特別な存在

「イヅルくん!」

僕を下の名で呼んでくれるのは、今や彼女しかいない。イヅルと呼んでくれていた親類はもういないし、隊長も、いない。だから唯一呼んでくれる彼女の存在が僕には特別に思えてしまって、名前を呼ばれるたびに嬉しくて、切なくて、苦しくなった。

「修兵がね、ボーナス入ったから呑まないかって!イヅルくんも今日一緒にどう?恋次くんも行くって言ってるし」

明るくて眩しいくらいの笑顔で誘われる。彼女は僕には眩しすぎて、長くは見つめていられない。目をそらすと「だめかなぁ?」なんて甘い声を出してくる。僕に断る理由なんて無い。彼女からの誘いを僕が断れる訳がない。

「…イヅルくん?」

不意に顔を覗きこまれてドキッとする。君はきっと、誰にだってそういうことをするんだろう。僕だから、とかそんな理由ではなくて。だからみんなで呑もうなんて誘ってくるし、みんなのことも下の名前で呼ぶんだろう。僕にとっては特別なのに、優さんにとっては何も特別でないことが、少し、腹が立つ。

「優さん」

愛しい名前を口にして立ち上がれば、皆ほど身長の高くない僕でも、彼女のことを見下ろせた。僕が怒っているようにでも見えたのか、優さんは後ずさる。逃げないで欲しいから詰め寄れば、優さんの背中は壁に突き当たった。

「え、なに、ど、どうしたの?」
「優さん」
「はい、なんでしょうか…?」

逃がしたくなくて、優さんの手を握る。僕だって、このくらいのことはできるんだ。できなきゃ、いつまでたっても優さんの特別になんてなれやしない。

「僕は貴方と、二人がいい」
「へ?」
「皆と一緒なんて、僕は嫌だ」

目を見つめながら言ってみたものの、やっぱり優さんは眩しくて、くらくらして、目を瞑って優さんの肩口に頭を乗せた。目を瞑っていても、優さんの匂いを直に感じることになり、どうあがいても逃げ道がなくて、困って少し手に力を入れた。

「あの、じゃあ…今夜、二人で、呑みにいく?」
「いいんですか!?」

と顔をあげてみれば間近で優さんと目があってしまい、恥ずかしくなってもう一度優さんの肩に顔を伏せた。

「す、すみません。でも、檜佐木さんのお誘いは」
「…また今度ねって、言っとく」
「先に誘ってきたのは檜佐木さんの方なのに、いいんですか?」
「イヅルくんが二人がいいって言ったんだよ?それとも、イヅルくんのこと断って修兵の方にいけばいいの?」

心配だから再確認してしまっただけだ。
優さんがいつも通り檜佐木さんと仲良く呑みにいく姿を思い浮かべたら、胸が苦しくなった。

「そんなの、嫌です」
「ね。だから…イヅルくんと二人でいくよ」

優しい声が嬉しくて、少しだけ、優越感をおぼえた。

「恋次くんにもまた今度って言っとかなきゃね」
「…優さん」
「ん?」
「もっと、僕のことも呼んで欲しいです」
「…呑みに?」
「それもですけど、違います。名前を、です」

僕の精一杯の、わがまま。

「…イヅルくん」

それを受け入れてくれる優さんが特別で、やっぱり僕は優さんのことが大好きなんだと改めて実感する。わがまま言ってすみません。

「イヅルくん、寂しいの?」
「…たまに」
「そっか。一人で頑張ってるもんね、イヅルくんは偉いよ」

そう、一人で。僕は一人だ。だから貴方の優しさが欲しくてたまらなくなる。

「…僕は、優さんに名前を呼んでもらえるだけで、幸せです」

だけど少しだけ嘘をつく。もっと欲しいなんてわがままを言ったら、嫌われるかもしれないなんて考えてしまうから。だから欲張りにはなれなくて、結局一人で頑張ることになってしまうんだ。

「イヅルくん」

また呼んでくれたと嬉しくなったのに、握っていた手をほどかれた。拒絶されるのかと怖くてぎゅっと目を瞑る。でも優さんは僕を押し退けるわけではなく、その二本の腕で僕を抱き締めた。

「あ、あの、」
「私がもっとイヅルくんのこと幸せにしてあげるから、名前呼ばれるくらいで満足しないでよ」

優さんから伝わる熱が逃げないように、僕も優さんを腕の中に閉じ込めた。きっと僕の激しい鼓動は筒抜けで、うるさいなんて思われているんだろう。それでも特別な人と抱き合っている今が、幸せで、やめられなかった。