最初に声をかけるのは、いつもコインランドリーの前だ。

年季のいったコインランドリーのガタつく扉をスライドさせて、華奢な足がゆっくりと外のアスファルトを踏む。
連絡がつかなくなった日の翌朝、なまえは必ず此処に来る。毎回記憶を失くした朝に洗濯機を壊すらしい。そんな偶然有り得るわけないだろう?実際、洗濯機はずっと壊れたまんまで、それを忘れて洗濯を始めるから結局部屋は汚れるしコインランドリーに行かないといけなくなる。洗うものだっていつも同じだ。気に入っていると言っていた淡い青色のワンピースは、洗い過ぎで最近ではもうボロが見えている。
因みになまえが毎回連絡を入れている家電修理業者は、うちも昔から世話になっている自営の小さなところだ。彼女の病気が分かってからはそのことを伝えてある。彼女の現状を知ったおじちゃんは、毎回嫌な顔もせず彼女の家に行って同じ作業を繰り返してくれているようだ。おじちゃん様様である。

前回は、自分でも驚くほど順調だった。それもそうだろう、俺はなまえの好みを熟知しているし、これまで嫌気が差すほどあの手この手で一人の女を口説き落として来たのだ。前々回はちょっと魔が差してしまったところがあった分、慎重にもなれた。それに、初対面の時は堅苦しいくらいなのに打ち解けたら距離をぐっと縮めていくっていうのは意外と常套手段だと思う。まぁ、俺はもうなまえ以外に興味が沸かないから他の女を口説くこともないのだけど。他で活用する機会がないのが非常に残念だ。トド松か、あ、チョロ松辺りにでも伝授しておこうか。
まぁそれより今は目の前のなまえをどう口説き落とすかが重要だ。

「あの、すみません」

さぁ、もう一度最初から始めようか。




病名とか詳しいことはもう憶えていない。
もう三年も前のことだ。

あれは夏に入る前の、じめついた空気が体にまとわりつくような時期だった。パチンコ屋はクーラーが利いていて最高に快適だったのだけれど、軍資金がなくなれば、いくらクズと称される俺でも長居するのは躊躇われた。仕方なく、関節周りにまとわりつく熱気に舌打ちしながら歩いていた家路の途中。そうだ、あれもコインランドリーの前だった。碌た前方も見ずに歩いていたから、いや、歩いていたおかげで、俺はある一人の女とすれ違いざまに肩をぶつけ合った。
それがなまえだ。
躓くように前方へとんとんと足踏みをする彼女の腕を掴んで、「ごめん、大丈夫?」と声をかけた。それが始まりだった。
初対面の俺に対して嫌悪感を隠しもしないなまえに、いやに胸が高鳴ったのを今でも憶えている。一目惚れ、そう言われてしまえばそうだし、そんな簡単なものじゃないとも言える。だって、こんなに本気の恋を一目見ただけで判断したとは思えない。きっとこれは運命なんだ。おい、笑うなよ、俺はこれまでにないくらい本気だ。

それから何度か偶然に出会って、俺たちは恋に落ちた。あの頃は一日の中の一秒でさえ宝箱にしまいたいくらい大切で幸せだった。ああ、今でもそれは変わらないのだけど、最初とは大分状況は変わっちまったから。

それは突然だった。
急になまえと連絡が取れなくなった。勿論俺はこの世の終わりのような気分になってなまえのアパートへと急いだ。合鍵で開けた部屋の中は荒れていて、まだ何も決まったわけじゃないのに涙腺がツンと痛んだのだって憶えている。そこからは必死だった。町中走り回って、なまえの姿を必死に探し続けた。
案外、彼女はすぐ見つかった。そこは、俺たちが出会ったあのコインランドリーの前だった。
ああ、なんだ、ただ彼女は忙しくて携帯に連絡出来なかっただけだったんだ。もしかしたら何かが原因で携帯が壊れたのかもしれない。彼女は相当な機械オンチでもあるのだ。なんだいつもどおり、彼女はコインランドリーに居て、怪我もしていないし、事件に巻き込まれたふうでもない、とんだ俺の取り越し苦労だった。
ため息みたいな笑いがこぼれて、俺は一目散になまえに駆け寄った。

「おい、なまえ!こんなとこに居たのかよーお兄ちゃん心配したよー?連絡出来ないなら家まで来てよー」
「…すみませんが、どちら様ですか…?」

おふざけや冗談ではない懐疑的な眼差しが俺を見上げた。
固まって動けない俺の横をすり抜けていくなまえを反射的に捕まえて、冗談はよせと、もう充分驚いたからと、俺が悪いことをしたのなら謝るからと、彼女の言葉など全て遮ってまくし立てた。恐怖に歪む彼女の表情に、これが冗談でもおふざけでも、ましてや夢なんてものじゃないんだってことを悟った。
近所の人が通報したのか、現れた警官には人違いだったと言い張って厳重注意を受けた。

その日は死んだような気分で帰宅して、夕飯も弟たちの声も蔑ろにしてソファに沈んだ。なにが起こったのか理解が及ばなかったし、こんな別れ方想像もしていなかった。泣きたいのに、泣けなくて、苦しいのに、混乱して上手く気持ちが動かなくて、なにもかもがひどく空虚で辛いもののように思えた。
ふとソファと壁の隙間に目がいった。そこには先日なまえが遊びに来た時に履いていた靴下が一枚、大きな埃のように挟まっていた。それを引っ張り出して、目の前にぶら下げる。あの日は、弟たちが都合よくみんな出払っていて、恥ずかしがって嫌がるなまえを宥めて、この部屋のこのソファの上に組み敷いたんだ。腰が震えて自身の欲を出し切ってすぐ見計らったように帰って来た弟たちに慌てて、なまえは結局その日裸足で帰って行った。これはその時の片割れの靴下だろうか。手に丸めてバックに詰めたように見えたけれど、まさかこんなところに落としていたなんて。
まるで、シンデレラのガラスの靴だ。
そこまで考えて、涙が出た。そうだ、なまえは確かにここに居た。なまえは確かに俺の腕の中に居たんだ。夢なんかじゃない。俺は冗談でもふざけてもいない。なまえは、確実に俺の恋人だったはずだ。


再会は、存外早かった。
数日と経たないうちだ。あのコインランドリーの前で再度なまえと出会った。

「すみません」

何故か、他人行儀な言葉が出た。
けれどそれは正解だったようだ。なまえは先の警察沙汰になったこと自体を憶えていない様子で、可愛らしく小首を傾げて、けれど人見知りな彼女らしく怪訝そうに

「はい、なにか?」

その言葉で、俺は全てを理解した。


そこから、俺はもう一度なまえに尽くして口説き落として、俺の言葉を信じてもらえるまで信頼関係を築いて、彼女を説得して一緒に病院に行った。
医者が言ったのは、簡単に言えば「記憶障害」だそうだ。自分の名前や家族、昔からの友人のことは憶えているようだが、一定時期からの記憶が持続していない。つまり、ある日を境に過去のなまえに記憶がリセットされるということらしい。人生セーブアンドロードが出来ればなぁなんてのはゲーム脳の言葉だが、現実がこうだと知ったなら、きっとみんな「やっぱりいいや」と言うはずだ。強くてニューゲームなんて医学的に有り得ないのだと、今の俺なら誰彼構わず罵れる。

不安げに揺れるなまえの瞳を見て、俺は無理やり笑顔を作った。「大丈夫大丈夫!心配すんなって!だって、この人間国宝カリスマレジェンド様が彼氏だよ?」なんて、痩せ我慢なんて言葉で収まっただろうか。
医者は、投薬や手術で治る可能性は低い、どんなタイミングで正常に戻るかも分からないと、諸手を挙げて首を振った。投薬や手術は出来るけど、体への負担は大きい、現状と上手く付き合っていくのもひとつの手だと、医者は言った。医学を嗜んでもいない人間にも分かったことは、なまえは見放されたということだった。相応の施設が、とかいう話が出た時には、既に俺はなまえを連れて診察室を出ていた。

「ごめん、ごめんねおそ松…、ごめんなさい」

自分は現状を把握してもいないくせに、自分が悪いと泣くなまえに俺はなにも言えず、ただ抱きしめてやることしか出来なかった。
それからは、ただ記憶がなくなる日が訪れるのを二人で肩を寄せ合い怯える日々。けれど、何気なく迎えた一緒の朝に、なまえが異常なまでに怯えた表情で俺を迎えてから、俺は朝までなまえと居ることをやめた。
なんで、どうして、なにを言ったって現状はどうにもならなくて、心にもない罵声をなにも分からないなまえに浴びせたこともある。医者は、俺が出会う前からなまえは何度も同じ時間を繰り返していたのだろうと言った。本当に辛いのは、全てを憶えている俺なんかじゃない。いくら幸せな記憶でも忘れてしまうなまえの方なのだ。こういうのは憶えている方が辛いとよく言うけれど、そうじゃない、なまえは優しいから、俺が何度も何度もなまえの恋人になっていることを知れば、きっと自殺すら考えてしまうほど追い込まれてしまう。だから、俺はなまえのリセットに合わせて、俺自身もリセットする。

はじめまして
(もう何度目かも数えきれない)
お友達になりましょう
(本当はもっと親しい仲なんだよ)
すきです
(君は憶えてないけれど、最初から)
あいしてます
(これは永遠の誓いです)




「…おそ松兄さん、あのさ」
「なんだよ、チョロ松」
「…今日、なまえさんと町で会ったんだけど…」
「ああ、うん、近々また連れて来るよ。今回はどうやって落とそうかなぁ」
「おそ松兄さん…!」
「黙ってろ」

本当に辛いのは、俺なんかじゃないんだから。



プツン



あれは、なんの音だったのだろうか。

俺は分かったのだ。なまえが、俺を忘れてしまうのなら、なまえの世界に俺だけが居ればいいのだと。なまえの他に向く目を制限すればいい、何度も繰り返す日常なら情報は少ない方がいい。その方がきっと世界はすっきりする。大丈夫、俺はもとからニートだし、なまえだって続きもしないアルバイトを転々としてただけだ。大丈夫、これからは俺となまえだけの世界だから、はじめましても友達になって愛しあうまでもたった一日できっと済むはずだ。

「…こ、こは」
「おはよう、なまえ」
「だ、だれ、なん、な、なに」
「ああ、あまり動かないで、それ本物の手錠だからオモチャみたいに簡単に壊れないよ」
「たす、たすけっ」
「ねえ、怯えないでなまえ…俺はおそ松、お前の彼氏だよ」
「なに、あな、た、なに言って…」

大丈夫、怯えないで

「あいしてるよ、なまえ」

世界が終わるまで、俺とだけ愛しあおう。


そして獣は檻の中
めでたし、めでたし
(2016.07.04)


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