最初に声をかけられたのは、コインランドリーの前だった。

「すみません、これ落としませんでしたか?」
「え?」

私はちょうどコインランドリーから出てきたところで、トートバッグを両腕に抱えなおしているところだった。
だから、道端になにかを落とすわけはないのだけど、親切そうなその男性はどこか申し訳無さそうにこちらを伺い見ながら、真っ赤ながま口財布を私に差し出している。

「あ、いいえ…私のではないです」
「あ、そうなんですか?あちゃー、困ったな…ぼくこの辺りにある交番知らないし…」

心底困った顔で、がま口を見ながら頭を掻く男性は、格好を見れば赤いパーカーとデニムというカジュアル過ぎる姿のわりに常識人らしい。いやこれは完全なる私の偏見だ、カジュアルな格好した若者の誰もがへらへらしてるわけじゃないだろうに。

「えっと、よければ案内しましょうか…?」
「えっ、いいんですか?」
「はい、どうせ通り道ですし」
「ありがとうございます」

安心した顔で、男性はへらりと屈託ない笑みを浮かべる。あどけない少年ぽさが残る、爽やかでなんとも好印象。
あまり人が好きではない私でも、少しばかり警戒心を緩めてもいいかと思わせるほどだ。

「壊れたんですか?」
「えっ?」

交番に向かう道すがら、男性は私の抱えるトートバッグを目で指しながらそう言った。

「あ、すみません。洗濯機、壊れたのかなって」
「あ、ああ。ええ、そうなんです」
「困りますよね、ああいう生活に馴染んだ家電が突然壊れたりすると」
「本当そうなんですよ、急に壊れるからもう私ムカッときちゃって」
「あ、もしかして物に八つ当たりしちゃったり?」
「わ!よく分かりましたね…、そうなんですよ…洗濯中に急に壊れるから、つい」

つい、洗濯前の衣服やらをそのへんに投げ捨てて、水の入った洗濯機を蹴り上げてしまった。
とりあえず、水と洗剤にまみれた洗濯物を応急処置として浴室に投げ入れることにした。しかし、濡れた床に気付かず、滑って転んでびしょ濡れの洗濯物をそこら中に撒き散らしてしまったのだ。そのことで更に沸点がきて、後はもうなるようになれと苛立ちの任せるまま暴れてしまった。
正直途中からは、よく滑るフローリングで楽しんでいたことを白状しよう。その後冷静になった私が、五分前の私を殴り倒したいと思ったことは明白である。
とにかく、今日中に家電修理業者に来てもらえるよう連絡したから、帰宅したらまず部屋を片付けなければ。

「でも、近くにコインランドリーがあって良かったですね」
「そうですね、引っ越して来た当初はお世話になるなんて思いもしませんでしたよ」
「なにがいつ役に立つか分かりませんね」
「本当です」

私たちは自然と笑いあって、そんなに長い道のりじゃないけれど絶えず会話を楽しんだ。こんなことは殆んど初めての経験で、ぽかぽかと胸の奥がじんわりと暖かくなる。
交番の前で彼と別れる時、人見知りの私には珍しく、初対面の彼と離れがたく感じていた。


二度目は、生鮮が安いスーパーのお肉売り場だった。

「あ、あれっ、この間の」

なんと、話しかけたのは私の方からだ。
見覚えのある赤いパーカー、振り向いたその胸元に松マークのアイロンプリントを見止めて、ああやっぱりとも思った。顔を覚えるのは苦手なのだけれど、何故か服装を覚えるのは昔から得意だったのだ。逆を言えば、同じ服装の人物を見分けるのには定評が無い。
子供の頃は、よくお母さんと間違えて知らないおばさんについていき迷子になったものだ。

「ああ、コインランドリーの」

今回は失敗しなかったようだ。
へらりと屈託ない表情で振り向いた彼は、私を見止めるとすぐさま相好を崩してはにかんだ。不覚にもそれが可愛くて、少しだけ息がつまる。

「洗濯機は直りました?」
「あ、いいえそれが、もう寿命だって言われてしまって…暫くコインランドリー生活です」
「それは出費がかさみそうですね」
「まったくです」
「あ、そうだ先日はありがとうございました、交番の場所まで案内していただいちゃって」
「いえいえ、大したことはなにも。でもこんなところで偶然ですね?」
「そうですね、お買い物ですか?あ、いやそりゃお買い物ですよね」

当たり前のことを聞いてしまったと、恥ずかしさを誤魔化すように笑う姿に、なんだか胸がきゅっと締まった気がした。なんだろう、この人の前だとやけに胸辺りが暖かくなったり痛くなったり。…病気だろうか。

「えっと、あなたもお買い物、ですよね」
「おそ松、です」
「へ?」
「えっと、ぼくの名前、松野おそ松っていうんです。よければ、あなたよりそっちで呼んでもらいたいなって」

また、胸がきゅっと締まった。

「あ、そ、うですね、えっと私、みょうじ、なまえっていいます、あの、はい…」
「なまえ、…さん。良い名前ですね」

うわ、また

「おそ松さんも、良い名前、です」
「ありがとうございます」

それから、焼肉用の肉を買いに来たというおそ松さんはカゴに入るだけ山盛りに肉を入れて行き、驚きながらもそれを見守っていた私は安売りの合挽き肉を200gだけカゴに入れた。

「凄い量ですね」
「ああ、うち男が多くて」
「そうなんですか」
「そ、弟が五人」
「えっ」

耳を疑った。それはまた大家族だ。

「俺、長男で、しかも六つ子」
「えっ!?」
「はは、目すごくおっきい」
「え、あ!からかいましたね?」
「あっはっは」

いつの間にか砕けた話し方をするおそ松さんに違和感も感じず、私は頬を膨らませて彼を見た。

「あーごめんごめん、からかってないよ!ほんとに俺、長男だし弟五人」
「…おそ松さんが長男ぽいのはなんとなく感じるので、信じます…」

タイムセールの卵をカゴに入れる。
おそ松さんはニヤニヤというかへらへらというか、そんな腑抜けた顔で私を見ていたけれど、それも不快に感じなかった。そういえば、最初はぼくって言ってたのにさっきから俺って言っているのにも気がついた。けれど、なんだかそれが嬉しい。

「信じてもらえてよかった」

心底嬉しそうに笑うおそ松さんに、今度は胸がぎゅっと強く締まって泣きそうになった。


三度目の今日は、偶然ではない。

先日スーパーで再会し、初対面の時よりも打ち解けた私たちは自然と連絡先を交換して、次の休みに遊ぶ約束をしたのだ。機械オンチの私は携帯に連絡先を登録したり見たりするのも苦手で、全ておそ松さんにやってもらえたのは、大変有難かった。メールは近頃のご老人よりも出来ないので、今日会う場所などは電話で話して予定を立てさせてもらった。人見知りの私にとって、こんな短期間に他人と、しかも男性と仲良くなるなんて奇跡なんて言葉じゃ片付かないほどの大事件だったのだが、なんていうか、これは

「恋、しちゃった…」

理由なんてそれしか思い浮かばない。
最初は紳士的な人かと思っていたけれど、話せば想像以上にフランクで、冗談も言うし下ネタなんかも会話に盛り込んできたりする。常ならば私が嫌いなタイプの人間だ。でも、言葉の節々に見せる寂しがり屋なところとか、優しいところとか、長男らしく人に頼らせるのが上手いところだとか、私の胸を暖かくしたりきゅっと締めつけたりするところの方が、ずっとずっと多くて、気がついた時にはもうどっぷりとハマってしまっていた。
結局ぜんぶ惚れた欲目と言いますか、恋は盲目を現在体言中と言いますか。

待ち合わせ場所に三十分も早く着いちゃって、ショーウィンドウに映る姿を確かめながら、先程からスカートの裾や髪の毛ばかりを直している。
ああ、恋する乙女ってのは大変だ。よくみんなこんな気持ちを抱えていられるものだ。出来ることなら、今すぐ高鳴りっぱなしの心臓を取り出して綺麗に洗ってさっぱりさせてやりたいくらいだ。そうしたら、このそわそわもドキドキも治まるかもしれない。

「うわ、ごめん、待たせた?」

ドキッと心臓が跳ねる。
恐る恐る顔を上げて見上げれば、さらさらの黒髪。アホ毛か寝癖かわからない髪の毛がぴょこんと二本生え際辺りから重力に逆らっている。少し視線を下げて、ぱっちりした目に頼りない八の字眉毛、猫かアヒルみたいに緩やかなカーブをえがく口元。白いTシャツに松プリント、真っ赤なツナギを腰元で結んでいる。

「どしたの、そんな舐めるように見つめちゃって」
「っ、あ、いや!」
「いやーん、なまえちゃんのエッチー!」
「ちが、ちが…っもぉー!おそ松さん!」
「あははは!」

テンパる私の髪をわしゃわしゃと掻き混ぜて、おそ松さんは溌剌と大声で笑う。
ぐちゃぐちゃになった髪は、せっかく時間をかけて整えたり巻いたりしたのだけど、その笑顔で全てどうでもよくなってしまった。
もう、もう、と怒った振りを続けながら、手櫛で髪を整えていると、先程とは正反対な柔らかい手つきでおそ松さんの温かな手が、私の髪を旋毛から毛先までを丁寧に撫でていった。

「ん、ごめん。髪ぐちゃぐちゃにしちゃった」
「…ほんとですよ、せっかく色々頑張って整えたのに…」

少しだけ恨みがましく言ったけれど、心は先程から浮かれっぱなし。私には髪の毛にも神経が繋がってるのかと思うほど、おそ松さんの手が上下に行き来するたび、その体温を感じるたびに、ドキドキがビリビリでもうやばい。

「でも、これはこれで可愛い」
「……」

息を呑んだ。

「どんな髪型でも、なまえは可愛い」

顔を上げれば、おそ松さんとの距離が凄く近かった。一瞬では状況を把握できなかったほどだ。
コツンと額が触れて、おそ松さんがどこか辛そうに、溜め込んだ息を吐き出すように言葉を声に乗せる。

「すきだ」

たぶん、数秒、数分、もしかしたら数時間、息が止まった。

「…ほんとは、このデートの最後に言おうと思ってたんだけど、ダメだった…我慢できなかった…」

そっと顔が離れて、情けないって自嘲するような、耳まで朱に染めたおそ松さんの顔が見えた。
きっと私は、彼以上に耳や首までも真っ赤だろう。だって今まで経験したことがないくらい全身が熱い。

「っだぁー!!くそっ!!」
「え!?」
「あーやばい、俺ダサい、超ダサい!」
「わわっ」

半ば叫びながら抱きすくめられて、私の鼻が彼の肩とぶつかった。全身が沸騰するように熱くて、力強く回る腕の感触に脳天がクラクラする。

「は、あ、の、おそ、まつさん」
「ダメダメ、もう一回お前のそんな顔見ちゃったら、俺絶対キスしちゃうから」
「ひぃぅ!?」
「あはは、豚みたいな声」

言葉ではからかうくせに、私の体を締めつける腕は先程より力を増して、まるで私が何処にも行けないように、それは甘く閉じ込められる檻のようでもあった。

「…ごめん、俺本当超ダサい…だから、今日のデート絶対成功させるからさ、今日の最後にちゃんともう一回告白させて…」
「…おしょま、つさ、ん」
「あはは、おしょまつだって…、もー本当、ダメだよなまえ、我慢してんだから今喋んないで、全部可愛くて俺どうにかなりそう」

どうにかなりそうなのは断然私の方だと、叫びたかった口は閉じた。代わりに、そっと体重をおそ松さんに預けて、そろりと背中に腕をまわす。一瞬だけ僅かに震えた彼が、ゆっくりと私の背中を撫でた。

その日のデートは絶対忘れられないほど最高のデートで、生きててよかったと思うほど楽しいひと時だった。

「好きです、俺と付き合ってください」

デートの最後に紡がれたおそ松さんの告白に、私はもう立っていられなかった。泣きながら必死に頷いて、少しでも私の気持ちが伝わってくれることを、震える唇の代わりに何度も何度も願う。

夕日と、点き始めた街灯の温かな光が目に染みて、おそ松さんの嬉しそうな表情ごと脳裏に焼きついた。


それからの日々はきっと今まで生きてきた中で最高の日々だったと思う。
おそ松は、私の機械オンチなところもガサツなところも口が悪いところも、なんだかずっと知っていたかのように何でも受け止めてくれて、私と居られること自体が幸せだと言うように一緒に居てくれた。
どこが触れても気持ちよくて、なにを話しても楽しくて、ただただ幸せに溺れる日々。
これからケンカだってするかもしれないけれど、でももう私の生涯にはおそ松がずっと寄り添ってくれるのだろうという漠然とした確信があった。これ以上ない満たされた未来だ。

ああ、最近の悩みがひとつだけ。
梅雨時期や生理のせいだと思うのだけど、頭がどっしりと重たく痛むことが増えてきた。偏頭痛ってやつなのかな。ひどい時は眩暈がして、一度だけ嘔吐もしている。本当は病院に行った方がいいのだろうけど、おそ松に変な心配をかけたくなくてなかなか機会をつかめないでいるのだ。

ああ、また。
まるで内側から牙を剥かれているような、ジクジクした痛みから始まって、ぎりぎりと噛みしだかれるような重たい痛みに変わっていく。こうなるともう立てない。

どこか遠くで、野犬の遠吠えが聞こえた。


獣はゆるやかに蝕む
ゆっくり、ゆっくりと
(2016.07.04)


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