うちの隣のアカツカ不動産には、なまえちゃんという女の子が派遣社員として働いている。
俺らと同い年で、母さんや数えるほどしか会ってないはずの父さんまでもが気に入るくらい出来た子で、トト子ちゃんほどじゃないけど可愛いし、俺らのことを知ってるのに偏見なく隣で笑ってくれるくらいには優しい子だ。
どうしてそんないい子が俺らと知り合いかと言うと、それはまぁ単純な話だ。家の前の道でたまたま出会って、コミュ力の高いおそ松兄さんが話しかけて、女子力の高いトド松が連絡先を聞いて、クソ松が意味不明な言動で引かせて、十四松が騒いで笑わせて、チョロ松兄さんは兄弟の非礼を詫びるっていう体でヘコヘコ話しかけて、俺は後ろで見てることしか出来なくて、よく分からないうちに他の五人の友達になっていた。ほら、単純な話だ。最低限コミュ力のある奴らとは仲良くなれちゃう、そんないい子なのだ。なまえちゃんっていう子は。

出会って仲良くなってから、なまえちゃんは仕事の昼休みによく松野家に来るようになった。母さんが毎回昼ごはんに誘ってたみたいで、俺らにとっては朝食のそれを七人でちゃぶ台囲んで食べることも今じゃ日常だ。最初は申し訳無さそうだったなまえちゃんも、一人暮らしだから食事代が浮いて有難いと遠慮をしなくなったみたいだ。その代わり、週休二日で訪れる休みの日には毎回と言っていい頻度で顔を出して、手土産を持ってきたり、母さんの家事を手伝ったりしている。本当に出来た子だ。うちの適当な飯なんかで、気にしなくていいのに。あ、でも、なまえちゃんが来るようになってから少しばかり献立が豪華になった気がする。なにからなにまでなまえちゃん様様かよ。

とにかく、なまえちゃんっていう子は、俺なんかが近づいていいかも、まして触れていいかも分からないほど出来たいい子だ。実際、話しだってそんなにしたことはない。

そのなまえちゃんが、なぜかは知らないけど、昼前に訪問して来た時から機嫌が悪い。

前述した通り、なまえちゃんてのは突然話しかけてきた同じ顔した成人男性の集団と仲良くなれちゃうほどコミュ力の高い子だ。そのはずだ。
しかし、今この場にいるなまえちゃんは、俺が見たこともない顔でムスッとあからさまに不機嫌を露わにしている。
ここは松野家の居間なのだけれど、こんな時に限ってこの家に誰も居ない。おそ松兄さんとクソ松は起きてすぐ新台がどうのと言ってパチンコ屋に行ったし、チョロ松兄さんはレイカだとかいう地下ドルのライブに行った、十四松は早朝から野球の練習、トド松に至ってはデートとかふざけたこと言って出掛けて行った。母さんはパートだし、父さんも仕事だ。
なぜだ。なぜ、ここには俺しか居ないんだ。こんなことになるなら、俺も出掛けておけばよかった。だって、まさか誰も居なくなるとは思わなかったし!誰だよ、なまえちゃんに「ごゆっくりどうぞ」とか言ったの、ああ出掛ける間際の馬鹿松とクソ松だよふざけんな!!本当にごゆっくりしてるよ彼女!めちゃめちゃ不機嫌な顔でな!!!

しかもここまで約三十分。彼女は一言も喋っていない。あれだよ?他の兄弟とかには「いってらっしゃい」とか言ってたよ?俺らの会話なんて「おじゃましてます」「…どぞ」で終了だよ。気まずい以外の言葉が見つからない!!!!
でもさ、ここで俺が席を立ったら、なまえちゃん一人になっちゃうよね。他人の家で一人って、俺なら気が狂う。それなら、別に仲良くもないゴミと一緒の方がいいかなって、いいかなって思ってね?違うから、この機に仲良くなれんじゃないかとかそんなことこの最底辺の生ゴミが考えるわけないじゃないですか。あわよくば、他の奴らより一歩リードしたいとか、そんなの全然頭の片隅にもないから。本当に。

結果的に、不機嫌な女の子と二人きりの気まずい空間完成です。本当にありがとうございます。

これ、やっぱり俺のせいなんだよな…。お前みたいな燃えないクズゴミと同じ空気吸ってるだけで気分が萎えるんだよふざけんな、とか思われてるんですよね。分かります。ありがとうございます。
じゃあもうこれ、俺がどこか行くしかないよな。俺がどっか行けば、なまえちゃんも帰るかもしれないし。そうだ、せっかくの休みなんだろうし、こんな無駄な時間過ごすメリット、彼女にはひとつもないはずだ。

「……あの、ぼく、」
「一松くん」
「はいぃい!!」

出掛けますって言葉が出る前に、なまえちゃんが静かに俺の名前を紡いだ。俺の名前ちゃんと覚えてたんだって、ぼんやり考えてしまった。

「あのね、…こんなこと、言いたくなかったんだけど…」
「な…なに」

え、やっぱり罵倒される?俺これから罵倒される?願ってもないけど、なんでだろう泣きそうでもある。

「私、」

ごくり。
手汗がやばい、というか体中から変な汗が出てる。

「もっと、褒められてもいいと思うの」
「…………は、?」

褒められても、褒められても…?なまえちゃんがもっと褒められてもいいって話?うん、俺もそう思うけど。でも待って、話の繋がりとか、その言葉に到った経緯とかが全然分かんない。

「だからね、私、もっと一松くんたちに褒められてもいいと思わない?」
「お、俺ら?」
「松代さんには凄くよくしてもらって、美味しいご飯をいつも頂いて感謝してもし切れないんだけど。でも、そっちじゃなくてさ、私一松くんたちのためにも結構頑張ってると思わない?」
「えっと、それは…まぁ…」

母さんの手伝いをするって言うのは、つまり俺らの身の回りの世話っていうのも含まれている。規格外に長い布団を干したり、大量の洗濯物を干したり、時には夕食の準備を手伝ったり。ああ、なまえちゃんが手伝った夕飯は格別に豪華だし、いつもより美味しくなるんだから不思議だ。そういえば手土産の内容も、季節ならほぼ梨だし、お菓子だって兄弟の好みに合わせてるし、俺はそれとは別に猫缶や煮干も貰っている。そうか、確かに。俺らはなまえちゃんにもっと感謝すべきだし、褒めてあげるべきなのかもしれない。

「特に一松くん!」
「はひっ!?」
「私、猫缶とか煮干とか猫用のおもちゃとか持って来てるよね?」
「え、う、うん…」

そういえば、おもちゃも貰ってたな。

「だから、私、一松くんに褒められてもいいと思うの!」
「…ええー…、そんな恩着せがましい…」

ちゃぶ台の前に座っていたなまえちゃんが、部屋の隅に居た俺のところまでずずいっと近づいてきた。普段にない距離に焦るのと同時に、なんで俺だけこんなに責められなきゃいけないんだろうとも思った。

「恩着せがましい…けど、そうなんだけど…」

あ、やめて、しゅんとしないで、俺が悪いみたいじゃん、俺が落ち込ませたみたいになるじゃん、可愛いからほんとそういうのやめて。

「…褒めるって、なにすればいいの」

お金ならないよ、と続けて言って彼女の顔を見れば、少し色づいた頬と潤んだ瞳が視界に飛び込んできた。なに、なになになに、すっごい心臓に悪い!!

「あの、あのね、」
「……っ、な、に」
「い、」
「…い?」
「いつも、猫ちゃんたちにしてる、みたいに…あたま、撫でてほしいの…」
「……………」

はい可愛いいいい!!!なにこれ!?俺の夢だろ!?夢なんだろオイ!!!一生起きないで下さい!!!え、ちょ、え?なに、どうしたの、毒でも飲んだのこの子?世界の終わりなの?

「…ご、めん、引いたよね!ジョーダン!冗談だから!だいいち褒めてもらうためにやってるわけじゃないし!本当、なんでもないの!ごめんね?」

眉尻を下げて、誤魔化すように笑うなまえちゃんは、言葉と一緒に身を引いて俺から遠ざかろうとする。それを引き止めたくて、腕を掴んだ。

「…っい、ちまつくん…?」
「……………」

無言で近づいて、彼女の腕を掴むのとは逆の手で、さらさらで柔らかそうな髪にゆっくりと手を伸ばした。
触り心地は、まるで最高級の絹みたい。絹とか触ったことないけど、きっとこんな感じだと思う。さらさらするする、柔らかくて、手が通るたびに甘い匂いがする。手を、彼女の頭の丸いフォルムに沿わせて何度も動かした。温かくて、小さくて、少しでも力入れちゃったら簡単に潰れたりしちゃうんじゃないの?って思った。これは、癖になる。
なまえちゃんを見ると、頬から鼻の頭、目元まで真っ赤に染めて、へにゃっと今まで見たこともないだらしない表情で幸せそうに笑っていた。それを見たこっちの体温も急上昇してしまう。

「……よくできました」
「えへへ…、ありがとう、一松くん」

マジでこの時間よ永遠に続いてくれと思ってたら、玄関から馬鹿とクソの声。
なまえちゃんはパッと俺から離れて、緩んだ顔を両手で持ち上げる仕草。ぱちぱちとお互いに目を見合わせて、なまえちゃんは耐え切れないように、またへにゃっとだらしなく破顔した。

「もっと、がんばれる」

少しだけ舌足らずにそれだけ言って、なまえちゃんは玄関へパタパタと行ってしまった。

なんだ、あの可愛い生き物。あれ?現実だったよね?今の夢じゃなかったよね?もしなまえちゃんを前にした白昼夢だったら、死んでも晴れないくらい恥ずかしいんだけど。さっきの可愛い生き物はなまえちゃんで、なまえちゃんは他の兄弟の友達で、母さんのお気に入りで、それで、なぜか俺に褒められたいから、頭を撫でてほしいと言ってきて、撫でたら撫でたで今世紀最強の可愛い顔で笑ってて
ああああああーーーもおおおダメだ、思い出しただけで勃った。むしろさっきまで我慢してた俺の下半身を褒めてあげてください!!

「あれ、一松?どしたの?」
「…トイレ」
「なんだ、一松顔赤くないか?風邪か?」
「うっせぇコロスぞクソ松!!」
「なんで!?」

これからどんな顔して彼女に会えばいいか分からなかった俺は、それから彼女が帰るまでトイレに引き篭もった。

「一松兄さーーんんん!!!トイレ!!マジで!!やばいから!早く!!」
「いちまつぅうううう!お兄ちゃんの膀胱が死んじゃうから!」
「どうしたんだブラザー!!何か悩みがあるのか?あるんだな?!じゃあ外で聞こう!まずトイレから出るんだ!!」
「ぼく、コンビニで済ませてくる…」
「一松兄さんがトイレに立て篭もって出て来やせん!!なまえちゃんどうしやしょう!?」
「一松くーん?みんな困ってるから、早く出て来てあげて、ね?ねっ?」


無理です。
お願いだから今日は帰って!!
(2016.07.17)


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