アカツカ不動産で派遣社員として働いているなまえちゃんは、俺の前でだけ時々不機嫌な顔をする。
他の兄弟には言ってない。言ってもどうせ「嫌われてるんじゃないの?」と核心を衝かれるだけだ。兄弟から言われるならまだしも、なまえちゃん本人に「嫌い」って言われたら絶対立ち直れないので、この話題は彼女の前でだって禁句だ。だから俺は最近のこの悩みを、ひっそりと胸に仕舞いこんでいたりする。
そして今日も、なまえちゃんが松野家にやって来た。今日はお休みの日で、朝から母さんの家事を手伝っていたようだ。起きたときにはもう居て、六人全員がパジャマ姿の虚ろな寝起き姿なのにも関わらず彼女は太陽のような笑顔で「おはよう」と言ってくれた。天使だ。
六番目に居間に入るとき、なまえちゃんと目が合った。
眉間に軽く皺を寄せて、口を強く引き結んだ表情。いつもの不機嫌な顔だ。さっきまでは太陽みたいな笑顔だったのに、俺と目が合った途端にこれ。
朝からありがとうございます。今日も寝起きから俺のHPは真っ赤です。もう昼だけど。
「え、一松、吐血してる!?」
「気にしなくていいから…ゲフゥ」
俺らの朝食を取りに行ったなまえちゃんにバレてなければオーケーだ。
朝食は最高に美味しかったけど、それはそうと胸が痛いです。
食後は各々今日も出掛けたり、だらけたり。俺は居間の隅で膝を抱えて、友達と羽のおもちゃで遊んでるところだ。因みにこれもなまえちゃんのお土産だったりします。結構食いつきがいい。おそ松兄さんは同じ居間で、寝転がってテレビを見ながら昼のワイドショーに時たまくだらないツッコミを入れたりしている。クソ松とトド松は釣堀に出掛け、チョロ松兄さんと十四松はデリバリーコントをしに行った。なまえちゃんは、パートに行った母さんの代わりに食器を洗っている。それらをぼんやり見回していると、なまえちゃんが食器を洗い終えたらしい。ハンドタオルで手を拭きながら、くるりと居間の方へと振り向いたのが見えた。
また、目が合う。
俺はそっと立ち上がって、友達と一緒に二階の自室へと移動。窓を開けて、ソファの上で友達との遊びを再開させながらぼんやり外を眺める。空気の澄んだ良い天気だ。遠くから花火みたいな音が聞こえてくる。今日はなにか行事でもあるんだろうか。
暫くそうしていると、トントンと階段を登ってくる軽い音が聞こえて、スススと静かにゆっくりと襖が開かれた。
「…邪魔、しちゃったかな」
「…べつに」
開けた時と同じように襖を閉めて、なまえちゃんはぎこちない笑みのまま部屋の入り口に立ち尽くしている。このまま放っておくと暫くその場に立ち往生しそうなので、ちょいちょいと手招きをした。
彼女は嬉しそうにへにゃっと笑ってソファまで来ると、俺の友達を胸に抱き上げて隣に腰掛ける。友達は彼女を見上げて、一声鳴いた。それに、ふふっと笑って「どうしたの?」なんて舌足らずに返す姿は破壊的な可愛さだ。
腕を伸ばして、彼女の頭に触れる。友達を見ていた目が、俺に向いて、頼りなく綻んだ。
「…今日も、よくできました」
「…えへへ、ありがとうございます」
あの日から、彼女がうちのお手伝いをするたびに、自然と二人きりになって俺が彼女の頭を撫でるっていう暗黙の決まりごとが出来た。俺としては役得すぎて、正直オカズに困る日はないのだけど。なまえちゃんがこのことをどう思ってるのかは分からない。でも元はと言えばなまえちゃんから言い出したことだし、俺はそれを律儀に続けてあげてるだけだし、全然やましいこととか考えてないし。
嘘です触れるたびにドキドキして、あわよくばこのまま抱きしめたりしたいなとか思ってるし、なによりこんなに近づけることなんて他にないから、少しでも長く頭を撫でていたいと思ってる。超良い匂いがする。
表情を見れば、とろけるんじゃないかってぐらいだらしない微笑みを浮かべていて、幸せそう。けど、他の時には顔を合わせるだけで不機嫌な顔になる。同世代カースト最底辺で、コミュ力をまるっと他の兄弟に分配して産まれてきた俺には、彼女のその違いがなにを表しているのか分からない。分かってたらもっと上手いこと言えたりするのかもしれないし、ずっと胸に居座ってるモヤモヤもどうにかできるのかもしれないけど、俺にその術はないのだ。
髪が乱れないように優しく撫で続けていると、その時間に飽きたのか、友達が彼女の腕の中から離れて窓の外へと行ってしまう。それをきっかけに、俺は彼女から手を離して、なまえちゃんもハッとしたような顔をしたあとに、恥ずかしげにはにかんだ表情を浮かべた。
「えと…、いつもありがとう、一松くん」
「いえ、こちらこそ…」
「あはは、こちらこそって、わがまま叶えてもらってるのは私なのに」
「え、わがままだったの…?」
女の子のわがままってこんな可愛らしいものだったのか。トト子ちゃんのわがまましか聞いたことないから分かんなかった。アッ、トト子ちゃんのわがままも超絶可愛かったわ。そうだ、女の子のわがままって超絶可愛いかった。
「頭撫でてーなんて、今時小学生でも言わないよね、ごめんね?」
「いや、全然…むしろそんなんで良ければいつでもどうぞ」
「一松くん、優しい」
いえ、煩悩の塊です。
もう一度、なまえちゃんの頭を撫でて、今日はこれでお終い。名残惜しいけど、ずっとこうしても居られないことは空気の読めない俺にも分かることだ。
なのに、なまえちゃんまで少し寂しそうな顔をする。
「一松くん、撫でるの上手だよね」
「鍛えられてますから」
「ふふ、猫ちゃんは幸せだなぁ、いつもこんなに優しく撫でられて」
「じゃあなまえちゃんも幸せなわけだ」
「…うん、だって一松くんテクニシャンだし」
白い歯を犬歯まで見せて悪戯に笑うなまえちゃん。心臓がぶっとんで持ってかれるかと思った。
この子どんだけ俺を弄べば気が済むの?俺今絶対顔赤いし、変な汗かいてるし、視線が定まらないしでただの不審者だ。
「一松くん?」
「だだだだだいじょうぶ、なんでもないから」
「ごめんね、変なこと言ったかな…」
「いいいやいや!だいじょうぶ!!」
「ふふ、一松くんの大きい声初めて聞いた」
クッソ!!クッソ可愛いんだよクソが!!!
テンパる俺を見て、なまえちゃんがわずかに不機嫌そうになって、それからすぐにへにゃっと頼りなく笑った。
「…あー、もうさ、いつも大変だよ」
「えっ?」
「一松くんの前だと、すぐ顔緩んじゃうんだ」
「えっ…?」
両頬を両手で持ち上げて、ぐいぐいと動かしてる。その仕草も狐みたいに細くなる目も潰れる顔も全部可愛い全部ドキドキする。
つーか、え?なに、俺の前だと顔緩むとかなに可愛いこと言ってんの?俺今日何回お前のこと可愛いって思えばいいわけ?だっていつも可愛いですもんね!!
「二人のときはいいかなーって我慢しないんだけど、みんなの前だと恥ずかしいから…顔に力入れないと…」
そう言って、ぐっと不機嫌な表情を作るなまえちゃん。あれ、あれあれ?え?ちょっと待って。
「それで、いつも不機嫌そうな顔してたの…?」
「え!?えっ、わ、私、そんな顔してた!?」
「え…うん、ぼくの顔見るたび、眉間に皺寄せて…」
「わー!わあー!!うそ嘘ウソ!?ごめんなさい!!違うの!一松くんの顔見ると勝手に表情筋が緩んじゃって!それでなの!」
必死になって詰め寄ってくるなまえちゃんに気圧されて、ソファの上で後ずさる。泣きそうな目元を隠しもせず、真っ赤な顔で迫ってくるなまえちゃんには大変クるものがあるのだけど、まさかそれを彼女に覚られるわけにはいかない。というかなんだその理由、可愛すぎかよ。
「え、じゃあ、最初の日に不機嫌そうだったのは…」
「え?最初の日…?」
「あの、撫でてって…言った日…」
「あ、あの、あれは…一松くんに、話しかけたくて勇気を、振り絞ってたと…言いますか…」
「…っは」
思わず口から短く空気が漏れた。
俯いてしまったなまえちゃんにはバレてないだろうけれど、今の俺も彼女に負けず劣らずの顔色だと思う。あ、でも耳まで赤く色づいてるなまえちゃんには負けるかもしれない。
「そ、それってさ、なんか」
いやあもう、さすがの俺でもこれは調子乗っちゃいますよ。いいんですか。
「ぼくのこと、好き、みたいに聞こえるけ、ど…」
言ってみた。言ってみただけなんです。
なまえちゃんは俯いたまま黙っちゃって、動きもしない。あーこれ、アレですわ、なにコイツ勘違いしちゃってんの?気持ち悪すぎて動けないんだけど、みたいなアレですわ。言ってること寒すぎて心底凍りついたって感じですわ。
終わった。終わったこれ。もう頭なでなでさせてもらえないどころか今後一切口利いてもらえないやつだ。ゴミ松くんが居るからもうここには来ませんとか言われて、家族全員から殺されるやつだ。どうしよう。どうしよう!?とりあえず逃げよう、なまえちゃんの目の前から消えよう、なんなら今すぐ死のう。二階から落ちたくらいじゃ死なないんだっけ?
「すみません調子乗りました。死にます、死にますから許してください」
「うぇ!?し、死んじゃ嫌だよ!!」
離れようとしたら、パーカーをぎゅっと掴まれた。顔が合う、なまえちゃんの顔はまだ赤かった。正直泣き顔を見られるのは情けなかったけど、なまえちゃんの泣きそうでふにゃふにゃの顔に食い入っちゃって、顔が背けられなかった。
「………死なないで、ください」
「……は、はい」
「あ、あと……すき、です」
「…………」
「一松くんが、すきです」
今目の前の情報を処理しきれなくて、考えるよりまず体が動いた。
温かくて良い匂いの柔らかいものを抱きしめて、俺はどうにか心臓が飛び出したり吐きそうになるのをなんとか耐える。でもあれっ?これどういうことなんだ?
「い、いい、いち、まつ、くん…っ」
あ、俺、なまえちゃんのこと抱きしめてんのか。
なんだこれ超気持ちいいし柔らかいし、女の子って意外とそう簡単に折れたりとかはしないんだな、こんなに柔らかくてクッションがしっかりしてるから折れないのか。すっげぇ良い匂いする。干したての布団とか全然目じゃない、最高に癒される甘い匂い。
あれっ、俺、なまえちゃんのこと抱きしめてる?!
「ご、ごごごごごめん!!!」
離れようとしたら、ぎゅっと背中に腕が回って叶わなかった。俺の胸に、柔らかい膨らみがダイレクトに当たっている。あ、これもう離れられない。下半身的な意味で無理だ、離れたら今より恥ずかしいものをなまえちゃんに晒すことになる。
「…私こそ、ごめん…」
「ななななに、が?」
「もう少し…」
「…………」
細い体に腕を回して、さっきよりも強く抱きしめる。示し合わせたようにぴったりとくっつく体同士が、こんなにも気持ちよくて幸せなものだなんて。ああ、多分今日が俺の人生最後の日なんだ。このままなまえちゃんの腕の中で人生を終えたい。最高すぎる。
□
それからの日々でなにか変わったことがあるのかと言うと、俺らは相変わらず童貞ニートで、なまえちゃんは変わらず昼休みと休みの日に顔を出して、特に目に見えた大きな変化ってのはない。
けれど、恒例となっていた頭なでなでにひとつ付属したことがある。家族が居る家の中でも、自然と二人きりになると、俺はなまえちゃんを抱きしめて頭を撫でる。これは俺の人生において大きな変化だ。毎回最高に至福すぎて、正直いつ罰が当たるのか冷や冷やものだが、今が幸せすぎてそんな考えもすぐ霧散してしまう。
今日もなまえちゃんのお休みの日。朝から母さんの手伝いをしてるなまえちゃんを、俺はずっと眺めている。アッはい、手伝ったりはしないクズですすみません。しかも、なまえちゃんをずっと見ていたいがために、彼女が来る日だけ早起きしてます。気持ち悪くてすみません。
今も、屋根の上に増設した物干し台で、俺たちの洗濯物を干すなまえちゃんを体育座りの格好でずっと見守っている。これはあれだから、落ちたりしたら大変だから、俺は彼女の安全のために見守ってるだけであって、全然変態的な意味じゃないから。そこらへんに居る男と一緒にしないでもらいたい。
「ふぅー…、今日は天気いいねー!一松くん!」
笑顔で振り向いたなまえちゃんは、太陽の女神だった。きっと彼女が笑えば台風だって晴天へ変わるに違いない。
「…ん。だね」
「気持ち良いなぁー」
「…終わったの?」
「あ、うん終わったよ!今日は早く乾きそうだねぇ」
「そうだね、」
お手伝いが終わったらしいなまえちゃんに近づいて、隣に立つ。俺が見てるこの見慣れた景色が、なまえちゃんにはどういうふうに見えてるんだろう。
「えっと…、それで、」
「…うん」
まごまごしながら俯くなまえちゃんの肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。素直に腕の中に納まったなまえちゃんは、俺が頭を撫で始めると、そろりと俺の背中に腕を回すのだ。この日常幸せすぎて、心臓にだいぶ負担が掛かっているが、なまえちゃんか死かと言われたら、迷わずなまえちゃんを選ぶだろ?誰だってそうする、俺だってそうした。
ぎゅうぎゅうと片腕で抱きしめて、片手で彼女の頭を撫で続ける。近くで友達がにゃあと暢気に鳴いた。
「え」
「……え?」
「……ふぇ?」
下から声がしたなーと思って視線を下げたら、特徴的な猫目と目が合った。俺の胸元から顔を上げたなまえちゃんも気の抜けた声を出した。
「………やっべーー!!!みんなー!!!なまえちゃんと一松兄さんが!!」
「死ねェエ!!十四松!!!」
ベランダから家の中に駆け込もうとした十四松を、飛び降りざまのラリアットで沈めて。そのままスリーパーホールド。
「今見たことは忘れろォオごるァア!!あ゛あ゛ん!?」
「ギブギブギーーーブ!!!」
「い、一松くん!そのへんで!そのへんで!ね!?」
「なになに、なんの騒ぎー?」
「どうしたんだ、ブラザーズ」
「まーたやってるよ、ごめんねなまえちゃんうちの兄弟が」
「もう、やめなよ兄さんたちー、なまえちゃんの前でケンカとかさぁ」
クッソ!いらねぇのまで続々集まりやがって!!暇人かよてめぇら!!!働けニートボケぇ!!!
「んで、どったのお前ら。お兄ちゃんに言ってみなさい」
結局、強制的に引き剥がされて、なぜか正座させられている俺。隣のなまえちゃんも先程からわたわたしている。十四松はまだあの猫目のままだ。変なこと言いやがったら本当に沈めるぞ、こいつ。
「あの、えっと、本当にべつになにもなくて、」
「なにもないってことはないでしょ〜、一松も凶悪な顔してるし」
「るっせえェ!!ほっとけゴルァア!!」
「い、一松くん!落ち着いて!めっ!!」
めっ!ってなんだ可愛すぎか!!逆にコロスぞ!!
勢いで睨んじゃって、なまえちゃんを怯えさせてしまった。死にたい。誰でもいいから殺してくれ。どうしようごめんなさい、嫌わないで。
「一松兄さん」
真っ白に死んだ俺に声をかけたのは、元凶とも言える十四松だ。
「ぼく、黙ってるから。大丈夫」
「じゅうしま、つ…」
お前、なんでそんな出来た弟なんだよ。マジでなんなんだよ。
「え、黙ってるってなんのこと?」
「んとね、一松兄さんとなまえちゃんが抱き合ってたこと!」
「じゅうしまああああああーーーツ!?!?お前なんなんだよ!!!マジでなんなんだよ!!!」
舌の根も乾かぬうちに!!舌の根も乾かぬうちにだよチクショウ!!!
その後、当然ながら松野家は大騒ぎ。兄弟どころか、母さんや父さんにまで話が及んで、抜け駆けだ祝言だなんだと始まれば、俺ごときが止められるわけもなかった。なまえちゃんも真っ赤な顔で呆然としてて、俺も家族の暴走、特に母さんの暴走を止められないまま呆然とするしかなかった。
いつの間にか、二人きりで残された二階の部屋。これまでの数時間、俺はずっと正座で、なまえちゃんはその隣で足を崩して座っている。
「ごめん、なまえちゃん…」
「えっ、ううん!逆に、私がごめんなさい」
「え、なにが。なまえちゃんが謝る要素ゼロでしょ…、母さんもなんか凄い暴走してるし、他の奴らはヤケ酒呑みに出ちゃったし…」
母さんは、やっとなまえちゃんが娘になると大喜びで、今は婚約祝いだと大量のご馳走を作っているらしい。婚約祝いってなんだ。え、俺たち婚約すんの?え、なんで?てか、まだ付き合ってもいないんだけど。
さっき、上機嫌の母さんが飲み物と一緒に置いていった一枚の紙切れを見る。婚姻届の文字を見止めて、そっと裏返しにした。
「…ごめん、あいつらの勘違いはちゃんと解くから…」
そう言ってなまえちゃんを見ると、彼女はひどく悲しそうな表情を浮かべていた。部屋が暗い。ああ、もう夕方も過ぎたのか。電気つけなきゃ、でも彼女の表情に胸が痛くなって動けない。
「……一松くんは、さ」
「…うん」
「私じゃ…嫌、かな」
「え…?」
「そりゃ結婚とかは話が早いよっ!?でも、…でも、私は」
ごくん、と鳴った喉の音は、静かなこの部屋じゃきっとなまえちゃんにも聞こえてしまっただろう。
「一松くんとなら、そういうのも考えたいなって…思ってるの」
「………っ、」
「ごめん、気持ち悪いよね、付き合ってもいないのに!でも、好きって言ったのも嘘じゃないし、私、一松くんが優しいからどんどん調子乗って…、抱きしめて頭撫でてくれるの凄く幸せで、もしかしたら一松くんも私のこと好きになってくれたのかなって、そんなこと…考えたり、して」
ごめんね、と俯いたなまえちゃんの髪がさらりと肩から落ちて、それと一緒にきらきらと光る粒が畳に落ちて吸い込まれていくのが見えた。
俺、なにしてんだろう。女の子にここまで言わせて、しかも自分の気持ちはひとつも伝えてなくて、ただ抱きしめて頭を撫でて勝手に幸せになったりして。なまえちゃんもそれを幸せに感じていてくれたことは驚きだけど、それを今まで共有すらしてこなかったことが、ひどく勿体無く感じた。
口が動く前に、また体が動いた。
「……っ!!」
抱き寄せて、合わせた唇はふわふわで柔らかかった。分かんないけど、ほのかに甘い気もする。
驚いて固まるなまえちゃんの顔を一度見て、それから彼女の頭を自分の肩口に抱き寄せた。窓の外はさっきよりも暗い。部屋の中も、薄青く暗んでいる。
「…ごめん」
「いちまつくん…?」
「…おれも、ちゃんとなまえちゃんのこと、好き、だから」
「…っ、い、いちま、」
「今まで、なにも言わなくて、ごめん」
「っ、っふ、ぅ」
パーカーの肩口がじんわりと温かくなって、濡れていくのがわかった。俺の涙腺もつんと痛みを訴えたけど、なんとか耐えた。
細かに震えて、ぎゅうぎゅうと俺の肩に顔を押しつけてくるなまえちゃんが可愛くて、泣き止んでほしいような、そのまま俺だけに縋っていてほしいような複雑な気持ちになって、とりあえず頭を撫でてあげることにする。
優しく、やさしく、何度も手を滑らせる。彼女の頭に頬を寄せて、俺はそのままぼんやりと暗んでいく窓の外を眺め続けた。
「…大事に、します」
「っひく…、ぅ、ん、よろしく、お願いします」
そのあとは、ご想像通りかもしれない。
酔っ払って帰って来た兄弟たちに、なまえちゃんを泣かせたとしこたま責められて、正式にお付き合いしてることを言ったら祝われるどころか半殺しの目に遭った。なまえちゃんもなまえちゃんで母さんに捕まってるし。
結局、それからの日々はあまり変わらない。相変わらず、昼休みと休みの日に松野家に顔を出すなまえちゃん。母さんの手伝いをして、兄弟の相手をして、俺たちは手を繋いで一緒に帰る。あ、そう、俺はなまえちゃんの家に転がり込んでいる。仕事、はまだ探し中。なまえちゃんが仕事の日は、俺は就活。彼女の昼休みの時間に合わせて松野家で合流して昼飯食って、また就活。夜はなまえちゃんの家で一緒にご飯を食べて、一緒に眠る。なまえちゃんが休みの日は一緒に松野家に帰って、母さんの手伝いを一緒にやる。
それなりに変わった俺に、父さんと母さんは泣いて喜んでいたし、兄弟もそこそこに認めた視線をくれたりする。いやお前らに認めてもらわなくていいんだけどね。
「なまえちゃん」
「ん?なあに、一松くん」
「ん。」
腕を広げると、嬉しそうに擦り寄ってくるなまえちゃん。そのまま抱きしめて頭を撫でてあげる。
「しあわせ」
お互いの声が重なって、笑った。
ええ、幸せです。
だって君が、この腕の中に居る。
(2016.07.17)