第五幕 松野チョロ松の愛敬



僕ら六つ子は六人も居るのに、まともなのが一人も居ない。揃いも揃ってクズばっか。その中で三男の僕なんかはまだまともなほうで、六つ子きっての常識人と言って過言じゃない。そんな僕らには、僕ら六つ子なんかと比べようもないくらい、まともで常識的で立派な社会人である姉が一人居る。
どうしてあの姉さんあって、僕らみたいなクズが弟なのか。僕は常々疑問だ。
原因のひとつを上げれば、姉さんが僕らを甘やかしすぎたっていうのがあるかもしれないけれど、それは結果論への悪質な責任転嫁であり、そんなことを思う時点で、僕らのクズさは底知れずだと体言しているのである。

姉さんは働いてて稼ぎもあるし、家事を一通りこなせるくらいに自立しているのに、この松野家に留まって、家にお金を入れて僕たちの面倒までみてくれる。多分、姉さんほどの聖人にこれから先の人生、出会うことはないだろう。

「おはよう、チョロ松。今日は早いんだね?」
「おはよう、なまえ姉さん。うん、今日はにゃーちゃんの握手会チケットの先行発売日だからね!早く行って並ばないと…」

僕も結構早朝に起きたつもりだったけれど、姉さんは既に身支度を終えて、朝食を作っているところだった。いったい姉さんは何時から起きているんだろうか。
そういえば布団に一松の姿がなかった。あいつ、またなまえ姉さんの布団に潜り込みに行ってたのか。じゃあ姉さんも寝ていられないわけだ。

「じゃあ、チョロ松の分もお弁当作ろうか?朝ごはんも食べて行きなさい」
「ありがとう!凄く助かるよ。今日は長丁場になりそうだったし」

にっこり笑って、すぐに父さんの予備のお弁当箱を出して洗ってくれる姉さんは、本当に出来た人だ。顔だって、家族の欲目とかじゃなく美人だし、すぐお嫁に行けそうなのに、姉さんってば恋人もいないみたいだ。それはそれで、僕らは嬉しいんだけど、姉さん自身はそれでいいのかな。

「あれ、そういえば前にスーツでご飯作ると汚れるからやらないって言ってなかった?」

そうだ、姉さんは朝食の準備を終えてから着替えると前に言っていた気がする。どんな話の流れでそんなことを話したかは忘れてしまったけれど。今日の姉さんは、スーツ姿にエプロンで朝食とお弁当の準備を進めている。

「ああ、今日はちょっと早く家を出るから。洗濯も終わらせてもう干してあるし、あとはご飯の準備して出るだけ」
「そんなに仕事忙しいの?」
「…ん、まあね」

そっか。社会人っていうのはやっぱり大変だ。果たして、僕にそんな社会の歯車になることは出来るのだろうか。働きたいって気持ちは強いけれど、いざ姉さんの姿を見ていると、朝から晩まで拘束される社会人には、どこか言いようのない疑問を感じてしまう。分かってる、これは僕の逃げでしかない。働きたい、働きたくない、僕の心の中に両極端な僕が居る。

「ふふ、心配しないで。べつに忙しくて死ぬわけじゃないから」
「あっ、え、ぼく心配そうな顔してた…?」
「んー、まぁ私の心配っていうか、自分の心配?」
「うわ、なんでバレるの」
「チョロ松は分かりやすいからね。働きたいって悩むのもいいけど、やってみなきゃ分からないことのほうが多いんだから、失敗してもいいから一度やってみるといいのよ」
「…そういうもんかな」
「そういうもんだよ。肩肘張っても仕方ないよ、飛び込んで駄目なら逃げてきていいから」
「……それって、姉さんのところに?」
「うん、いつでもここに居てあげるから。失敗してもいいから飛び込んでおいで」

女神のような微笑みで、姉さんは僕の頭を撫でてくれた。姉さんはどうして、こんなクズの僕にも優しいんだろう。泣きそうになったから、慌てて台所を後にした。洗面所に駆け込むと、情けない顔の自分が鏡に映った。泣きそうになったことだって、姉さんにはバレバレだっただろう。恥ずかしい。けど、僕らのことを一番に理解してくれることが凄く嬉しい。

身支度を終えて台所に戻ると、二人分の朝食とお弁当がテーブルの上に用意してあった。

「父さんと母さんまだ起きて来ないから、一緒に食べよう、チョロ松」
「うん」

台所にあるテーブルはいつも父さんと母さん、それから姉さんの三人が使っている。僕らは生まれてからずっとあのちゃぶ台だ。僕は初めて台所でご飯を食べることに、少なからずドキドキしていた。家の中のことでも、初めてのことに直面してドキドキするなんて子供みたいだ。
姉さんと向かい合う椅子に座って、作りたての温かな朝食に手を合わせる。

「いただきます…」
「はい、いただきます」

電子レンジでチンしても美味しいのに、作りたてが美味しくないわけがない。なんだか他の兄弟が味わえないことを味わっている気がして、ちょっと、いやかなりの優越感だ。しかも姉さんと二人で食事してる。きっと他の奴らが見たら最高に羨ましがるに違いない。

「今日も、遅いの?」
「ん?そうねぇ、いつもと同じくらいだと思うけど」
「そっか、最近は物騒なんだから気をつけなよ」
「うん、ありがとう」
「…もし、姉さんに万が一のことがあったら」

そんなこと、あろうものなら僕ら六つ子が黙ってない。もし姉さんを傷つける奴が居たなら、どんな手を使ってでも抹殺するだろう。殺すってのは過剰な表現かもしれないけど、死ぬっていうのは色んな意味があるから、そいつが一番望まない形を選ぶことは明白だ。
姉さんは昔から一人でなんでも出来たし、なんでも背負ってきた。勿論それには僕らのことも含まれる。そんな姉さんだから、もしひどい目に遭ったとしても、一人で抱え込んだり、解決しようとしたりするんじゃないかって思うと、僕らは心配なのだ。僕らじゃ頼りないかもしれないけど、それでも、僕らは、僕は姉さんの役に立ちたいっていつも願ってるんだ。

「大丈夫、ちゃんと頼るから」
「姉さん…」
「チョロ松のこともみんなのことも、ちゃんと頼るから心配しないで。ね?」
「また、バレバレだった…?」
「ふふ、私、チョロ松マスターかもね」
「はは、姉さんには本当、敵わないなぁ」

姉さんの、敵わなくて凄いなと思うところはいっぱいある。まず料理上手だ、掃除洗濯だって完璧。聖人か女神かと思うほどには心優しいし、純真で穢れを知らない心と体を持っている。顔も性格も可愛くて、美人。完璧を絵に描いたような人なのだ。
そしてなにより凄いのは、僕ら六つ子の気持ちをちゃんと理解してくれるところ。僕はおそ松兄さんに続いて兄弟の中では悪戯の過ぎるほうだった。足も速かったし、体を動かすことには自信があった。けれど、成長していく過程で、それだけでは駄目なんだと悟った。運動は上には上が居た。勉強も頑張ってみたけれど、思うように成績は伸びなかった。せめて真面目に、常識人になろうと努力はした。モラルだとか、一般常識だとか、そういうのは自主的に望んで覚えるものじゃなくて、自分の考えの上に成り立つものなのだと気づいた。だから根本的に僕の上にモラルや常識は正しい形では築けないのだと知ったのも、本当はずっと昔のことだ。
そんな悩みに答えや出口なんてあるわけがない。ぐるぐると輪のように終わりのない悩みを抱えていた僕に、姉さんだけが気づいてくれて、姉さんだけが優しく声を掛けてくれた。

「チョロ松の好きなことはなに?」

そう優しく問われたとき、情けないことに、僕はその頃大好きだったアイドルの顔が一番に浮かんだ。恥ずかしかったけれど、それを正直に言うと、姉さんは僕に呆れもせず笑って答えてくれた。

「じゃあ、とりあえずそのアイドルに熱心になってみたらどうかな?」

まさに目から鱗。そんな変な寄り道、人生において有りなのかって疑問のほうが大きくて、思わず怪訝な顔をしてしまった僕に、姉さんはまたも優しく言うのだ。

「好きなことを続けてみなさい。そうしたら、チョロ松が本当はなにがしたいのか分かる日が来るよ。悩むのはいつでも出来るけど、好きなものを追いかけられる時間ってのは意外と短いの。だから、今はその時間を大切にしてあげなさい」

悩んで悔やんで落ち込んで暗くなっていた僕の心に、姉さんの言葉が光を入れた。あのときの姉さんの言葉があったからこそ、僕は今アイドルの追っかけなんかをしているのだ。結果だけ見れば良いのか悪いのか分からなくなるかもしれないけど、でもあのとき確かに僕を救ったのは姉さんだった。あのままずっと悩んでいたとしたら、きっと今の僕はなかっただろう。空回りする頑張りだけ続けて、いつかそれに挫折して、今よりもっとクズになっていたかもしれない。
姉さんは僕の救世主で、女神で、そして大好きなたった一人の女性だ。

朝食を終えて、姉さんが出勤のために玄関へと向かう。僕はそれを見送るために一緒に玄関へと向かった。

「じゃあ、いってくるね」
「うん、気をつけてね」

微笑む姉さんは、ときどき儚く見える。
姉さんは女性だ、いつかは誰かのところに嫁いで、この家を出ていくことになるだろう。僕ら六つ子を置いて、姉さんはきっとどこかへ行ってしまう。それが分かるからこそ、僕らは姉さんのことを愛しく思うのかもしれない。
離れないで、見捨てないで、置いていかないで。そんな叶いもしない願いを、僕らはそれぞれ願っている。姉さんが僕らの気持ちを分かるように、僕だって他の兄弟の気持ちくらいは分かるのだ。

「なまえ姉さん」

玄関を出ようとする姉さんの手を掴んで、引き止める。急ぐ気持ちを押し殺して、ゆっくりと抱きしめた。

「チョロ松…?」

姉さんが、戸惑いを含んだ声を出す。僕は姉さんを抱きしめながら、色んなことをぐるぐると考えていた。姉さんは仕事があるから急いでるし、早く放してあげなきゃいけない。でもこのままどこにも行かないでほしいって毎日思ってる。姉さんは僕の理想、僕らの理想。だからそんな存在をどうしても手元に置いておきたい。大好きな姉さんには、ずっと目の届くところに居てほしい。会社なんて辞めてくれればいいのに。社会なんかと繋がんなくていいのに。でもそんなこと叶わない。この考えは現実的じゃないし、利己主義過ぎる。分かっているのに、僕らはどうしたって考えてしまう。姉さんをずっとここに縛り付けておく方法、姉さんと永遠に一緒に居られる方法、僕らが姉さんに心底依存しているように、姉さんが僕らに心の底から依存してくれる方法。そんなのあるわけないのに。姉さんは僕らと違って、頭がおかしいわけじゃない。姉さんだけが普通の人だ。常識人で、僕らみたいなクズにも優しい、普通の人。
だから、僕らは僕らの欲望だけで、姉さんを縛り付けるわけにはいかない。
ああ、僕の中にはやっぱり両極端な僕が混在する。
早く放してあげなきゃ、行かないでほしい。でも、そうだ、一言だけ伝えておこう。

「大好きだよ、姉さん」

この手を放しても、お願いだから戻って来て。


愛敬すべき僕らの姉さん


前項* 戻る 次項*

ALICE+