最初に声をかけられたのは、コインランドリーの前だった。

「あ、ねぇーキミ、いま暇?」

へらへらという言葉がひどく似合う笑みを浮かべた男が、まるで友人に向けるような気軽さで手のひらをこちらに見せて声をかけてきた。
つい今しがた洗濯を終えた衣服やタオルやらを詰めたトートバッグを両腕で抱えていた私は、まさか自分にその言葉を投げかけられたなんて思いもせず、彼の言葉に一歩分だけ動きを止めて、すぐにもう一歩を家路へと向けることにした。決して無視をしたわけではない。

その時の私は、一人暮らしを始めて初めて洗濯機が壊れるなんていうアクシデントに、少なからず精神的ショックを受けてイラついていた。それに洗濯物をバッグに入れている時に気がついたのだけど、気に入っていた靴下の片方がなくなっていた。ついでに昨夜から頭の奥が痛い。つまり機嫌は最悪だった。

「え、ちょっと、ねぇ!おねーさん!」

だから、がしっと二の腕を無遠慮に掴まれた時、私は大層不快そうに振り向いたことだろう。実際大層不快だったのだ。それに家電修理業者との約束が1時間後に迫っていた。

「わお、凄く嫌そうな顔」
「なんのご用でしょう」
「あ、ねぇいま暇?」
「忙しいです、さようなら」
「あ、ちょ」

不愉快な二の腕への圧迫を振り払って、大股でその場を後にした。帰ったら、今朝汚してしまった部屋を片付けなければいけないのだ。

ああ、重ねるように最悪なことが。
修理屋さんに、洗濯機はもう寿命だから買い換えた方がいいと言われてしまった。暫くコインランドリー生活が続きそうだ。


二度目は、パチンコ店の前だった。

「あれー?もしかしてこの前のおねーさんじゃない?」

ウィンと開いた自動ドアの向こう側から、ドンガラジャラという喧騒と一緒に流れ出てきたのは、先日の男。私は眉と目頭の間に皺を寄せて、不快の表情をこさえた。

「わー、ひどい顔」

この言葉は無視をした。
第一私はギャンブルというものが大嫌いだ。宝くじでさえ生涯買わないだろうと思っている。

「いやいや、ちょっと待ってよ」

歩くために振っていた手首をパシっと掴まれた。その手首は足を速めるために振っていたのであって、お前が掴みやすいように振ってたわけじゃないんだよ、と言う代わりに舌打ちをひとつ。

「うわ、舌打ちされた」
「なんのご用でしょう」
「いやぁ、パチンコ負けちゃってさー、もう軍資金もないしどうしよっかなーって思ってたら、おねーさんに出会ったから」

出会ったからなんだと言うのだろうか。
言葉を返す代わりに掴まれていた手首を振り払った。前回もそうだが、彼は案外簡単に振り払われてくれる。

「お金貸してくんない?」

マジかよ、この男。

「千円でいいから!倍…いや十倍で絶対返すから!次は絶対当たると思うんだよねぇー!」
「マジか、アンタ」
「え?」
「見ず知らずの人間捕まえて、金の無心って…クズじゃないですか」
「フフン、まぁカリスマレジェンドなところはあるかもね」
「会話が成り立ってませんね?」
「えー、じゃあ金はいいからこれから俺とデートしない?」

ダッシュで逃げた。
会話らしい会話もしなかったが、その時の私に分かったことは、彼が絶対関わっちゃいけない人種だということくらいだ。
蛇足だが、その日は眩暈もひどかった。


そして今日。
三度目にもなると、正直引越しを考えてしまう。

「あれ、ひさしぶりー」
「あなた、まさか私をストーカーしてたりしませんよね?」
「ちょ、たまたまだから!人聞き悪い言い方しないでもらえる!?」

人通りの少ない自宅アパート前での再会に、体の背面全体にさぶいぼが立った。
緊張や恐怖で心臓がドッドッドと音を立てるのを、強がって無視をした。まさかコイツに見られたままアパートに入るわけにもいかない。帰ろうとしていた足を適当な方向へと向けて歩き出すほか、私に選択肢はないように思えた。

「いやぁ、これはもう運命じゃね?だって三回だよ三回!もしかして、小指うずいたりしてない?」

平然と隣に並んで歩きながら、私に向かって小指をくいくいと動かすこの男は大分頭がイっている。そう確信しつつも、これといって行動に移せないまま当てもなく足を動かしていた。また逃げてもいいのだが、それで四度目の出会いでも体験してみろ、そこからは全トラウマのターンが完成である。むしろ次回再会したら今後死ぬまで出会い続けそうで恐い。この国から引っ越したい。

「てかさ、名前教えてくんない?こんなに会ってんのに、お互いの名前知らないじゃん」

彼の言う“こんなに”のレベルが低すぎて、私の頭では“名前を教える”という行為とイコールで結べないのだが。
私たちは知り合いと言うのもおこがましいレベルの間柄であり、私はつながり始めているこの縁を迅速に断ち切りたいと思ってることを彼に伝えるべきだろうか。

「俺、松野おそ松!よろしくー」

お得意のへらへら顔で片手を差し出してくる松野おそ松という変質者をどう対処すべきか。

「よろしくしたくないので」
「えー冷たい」

どこにも向かっていなかった足を揃えて止める。
数歩先で松野おそ松は立ち止まり、私を振り返った。

「あの、なんで私に声かけたんですか」
「え?いやぁだって顔憶えちゃったし、ばったり会ってるのに声かけないのも薄情じゃね?」
「違います。コインランドリーの前で、です」

そこで初めて彼と目が合った。今まで彼の目を見てこなかったことに、はたと気がついた。いやまぁ、どうでもいいんだけど。
そう、どうでもいいのだけれど

「…なんで、あなたが泣きそうな目してるんです」

どうでもよかったけれど、気になった。
松野おそ松は八の字の眉を頼りなく寄せて、瞳の奥に真っ暗な悲しみを飼っていた。なんだ、悲しみたいのはあなたにつきまとわれている私だろうに。なんだ、この人やっぱりやばい人だ。

「ねぇ、なまえ」
「はい?」

あれ?

「俺がお前に初めて会うのはいつもコインランドリーの前だったよな」
「あの、なんで、わたしのなまえ」
「コインランドリーが始点なんだ、いつもそう。家の洗濯機が壊れて、お前はコインランドリーで赤いカーディガンとローテーションで着てるお気に入りのワンピース五着と変なキャラのバスタオルとハンドタオル、それから、ああ、片方だけ見つからない靴下を洗う」

うわ、なんだこの人、気持ち悪い。ほんとに、ストーカーなんだ。
恐怖で指一本たりとも動かなくなって、こんなに恐いのに膝さえ笑わなかった。

「連絡がつかなくなった翌朝は、いつもそうだ」

松野おそ松は、それが死ぬほど残酷なことだと言うように歪に笑って見せた。

「また、やり直し。俺をもう一度一から知ってもらう。お前が行きそうな場所を毎日駆けずり回って、出来るだけ偶然を装って、じゃないとお前すぐストーカーだ変質者だ変態だって、お前に警察呼ばれてからはさすがに俺も学んだわ」

それでも、会いたくて仕方なくて、今日はアパートまで来てしまったと松野おそ松は項垂れるように笑う。

「なぁなまえ、信じられないのは知ってるけど、知ってるけどさ…俺、お前に会うのはもうこれで千と五回目になるんだ。ああ、ちょうど三年目か…そうだ、そうだったかもな」

こうべを垂れたままの松野おそ松は恐い。肩でわずかに笑いながら、意味の分からないことばかり言って、まるで私がなにもかも忘れてしまっているかのように話しかけてくる。恐い。こいつ完全に狂ってる。

「あと何回繰り返せばいい?俺はもうずっとお前に付き合っていく覚悟は疾うに出来てるけど、でもやっぱり毎回傷つくよ。お前、初対面の奴に厳しすぎんだもん」

松野おそ松が顔をあげた。

「こんなに好きだって、愛してるって、何度伝えて、気持ちが通じ合っても、また、ゼロからスタートだ」

泣いていた。
松野おそ松は、絶望にも似た顔色で、音もなく泣いていた。

「なまえ、こんなに、あいしてるのに」

片手で覆った顔から、透明な雫が無音でアスファルトに落ちていく。
私はといえば、ひゅっと息を呑んで、踵を返す準備をしていた。心臓がドグンドグンと先程より強く脈打って胸が痛い。

タイミング、というほどのタイミングなんてのはなかった。
体が動きを取り戻した瞬間に、私は弾かれるように走り出していた。それこそ、パチンコ玉のような勢いをつけて駆け出したものだから、道中何度も足がもつれて転びそうになった。それでも私の体を動かし続けたのは、芯まで冷え込んだ恐怖だった。

やばい。
あの松野おそ松という男、言っていることがまったく分からないし、支離滅裂で非現実的で、そう、結論を言えば、大変気持ち悪い。

誰だあんなものをこの現代に解き放ったのは、なんで野放しにしてるんだ。
すぐさま捕まえて、海外に売り飛ばすなり、殺処分するなりした方がいい。それくらいあの男はやばい。

「ううううああああああああ…っ!!!!」
「・・・っ!!!」

追いかけては来なかったが、遠くで獣の咆哮が上がったのを聞いた。
その頃にはもうアパートの階段の前。悲鳴もあげられないまま急いで階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。恐怖に焦りながら、鍵とチェーンロックをかける。
部屋中のカーテンを閉めて、ベッドの布団を掻き分けて潜り込み、遅れてやってきた震えが迷惑なほど歯をガチガチと鳴らすのを、ただ黙って、耐える。
そのうち、この芯を冷やすほどの恐怖を攫いに、まどろみと暗闇がやって来るはずだ。
それを待っている。

ああ、
頭痛がひどい。


汝、獣の咆哮を聞け
それは、どこから聞こえてくるのだろう。
(2016.07.04)


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