あの日は、よく晴れた青空が広がっていた。
黒電話がけたたましく鳴り響いた昼前、居間には姉ちゃん以外の家族全員が集まっていて、卓袱台に広げた手紙をその全員が睨んでいた。
電話に出たのは母さんだ。
電話口で返答を返す母さんの声が震えていくにつれ、対応すら出来なくなって受話器を片手に座り込んだ。チョロ松が代わりに電話を取ると、間も無く通話は終わったらしかった。
「警察からだった」
チョロ松は実感が無い様子だった。だから呆然を通り越していやに冷静に見えたのだろう。
「…なんて?」
「詳しいことは全然、ただ、電車との衝突事故があって…そのことで、明日来てほしいって」
「…それは、どういう意味なんだ?姉さんが、その事故に関係あるって言うのか?」
カラ松の重くドスの効いた声が響く。チョロ松を睨んだってなににもならないのに、可哀想に標的にされたチョロ松は肩を縮こませて怯えていた。
母さんは泣いて部屋に引っ込んで、父さんは会社に休暇を申請する電話をしてすぐ、同じように部屋に引っ込んでしまった。
俺たちは居間に根を張ったように動けず、卓袱台の上の薄っぺらな紙を、ただ睨む。
『あなたたちに辱められる人生を、私は今日をもって終えます。』
姉ちゃんの綺麗な字で綴られたその手紙は、そんな一文で締め括られていた。俺たちの想像もつかない誹謗や恨み言の数々が、細やかな書体で丁寧に紙面を黒く埋め尽くしているのだから、現実味を帯びない。
性質の悪いドッキリ。そう言われたほうがよっぽど信じられる。
「ぼく、姉さん捜してくる!」
十四松が飛び上がるように立ち上がって、止める間もなく飛び出して行った。それから、一人二人と順に居間から居なくなって、気づけば夜になるまで俺は一人で座り込んでいたらしい。ふと立ち上がって玄関前の襖を開くと、一松とトド松が玄関の小上がりに並んで座っていた。いつからそうしていたのかは分からないが、二人とも同じように背を丸めてだんまりとしている。
「十四松は?」
二人にそう声を掛けた。一松もトド松も振り返らなかった。
「まだ帰って来てない」
「そっか」
一松の返答に、感情の乗らない声が出た。それを気にする奴も居ないこの空間では、静けさのほうが大きい顔をしている。
二人が見つめる玄関に、俺も視線を向けた。もう夜も深い時間なのに、誰一人その戸を開けて帰ってこない。これだけ静かな空間に居ると、一ミリも動こうとしない目の前のガラス戸が憎らしくも感じてしまうようだ。行き場のない苛つきだけが、頭の奥で燻っている。
「ねぇ、おそ松兄さん…、なまえ姉さんは、」
「トド松。そういうさ、なんでも人に聞こうとするとこ、お前の悪い癖だと思うよお兄ちゃんは」
なにを言われても、俺はトド松の問いには答えられなかった。トド松がなにを言おうとしたのかも予想がついていて、そして俺はその問いすら聞きたくなかった。
トド松もそれが分かっているようで、それからまた黙り込んでしまう。淀みのような息を吐き出して、トド松の隣に座る。二人に倣って、俺もただ玄関を眺め続けた。
ガラリ
突然玄関が開いて、朝日を背に姉ちゃんがこちらを驚いた表情で見下ろして立っていた。
「え、ちょっと三人とも、こんなとこでどうしたの?」
俺は転げるように玄関へと駆け寄っ
ドタン
「っおそ松兄さん?」
はっと辺りを見回す。俺は玄関の三和土に転げていて、冷たい石の床から伝わるひんやりとした感覚がどこまでもリアルで、自分が寝惚けていたことに気がついた。
見上げると、目の前のガラス戸から差し込む光が目に刺さる。もう朝日が昇っていた。
ガラリ
開いた扉に、三人一斉に立ち上がる。そこに立っていたのはドロドロのボロボロになった十四松ただ一人で、俺たちは落胆を感じながら兄弟の無事に安堵した。
「十四松兄さん、お風呂沸かすね」
トド松がそれだけ言って風呂場に消えて行く。十四松は大きな口を開けたまま俺に顔を向けた。
「姉さん、見つけらんなかったっす」
「そっか、ご苦労さん」
「明日はもっと遠くまで捜してくるね」
「いや、明日…ってかもう今日か。今日は、出掛けるから、やめとけ」
「わかった」
十四松も風呂場に向かって、玄関には俺と一松だけが残った。
「……おそ松、兄さん」
「ん?」
「ぼ、ぼく…、ぼく、かも…」
「え?なにが?」
「ぼくが、ね、姉さんに、…ひ、どいこと、したから」
ぼろぼろと大粒の涙を溢す一松の頭に手のひらを乗せて、そのまま二三度軽く叩く。
「俺も、同じことしたんだ」
俯いて震えていた一松が、弾かれたように顔を上げた。俺はその目を見つめて、不器用に笑った。
□
家族八人で警察署に着いたのは、まだ朝の早い時間だった。
役所のような受付で事情を説明したあと、奥に通された俺たちは狭い会議室のような部屋に案内された。窓の無い、どこか圧迫感のある雰囲気の部屋だ。
警察官らしい二人が入ってきて、座り心地の悪そうなソファへと促される。家族八人が横並びには座れないので、俺たち六人はパイプ椅子を出してもらって座った。
テーブルを挟んで目の前に、中年と少し若めの男が座る。それから、中年の警察官が俺たちに話し始めた。
昨日の早朝に姉ちゃんがいつも利用していた駅で人身事故があった。一部の歯型からそれが姉ちゃんだと確認出来た。
警察官の話は、要約するとそんな内容だった。
母さんも父さんも震えて泣いていて、まともに話を出来る状態じゃなく、一松も十四松もトド松も泣いていた。チョロ松とカラ松は呆然とした顔で虚空を見つめている。俺は、やはりまだ性質の悪いドッキリである可能性を諦められず、どこかで見たことある芸人と姉ちゃんが突然部屋に飛び込んできて、でかい看板を掲げて馬鹿みたいに笑うのを待っていた。
「娘さんに、会われますか?」
中年の警察官がそんなことを言った。
俺たち家族は、そりゃ勿論だと頷いた。中年のほうが若いほうに目配せして、そこからは若いほうの警察官が案内をしてくれるらしい。肌寒くも感じる地下の一室に案内される間、心臓がドクドクと脈打つのが苦しくて眩暈がした。隣を見ると、カラ松が読めない表情で口を引き結んでいる。こいつは今、なにを考えているんだろうか。
どこか薄暗く狭い部屋に通され、生唾を呑む。部屋の中央にある細長い台の上には、既に棺が置かれていた。横の台には申し訳程度の花と線香が置かれていて、随分と寂しい空間だというのが第一印象だった。
「申し訳ありません、ご対面は左手のみとなります」
「え?」
「他の箇所は損傷がひどく、ご覧にならないほうがよいと思われますので…」
母さんが、わっと泣き出した。俺たちがなにも言えない間に、男が棺の中に掛けられた白い布団の一部を捲って部屋の隅へと下がる。床を踏む感覚を感じないまま、そろりそろりと棺に近づいて中を見下ろす。棺の中の殆んどは白い掛け布団に覆われていて、捲れた一部から綺麗な手だけが見えていた。
短く整えられた綺麗な爪、細く華奢な指、触れれば滑らかだった手の甲、それが今は薄ら黄色く血の通わない色で目の前に転がっている。
順に棺の中を見た俺たちの反応は様々で、トド松は貧血を起こして倒れるし、母さんも父さんに支えられてやっと歩けるような状態。チョロ松と十四松がトド松を介抱して、一松はその場に座り込んでしまった。俺とカラ松だけ、棺のそばに立ったまま動かなかった。
付き添いをしていた警察官の男は、順に母さんやトド松たちを介抱しながらさっきの待合室へと案内した。座り込んでいた一松を待合室に案内しようとした男が、俺たちを振り返る。
「まだ、居られますか?」
「ええ、すみませんけど、弟のことよろしくお願いします」
「分かりました、すぐ戻ってきますので」
男が出て行ったあと、終始無言のカラ松を見た。静まり返った室内で、沈黙を守り続けているこいつのほうこそ生気が感じられず、まるで死んでいるようだ。
「ねぇ、お前今なに考えてんの」
俺の問いにも、こいつは眉一つ動かさない。そして、カラ松の手は棺の中を守る真っ白い布団に伸びた。
俺は、止めなかった。
一瞬の白、俺たちの前を大きな布が舞って、静かに重たい音を立て床に沈んだ。
ぶわりと全身から汗が噴き出して、俺は指一本動かすことも出来ず、瞬きや呼吸までもを忘れてしまった。
白い浴衣を着せられ、見える肌の殆んどが白い包帯に覆われている。
それでも分かるほど継ぎ接ぎだらけの体。所々パーツの欠損を感じて、腹辺りは少し凹んでいるようにも見えた。
半分ほど判別の取れない顔。不自然に開いた口の端にも縫い目が見え、薄ら開いた瞼の向こうは闇が漂うような空洞だった。
生前に感じていた太陽のような美しさの一切が鳴りを潜め、目の前にあるのはただ申し訳程度に人型を成した“なにか”で、
けれどそれは確かに、姉ちゃんの形を取っていたのだ。
「おおおおぅ…おおおおう…おおおう…ッ」
まるで獣の咆哮そのものだ。喉が擦り切れるのではないかと思うほど悲痛な声をあげて、カラ松が膝から崩れ落ちていった。
戻ってきた男が焦ったように布団を掛け戻し、部屋から出るよう促すのをどこか他人事のように捉えていた。
そこから、どう帰ったのか、他のみんながどうしていたのかは分からない。
おかしな話だが、気づけば日付が一月半以上も進んでいたのだ。月を二つも跨いでしまったカレンダーを見つめて、ぼんやりと立ち尽くす。
「おそ松兄さん」
呼ばれて振り返ると、喪服に身を包んだチョロ松が立っていた。
「もう行くよ」
「ん」
今日は姉ちゃんの四十九日。松野家の墓に納骨をする日だ。
納骨式は、何事も無く静かに終わった。そもそも家族全員が揃っていなくて、参列したのは俺とチョロ松とトド松、それと父さんの四人だけだった。終始誰も口を開かないまま、俺たちは帰路に就いた。
しんと静まり返った家の中に足を踏み入れると、これでもう全てが終わってしまったような気がして、足元がぐらついた。俺は今、ちゃんと立てているのだろうか。
「おそ松兄さん」
見ると、私服に着替えたトド松が玄関先に立ち尽くす俺を見ていた。
「ん?どうした?」
「父さんは仕事行ったよ」
「そう」
「ボク、今からお見舞い行くけど、一緒に行く?納骨式終わったこと伝えなきゃ」
「え、お見舞い?誰の?」
「…母さんのだよ!も、この話、何回させるつもり!?」
「そんな怒んなよぉ〜、短気は損気だよぉ?」
「もういい!もうおそ松兄さんは誘わない!!」
足音荒くトド松は出て行った。俺は頭を掻いて、二階の部屋へと向かう。
母さんが倒れたのは、警察署でのことがあってすぐのことだった。心労がピークに達したらしく、今は心療内科に入院している。いつなにをするか分からないというのが、医者の診断らしい。あんなに肝の据わった強い松代が、そんなことするわけないのに。そう思うのに、口に出して否定は出来なかった。
俺たち家族は、細い糸の上でぐらぐらの状態なのだ。姉ちゃんという足場を失った俺たちは、まともに立っていられる自信すら失くしていた。
自室の襖を開くと、チョロ松が出掛ける準備をしているところだった。
「なに、出掛けんの?」
「うん、バイト」
「え、バイト?」
「うん、母さんもああなっちゃったし、父さんも仕事で殆んど帰って来なくなったしさ。ぼくも、働いて少しは貢献しなきゃなって」
「へぇ〜、殊勝だねぇ。なに、アイドルのマネージャーのバイト見つかったの?」
「ううん、工事現場の交通誘導員」
「ふぅん、頑張ってね」
「うん」
入り口に立っていた俺と擦れ違うように出て行くチョロ松を目で追って、なんとなく階段を下りる背中まで見送る。するとその視線に気づいたのか、階段の途中で止まったチョロ松がこちらを振り返らずに「おそ松兄さん」と呼び掛けてきた。
「カラ松、今日も行ったよ」
「んー?」
「おそ松兄さんからも言ってあげてよ。今日姉さんの四十九日だったんだよ?」
「えー、なんて?」
「もう、やめろって」
「んー…」
「それから、一松だけど」
「一松がどったの?」
「また昨日から帰って来てないだろ」
「そうだっけ、まぁ、また十四松が連れて帰ってくるんじゃない?」
「おそ松兄さん」
「うん?」
「もう知らんぷりするのやめなよ」
チョロ松は振り返らないまま、階段を下りて行った。俺はそれを見送ってから自室の襖を閉めて、息苦しいネクタイを緩めながら部屋の真ん中に大の字に寝転がる。天井を見上げていると、視界が回転しているような気がして深く目を瞑った。
一松は、ここ一月以上まともに帰ってこない日が続いていた。心配した十四松が何度も捜しに行って、その度にボロボロになって連れ帰ってくる。十四松の話では、一松は自殺場所を探しているのだそうだ。あいつこそ病院に放り込んだほうが良いかもしれない。十四松は逃げる一松を追い掛けて、一松の自殺未遂を何度も止めているらしい。もうそういうプレイなんじゃないかって思ったりもする。
カラ松に至っては、きっと誰がなにを言ったって無駄だ。昼過ぎに出掛けて行って、朝方に帰ってくる。なにをしているのか聞いたら、なんて答えたと思う?
「姉さん集め」
震えたね。なんの気も無い顔をしてぽつりとそれだけを言うのだ。昼過ぎから終電が終わるまでを駅で過ごして、最終電車が行ったあとは線路に忍び込んで懐中電灯片手に「姉さん」を明るくなるまで探しているらしい。
あの日、俺とカラ松だけが姉ちゃんの姿を見たから知っている。あの姉ちゃんは足りなかった。だから、カラ松はそれを探しているのだろう。もう警察やらが捜索したり掃除したりした後だと思うのだけど、空っぽなあいつはきっとそんなこと考えもしない。
勿論、成果は聞いてない。聞きたくもない。
(もう、俺たちの姉ちゃんはただの灰になって土の中だっていうのに)
チョロ松の奴、なにが知らんぷりだ。俺こそ現実を受け止めているじゃないか。
トド松が母さんの見舞いに毎日のように行くのは、一人が寂しくて、姉ちゃんに求められない人肌の温かさを恋しく思っているからだ。入院する母さんに看病の名目で甘えて、心の隙間を必死に埋めようとしているのだ。
十四松は一松を追い掛けて動き回ることで考えることから逃げているし、一松の自殺を食い止めることで、姉ちゃんを助けられなかった後悔を代償行為で消化しようとしている。
一松は本気で自殺する気なんかない。あいつは見たくない現実から逃げて、逃げて、逃げ続けているだけ。無意識に十四松の代償行為にも気づいてるから、自殺の“ふり”をやめないだけだ。
チョロ松はなにかしていないと落ち着かないようで、まるで姉ちゃんの影を追うように一通りの家事を担っていたかと思えば今度はバイトだ。まぁ、真っ当な方向だけど、あいつだって現実逃避しているのには違いない。
カラ松は、姉ちゃんへの執着心を消せないまま。でも拠り所が無くて、それを必死になって探してる。あいつの気持ちを、俺はきっと一生掛かっても理解してやれないだろう。
俺はと言えば、
火葬場で姉ちゃんがただのリン酸カルシウムの塊になってからの毎日、家の中で姉ちゃんが見えていた。
それが妄想か幻覚か、はたまた幽霊なんてものなのか。俺には判断つかないのだけれど、確かに俺は姉ちゃんが見えていて、そして話しもしている。
「やっぱり、陽が入る部屋って良いね」
ほら、今日も居る。
閉じていた瞼を上げてソファに視線を流すと、にこにこ顔の姉ちゃんが部屋のソファに腰掛けて窓の外を眩しそうに眺めていた。
「姉ちゃんも窓のある部屋に居ればよかったんだよ」
「私は私であの部屋を気に入ってたんだけどね」
「うっそだぁ、俺なら嫌だねあんな陰気な部屋」
「おそ松は子供の頃から、私の部屋に入るの嫌がったよね」
「狭い部屋は好きじゃないんだよねぇ。言ってくれりゃ俺たちで窓くらい開けたのに」
「いいよ、あの部屋が私にはぴったりだったから」
起き上がって、姉ちゃんの隣に座る。ソファのスプリングが軋んで、俺の下だけクッションが沈み込んだ。
「ねぇ、今まで聞かなかったけどさ」
「なあに?」
「そんなに、俺たちのこと嫌いだった?」
「ふふ、おそ松は知ってたんでしょう?」
「俺が思う以上だったからだよ」
姉ちゃんは楽しそうに笑って、さらりと髪を梳いて耳に掛けた。幻覚ってこんなに立体的なんだな、なんて考える。幽霊だったとしてもこんなに質量があるものなのか、と感心してしまうほどだ。
「んー…、そうねぇ…」
姉ちゃんが、窓の外を見た。俺も釣られて窓の外に視線をやったが、そこから見える景色に特別感動もなくて、すぐ姉ちゃんに視線を戻す。この透き通るような横顔が、俺は好きだったと思い出した。
「全身全霊で、憎かった」
「……そっか」
「でも、表裏一体って言うのかな。それだけじゃなかったよ」
「それは、少しは俺たちのこと好きだったってこと?」
そう聞くと、姉ちゃんはなにも答えずに微笑んだ。
都合良く俺に笑顔ばかり向ける姉ちゃんを見ていると、ああ、これはやっぱり俺の妄想で幻覚なんだろうな、と漠然と思う。
「ねぇおそ松」
「なに?」
「お姉ちゃんからいくつかお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「珍しいね、姉ちゃんがお願いなんて」
「まぁね、ほら私はもう自分で出来ないから」
「へへ、んじゃまぁ、このおそ松に任せなさい!」
頼られるのが嬉しくて、照れ隠しに鼻の下をこすってどんと胸を叩くと、それだけで姉ちゃんは可笑しそうに笑ってくれた。
「じゃあ、まずみんなには少しずつでも働いてほしいな」
「えっ、そういうお願い?!」
「あら、おそ松に任せて良いんでしょう?」
「そりゃないよ…。まぁ、聞くだけはタダだし良いけど。それで?」
「うん、それから父さんと母さんはアンタたちで支えてあげてね。二人とも老後の心配ばっかりしてたから、少しくらい安心させてあげて」
「あーちょっと待って忘れそう。今、メモ取るわ」
「これくらい憶えなさいよ…」
押入れからチョロ松のだろうレイカのメモ帳を引っ張り出して、ボールペンを片手にまたソファへと戻る。姉ちゃんは、いつもの叱る口調で形ばかりの怒った表情を作る。子供の頃は、結局は許してくれると分かっていて、わざと姉ちゃんを怒らせようとしたことが何度もあった。俺にとっては楽しかった思い出だけど、姉ちゃんにとっては違ったのかもしれない。
ボールペンの先が紙をガリリと掻いて、ハッとする。
「おそ松?」
「いや、なんでもない。そんで?どうせまだあんでしょ」
「はいはい、次はね、私の物は全部捨てるか燃やして」
「え、部屋にあるもの全部?」
「うん、全部。なにも残さないでほしい」
「そんなこと言ったって、全部?」
「そう全部。これは絶対ね。そんなに量無いからすぐ終わるよ」
「へいへい…。次はー?」
「おそ松が裏庭に埋めた物、もうあの子たちに渡してあげて?」
メモを取る手が止まる。
「本当は捨ててもらおうかとも思ってたんだけど、でも、あの子たち見てたら…そういうのも必要なのかなって思ったの」
「俺がしたこと怒ってない…?」
「まぁいいよ、誰かはやると思ってたし。それに、それが救いになることだってあるのかもね」
「アレはもう姉ちゃんじゃねぇの?」
その問いにも、姉ちゃんは微笑むだけだった。肯定も否定もしない。どう受け取ろうと良いと言うように、ただ微笑む。
「みんなにあれを渡して、私のことはもう忘れてほしいって伝えて」
「…それって、矛盾してる」
「うーん、でも、もう探したりはしないでしょ?そばには居られないし、私はもうなにも出来ないから、忘れてほしいのが本心だし」
「そんなに上手く行くかなぁ、俺らすっげぇしつこいから」
「知ってるよ。何年アンタたちの姉さんやってたと思ってるの?」
「……もっと、やっててほしかったよ」
奥歯を噛んで俯くと、風が頭を撫でていった。顔を上げると、姉ちゃんが隣で微笑んでる。なんだこの状況、なんなんだ。
「おそ松、最初からこの物語に私は必要なかったのよ」
「……は、なにそれ…」
「だから、忘れて。みんなにはみんなの人生があるんだから、しっかり生きて」
「なに、それ、じゃあなんで、なんで姉ちゃんは死んだんだよッ!!人には生きろとか言うくせに、俺らにはそんなの言う暇も与えてくれなかったじゃないか…ッ!!」
「……………」
「生きて、ほしかったよ…」
「それで、生きてる限りずっと私を苦しめたかった?」
バッと、姉ちゃんの顔を見る。無表情から、ふっと笑みを作って、俺の頭をもう一度風が撫でていった。
「言ったでしょ、この物語に私は必要ない」
「意味…分かんない…」
「どういう形でもこうなってたってこと」
「…俺たちが、なにをしても…?」
「そう。誰がなにをしても、例え私が心から幸せだったとしても。結末は一緒、みんなのそばには居られない。どんな形でもね」
「もっと分かんなくなった…」
「いいよ、分からなくて」
優しい顔、姉ちゃんはこんな瞬間にも姉の顔だった。結局俺は、姉ちゃんの弟にしかなれなかったのだ。いや、俺たちみんなそうだった。最初から最後まで、俺たちは姉ちゃんの弟でしかなかった。特別な感情も、俺たちが一方的に想っていただけ。知っていたのに、それが悔しくて悲しくて行き場を失った。
「ねぇおそ松、私はもうそろそろ行かなくちゃいけないけど」
「…えっ、ちょっと待って、それってどういう」
「最後にもうひとつだけ伝言」
「待って、ねぇなまえ、俺はもっと」
「私の復讐はもう終わったよ」
微笑んだ姉ちゃんの姿が目の前で消えて、俺は突然迷子になったような気持ちになった。溢れた涙を、今じゃないと強く拭って立ち上がる。
俺は、道を探すために走り出した。
□
「え、おそ松兄さんなにしてんの」
縁側にぼんやり座って明るんできた空を見上げていたら、背中から声が掛かった。上を向くように振り返ると、ボロボロでクソ汚い一松と十四松がこちらを見下ろしている。
「よっ、一松ぅ今回も死ねなかったの?」
「……っさい」
「十四松は偉いねぇ、一松をちゃあんと回収してきて」
「ぼく偉いっすか!?ホームラン王くらい!?」
「うんうん、ホームラン王よりも偉いよぉ」
「マジすか!?えぇー!首位打者くらいかな!?」
「それってどっちが偉いの?」
「えっ!?おそ松兄さんなにやってんの!?」
「うわ、なに、なんか燃やしてる?」
次いで顔を見せたのは、ドロドロのチョロ松と赤い顔をしたトド松だ。チョロ松はこんな早朝の時間までバイトだったらしい。トド松は飲みの帰りだろう。いいな、俺も酒飲みたい。
四人は裏庭の真ん中に置いた煙を上げるドラム缶を見て、それぞれ怪訝な表情を浮かべている。
「うん、燃やしてる」
「えぇ?なに燃やしてんの?」
「姉ちゃんの物、全部」
「は?」
ガラン
俺たちの後方でなにかが落ちる音がして、見ると懐中電灯がカラカラと余韻で回っているところだった。
「姉さんの、もの、ぜんぶ?」
愕然とした顔のカラ松が、弟たちを押し退けて俺の胸倉を掴みあげた。ギリリと服を捻り上げられて息が詰まる。カラ松は怒りを剥き出しにした表情を突き出して、獣のように息を吐き出していた。
「お前…!!なに、してるんだ!!なまえの、なまえ、の…ッ!!」
「まあまあ、落ち着けって」
「落ち着けるわけないだろ!!なに考えてるんだお前は!?」
ドラム缶に向かおうとするカラ松を、チョロ松たちに目配せして五人がかりで押し止める。ドラム缶の中身は殆んど燃え尽きて、まだ火が燻っていたが、こいつなら御構いなしに迷わず火の中に手を突っ込むだろう。
「姉ちゃんが言ったんだよ。燃やしてくれって」
俺の言葉に、全員の手が止まった。
「全部燃やしてくれって言うから、燃やせるもんは全部燃やした。衣装ケースとかはもうゴミに出したし、部屋は空っぽにした」
「なんてこと…なんてことすんのさ、」
「だから、本人にそうしてほしいって頼まれたんだって」
「いつ!?そんなのいつ言われたの!?」
「おそ松、お前まさか…知ってたのか?なまえが、ああするって、それでお前は、」
「あーあー、ちょい待ち。さすがに俺も知ってたら、監禁してでもそんなことさせてないって」
「じゃあいつ!?なに、幽霊でも出て来ておそ松兄さんに頼んだってこと!?ふざけてんの!?」
「うんまぁ、そうか、幽霊だったのかも」
「はあ!?」
今度は全員に詰め寄られる形で、俺はぽつりぽつりと四十九日の昨日まで姉ちゃんが見えていたこと、そしてもう見えなくなってしまったことを話した。それぞれ困惑や戸惑いをその表情に浮かべ、複雑そうに眉を寄せている。信じられなくても仕方ない。俺だって、自分の頭がイかれたのだと思ってる。
「なんで…おそ松の前だけなんだ」
カラ松が、悔しそうに握り拳を作って唸った。
「知らないよ」
「どうして、オレの前に現れてくれないんだ!?」
「そうだよ、本当に姉さんの霊が居たとして、なんでおそ松兄さんばっかり…っ」
「お前らがこの家から逃げてたからだろ」
それぞれ心当たりがあるからか、全員が言葉を呑み込んだ。俺はべつにそのことを責めるつもりはない。こいつらのおかげで俺だけが姉ちゃんと話せていたのなら、これ以上無いほどの優越感だ。
「ま、俺の話を信じんのも信じないのも勝手だけどさ、色々伝言頼まれてっから伝えるねー」
俺は突っ掛けを履いて裏庭へと降りる。そのまま埴輪近くの土を掘り返して、カチャカチャ出て来た親指くらいの小さなガラス瓶を拾い上げた。
振り返ると、間抜けに呆けた五人が縁側に並んでいる。縁側に戻って、少し土のついたその小瓶を弟たちの前に差し出した。数は六個。俺たち人数分だ。
「おそ松兄さん…、これ、なに」
「姉ちゃんの骨」
一松の質問に淡々と答えて、それぞれに小瓶を渡す。誰かがひゅっと空気を呑み込んだ。小瓶の中には白い砂みたいなものがそれぞれに同量ずつ入っている。
各々複雑な表情でそれを受け取って、手のひらに包んで納まる大きさの小瓶を見下ろしていた。
「まず、姉ちゃんは俺たちに少しずつでもいいから働いてほしいって」
「……………」
「それから、父さんと母さんを支えてくれって。少しくらい安心させてやれだってさ」
「…っはは、姉さんらしいなぁ…」
トド松が小瓶を両手で掲げるように額に当て、そう呟いた。一松は俯いてなにも言わないし、十四松は大きな口を引き結んでいて、チョロ松は音も無く泣いていた。カラ松だけが終始睨むように小瓶を見下ろしている。それに構わず、俺はそれぞれの手の中に納まる小瓶を指差した。
「それ、どうするかは自由だけど、姉ちゃんは忘れてほしいんだってさ。姉ちゃんのこと忘れて、もう探さないでほしい、…それぞれの人生を、しっかり生きてほしいって」
張り詰めたような静寂が訪れて、俺はもう誰の顔も見ていられなくなった。暗闇と静寂が闊歩する家の中をなにを探すでもなく見回して、心のどこかでひどく落胆する。
「それから、…私の復讐はもう終わった、って」
そう告げると、五人は次々と崩れ落ちて縁側に座り込んでいった。憑き物が落ちたように、肩の荷が降りたように、それぞれが緊張の糸が切れて理性をかなぐり捨てた様子で泣きじゃくる。
俺は鼻の奥をツンと走る痛みに耐えて、じんわり感じる頭の圧迫感を無視して、裏庭に上手く差し込まない朝日を見上げていた。
朝日に目を細め、パーカーのポケットに両手を入れる。カサリと触れる紙の感触を愛おしく思いながら、それを何度も撫で続けた。
白地に赤茶けた水玉模様。
姉ちゃんが一生に一度見せた、汚く淀んだ真っ黒い感情。
憎悪と愛情に苦しんだ証。
これだけは、燃やせなかった。これこそが、俺の愛した、俺たち家族が愛した松野なまえそのものだったから。
俺は知っている、俺だけが今後も知り続ける。
姉ちゃんの最後の一言は、赦しじゃない。救いなんかじゃない。俺たちが消化し得ないこの気持ちこそ、姉ちゃんの復讐だ。
この愛しくも苦しいただ一つの確かな形見がそれを肯定する。その事実は、長男である俺が一生背負い続けていく、誰にも絶対に教えてなんかやらないよ。
これは、姉ちゃんが作りあげた
俺たち家族の喜劇だ。