとして」
「う、ううん。なんでもないよ」
慌てて立ち上がると、椅子にカバンが引っかかってバランスを崩してしまう。そんな私の身体を支えるように蘭たんが私の手を掴んだ。初めて触れた蘭たんの手に私の心の中で、何か、小さなビー玉みたいなものがことんと揺れた。
「ご、ごめん」
私は慌てて蘭たんの手を離す。蘭たんは私の態度を少し変に思いながらも、何も言わなかった。
今度こそふらつかないようにちゃんと自分の足で立って歩く。
「蘭たん、ディズニー映画とか観るんだ」
「意外?」
「ちょっとね。映画好きなイメージはあったけど、ディズニーはそうでもないのかなって勝手に思ってた」
「うっそ。俺、美女と野獣のアニメとかもう何回観たかわかんないぐらいだよ?」
「そんなに好きなんだ」
それから蘭たんは美女と野獣や他のディズニー映画についてもたくさん語ってくれた。蘭たんの好きなものの話をこうしてちゃんと聞くのは初めてだったから、新鮮な気持ちで私も知っている限りのことを話した。とにかく歌が良いんだよねと語る蘭たんの横顔は楽しそうで、彼が好きなものを口に出すときはこんな表情をするんだな、と見つめていた。そうしているうちにあっという間に映画館の出口へたどり着いてしまう。
蘭たんは立ち止まって、私を見た。
「なまえさん、今からなにか予定ある?」
「ううん」
「じゃあさ、ちょっと飲み行こうよ」
自然なように見えてどこかぎこちない誘い方だと思った。
「……いいね。行きたい」
私の返事も、もしかしたらぎこちないものになっていたかもしれない。
○
それから私たちは駅の近くの居酒屋に入って、さっきの映画の話やら、最近の仕事の話をした。お酒が進んで、私の顔も蘭たんの顔も赤くなってきたので私は前から話そうと思っていたことを口に出してみる。
「あのね、蘭たん」
「ん?」
「私、思い出したの。蘭たんが一回、私と話したことがある、って言ってた時のこと」
「……あー」
蘭たんが頭を掻く。思い出してくれて嬉しい、というような感じではなかった。むしろどちらかといえば、思い出してほしくなかったみたいにも取れる反応だ。
「大したことじゃなかったでしょ?」
「でも、ちゃんと覚えてたよ」
覚えているってことは、きっと自分の中で何か意味があったんだと思う。そういうことじゃないのかな。なんて口には出さないけれど。それでも自分の記憶の中にちゃんと存在していたことだけは伝えたかった。じっと見つめていると、蘭たんは自分が頼んだハイボールをごくごくと飲み干してから私を見た。
「俺さ、あん時、体育祭がすげー嫌でさ。皆が当たり前みたいに参加するのがなんか理解できなくて。みんながふつうにできてることができない自分がちょっと嫌になってた時期だったんだ」
私の返事を待たずに蘭たんは続ける。
「そこでなまえさんが、まぁ、かるーく言ったひとことに、俺はなんかちょっと救われたわけですよ」
はは、と笑ってみせるのはそうしないと恥ずかしいからだろうか。どのみち酔っているせいで顔が赤いから、表情から感情を読み取るのは難しいけれど。それでも蘭たんは、たしかに、私に救われた、と言った。そんな大それたことをした覚えもしたつもりもない私にとっては、かなりの衝撃だ。
映画みたいに運命の出逢いとか、壮絶なストーリーはきっと私たちには存在していない。だって私たちは物語の登場人物じゃないから。それでも、ただのモブみたいな人間でも、誰かが誰かを救うことは案外簡単にできるのかもしれない。
「なまえさん」
蘭たんの声は、私の耳に、身体に、まっすぐ届く。
「また、こうやって誘っていい?」
私は頷く。だって私も、またこうやって二人で話したいって思うから。