鈍に惑星
「なまえ〜〜! ちょっと付き合って!」
「わぁっ」
お昼休みになって早々、藤山ちゃんが私の身体に飛びつくようにやって来た。後ろからだったので驚いてよろける私にかまわず、藤山ちゃんはずいずいと食堂へ進んでいく。席に着いてすぐその大きな瞳を輝かせて語り出す。
「聞いたよ。最近蘭たんさんと良い感じなんだって?」
てっきり藤山ちゃん自身に関する話だと思っていた私は、想像もしていなかった話題に飲んでいたお茶を零しそうになってしまう。
「えっ……」
「二人で飲んでるところ見かけたって子がいたんだよ〜。まさかそんなところまで話が進んでるとはビックリ! もしかしてもう付き合ってたり……」
「──ま、待って。付き合ってないから!」
藤山ちゃんはどんどん話を先へ進めようとするから、慌てて静止する。え、いま、なんて言ったの。私と蘭たんが、付き合ってる……? もしかしたらそんな噂が流れているのだろうか。私たちの知らないところで、勝手に。それは困る。非常に困る。だって事実とは異なっているし、それに、だれかと付き合うだなんて……。
「付き合ってなくても、良い感じではあるんでしょ?」
「べ、べつにそんな。ただ、二人でたまに飲みに行ったりするだけで」
「それって十分"いい感じ"だと思うけど」
「……そんなこと……」
ない、と、強く否定できない自分がどこかにいた。私はもしかしたら薄々、自分と蘭たんはただの社員同士なんかではないぐらいの関係になっていると、自惚れていたのかもしれない。そんな自分が恥ずかしくなってくる。それと同時になにか焦りのような感情が私の身体を支配した。
「それに、蘭たんさんってなまえに気があるようにあたしには見えるな〜」
ざわ、ざわ。心臓が波打つ。なにかの前触れみたいに。それはとても恐ろしいもののように、私には思えた。「どうしてそう思うの」って訊いたら、「女のカン」って返ってきて、私は苦笑した。
○
「俺さ、なまえさんといると、なんかすげー落ち着く」
街灯に照らされた夜道を歩きながら、ほんのり頬を赤くした蘭たんがふいにそんなことをつぶやいた。「え?」と私が尋ねると、「なんか肩の力が抜けるってゆーか」アルコールのせいか、少しだけ舌った足らずな喋り方。それでも蘭たんの言葉の意味はわかる気がした。
もはや恒例になってきている、毎週金曜日の、二人の時間。観たい映画があれば一緒に観て、そのあとは感想を話し合うために飲みに行って。そうして二人の最寄り駅まで歩いて帰る。こんな日々を続けていられるのは、私にとってもきっと蘭たんは一緒にいると落ち着く相手ってことだ。
それって十分"いい感じ"だと思うけど
藤山ちゃんの言葉を思い出して、どきりとした。それまで波のようにおだやかだった心が、また、ざわざわと激しく波打ち始める。自分の奥底の方が、なんだか落ち着かなくなってしまう。
"前"もそうだった。
一緒にいることが当たり前みたいに思えて、この人とずっと一緒にいられたらなあ、なんてばかみたいに考えて。そうして失敗した。あのときの傷は、まだ癒えない。癒えていないのに無理やり見ないように蓋をしている。その蓋が少しずつ、開けられてゆく。蘭たんに。
「わ、」
ぼうっとしていると、ぽつり、ぽつりと空から滴が落ちて来た。それは次第に強くなっていき、あっという間にザアアと音をたてドシャ降りになった。天気予報では雨なんて言ってなかったのに。傘を持っていない私と蘭たんは、慌てて屋根のあるところまで走る。
たどりついた時にはもう、二人ともびしょ濡れになっていた。
「うーわ、サイアク」
溜め息を吐く蘭たんのシャツは身体にぴったりと貼り付いてしまっている。私もカバンからハンカチを取り出してなんとか顔だけは拭く、けどこれじゃ大して変わらない。
ばちゃばちゃと地面を叩き付ける水の音が、どこか遠くに聞こえる。
「どうしよ。雨、止むかなあ」
「うーん。この調子じゃしばらくこのままだろうね」
蘭たんはスマホで天気予報を調べているみたいだった。「あー、ダメだ」と画面を私に見せる。見事なまでの雨マークだらけだった。
「どうしよう」
駅までは少しかかる。なんとかして走って帰るしかないだろうか……。そんなふうにうんうん唸る私に、蘭たんは言う。
「俺んち、すぐ近くにあるけど……寄ってく?」
すこしの間だけ、時が止まったみたいだった。そんなはずはないのだけれど。言葉を理解するのに、脳の処理速度が追い付かなかったのだ。そんな私の反応を見た蘭たんが、まずい、というような表情を一瞬見せた。その瞳が左へ右へと往復した。
「……一応言っとくけど、なんもしないよ」
「え、そ、そういうわけじゃ!」
なんだか今日は変な思考ばかりしている気がする。慌てて首を振った。蘭たんはただ優しさで提案してくれただけなのだ。それなのに私は一瞬固まってしまって、馬鹿みたい。でも今日は藤山ちゃんに変なことを言われていたし、そのせいもある。きっとそうだ。蘭たんは「はは」と他人事みたいに笑ってみせた。やっぱり掴めない人だ。
「じゃあ、お邪魔します」
ぽたりと髪から落ちた滴が私の頬を濡らした。いっそこのまま、雨が私のじゃまな感情全部を流しきってくれたらいいのに。