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彼は私なんかの手が届くような存在ではなかった。
クラスの中でも一際身長が高くて、同じクラスになって一番最初に名前を覚えた人だった。だけどもちろん声はかけられなかった。共通の話題があるのかどうかもわからないし、身長のせいか威圧感があって近寄りがたい。
私は友達から始めることすら諦めて、ひたすら眺めるだけで幸せを感じることにした。
新入生なので色々な部活からの勧誘があった。何部に入るかということより先に、あの人は何部に入るかを考えていた。身長からしたら運動部だけど、運動には向いていない眼鏡などかけているので文化部の線もある。
あの人が部活動登録用紙を記入しているときに、近くを通って盗み見た。私はすぐにバスケ部のマネージャーをすることに決めた。
「はい緑間君、お疲れ」
「ありがとうなのだよ」
部活が始まり数ヶ月、同じクラスなお陰もあって割りと早く打ち解けることができた。バスケ以外の深い話をしたことなど無いが、なんてことない挨拶があるだけでも幸せだった。
「優ちゃん俺には〜?」
「はいはい」
彼にはにこやかにタオルを手渡し、高尾君には顔面にタオルを投げつけた。
「ひどっ!真ちゃんには優しいくせに!」
「真ちゃんは私のお気に入りなのだよ」
「…真似をするな」
「えー、似てない?」
「優ちゃん似てるのだよ」
「ぷっ、その声色で名前呼ばないで」
高尾君とケラケラ笑いながら緑間君をからかっていたら、不機嫌そうな顔で部室へ行ってしまった。少し不安になって高尾君を見たが、なんてことない顔をしてタオルで汗を拭いていた。
「おーい緑間君、怒ったのー?」
ノックもせずに部室の扉を開け中に入ると、絶賛お着替え中の緑間君がいた。バスケで鍛えられたその身体から、目をそらせなかった。
「…ジロジロ見るな」
「あぁ、ごめん」
それでも入学当初から緑間君を観察している私なので、服を着る様子もまじまじと見つめてしまった。
ボタンを閉めていく長い指。チョコレートでもコーティングしてあったら喜んでしゃぶりたい。気持ち悪い考えをしていて気付くのに遅れたが、緑間君と二人きりになるのは初めてのことだった。
「…怒ってる?ごめんね」
「別に怒ってないのだよ」
「そんな不機嫌そうな顔してるのに?」
せっかくの機会だから緑間君に近付いた。距離を詰めてわかるのは、圧倒的な身長差。見上げていると首が痛くなりそうだった。
「…届かない」
「?何が…」
私は周りを見渡して、隅に置いてあった脚立を見つけ緑間君の真横まで持ってきた。脚立の一番上まで上がると、緑間君に上目遣いで見られる高さまでこれた。
「うわ、高い…緑間君っていつもこんな上から世界が見えてるんだ。違う世界見てるみたい」
「そう大して変わらないだろう」
「変わるよ、これだけ高いと視野が広くて情報量が多い」
「そうか」
「それに、…」
手を伸ばして緑間君の頭に手を乗せた。練習の後だからか、頭は熱くなっていた。
「何なのだよ」
「緑間君に手が届く」
「…手が届くかどうかに高さは関係ないのだよ」
「緑間君の視界に入れる」
「そんなもの低くたって、」
「部活の時以外、緑間君の視界に入れない。私は平均身長だし、成績も平均だし、目立たないから。事実、緑間君と目があったことがない」
当初、緑間君とは話せないし触れられないし視界にも入れないと思っていた。それが今は、二人きりで、同じ視線で、触れることもできている。嬉しい限りだ。
「目が合わないのは横島の背が低いだけだろう」
「だけ?そんなことない!私はいつも緑間君のことを見てるんだから、緑間君さえこっちを見てくれたら目くらい合うはずだよ」
そう言うと、緑間君は少し驚いた。いつも見てるなんて言ったら気持ち悪いか。失言だったな。
「…横島が、俺の目を見ていないだけだろう」
「でも、私はいつでも…」
なんで、いつでも緑間君のことを見てたんだろう。朝、授業中、休み時間、昼休憩、部活、下校。暇さえあれば、というのもおかしいか、暇ではない授業中ですら見ていたんだ。
「…変だな」
緑間君の頭から手を離して、脚立から降りた。いつまでも目を合わせていたら、何かが変わってしまう気がしたから。
「なんかごめん」
「何を謝る必要があるのだよ」
「えーっと、着替え覗いたから」
我ながら下手な言い訳だ。ちらっと緑間君を見上げれば、不機嫌そうな顔をしていた。うつ向いたら、緑間君に手をとられた。
「何…」
「高さが違っても、手は届くのだよ」
緑間君の大きな手が、私に触れている。私の手が、握られている。
「どんなに小さくても俺の目には横島は映っている。高さが違って目が合わないのは、お前がこっちを見ていないだけなのだよ」
顎に手をかけられくいっと顔を上げさせられる。
緑間君の目にはしっかりと私が、私だけが映っていた。
「俺こそ…いつも横島のことを見ていた」
「…どうして、私なんか」
こんなに平均的で何の取り柄もない私なのに、どうしてこんなに優秀な緑間君が私なんか。
「…それを言うなら、お前が俺を見ていた理由もわからないのだよ」
「私はただ…」
ただ、なんだ。理由もなく見ていた訳でもあるまい。でも考えたこともなかった。本当に、ただ緑間君と知り合って、友達になりたかっただけ。一緒にいるだけで、近くにいるだけで、見ているだけで、幸せだった、だけ。
「ただ、緑間君が…」
気が付くと、心臓が激しく動いていた。途端に顔が熱くなってきて、目を合わせていられなくなった。
「ご、ごめん、離して…」
顔を背けても、緑間君が私の頬に手をやって真っ直ぐ顔を向き合わされた。
「俺が横島を見ていたのも…たぶん同じ理由なのだよ」
「えっ」
緑間君は私から手を離して、傍にあったパイプ椅子に座り込んだ。うつ向いて動かなくなってしまったから、近付いて緑間君の肩に手を置いた。
「もし良ければ、これからもっと緑間君のこと見ていたいんだけど…迷惑かな」
「…別に、構わないのだよ」
恐る恐る緑間君の頬に触れてみると、想像以上に熱かった。そのまま顔を上げさせると、自然と目が合った。
「背が低くて見える世界が狭くても、私のことを見てくれる緑間君がいると、世界が輝いて見えるよ」
「…そうか」
頬を薄桃色に染める緑間君は、いつになく可愛かった。
だけど、
「もっと照れてくれていいのに」
「うるさいのだよ」
「真ちゃん照れてよ」
「…高尾の真似をするな」
緑間君は深呼吸をして立ち上がった。なんだか一段落ついて落ち着いたらしい。このまま帰らせるのも、悔しい。私にこの気持ちを気付かせておいて帰るなんて。
「真ちゃん」
「だから…」
「好きだよ」
緑間君の動きが止まる。心なしか、段々顔が赤くなっているようにも見える。
「もっと緑間君と同じ世界を見たい。緑間君のこと知りたい、教えて。私のこと、どう思ってるのか」
「…言わなきゃわからないのか?」
「言ってくれたら、嬉しい」
「…」
緑間君には手が届かないと思っていたのに。こんなに簡単に触れられるなんて。
「俺も…好きなのだよ」
緑間君と同じ想いだったなんて。
余韻に浸っていたら、手を握られた。
「な、なに」
「帰るのだよ」
「手…!っていうか、高尾君はいいの?」
いつも二人で登下校してるのに。
緑間君は私の手を引いたまま部室の扉を開けると、部屋の外に高尾君がいた。
「あれ!真ちゃんもう帰り?ねぇ真ちゃん?」
高尾君はニヤニヤしていた。
どうやら盗み聞きをしていたらしい。
「高尾君は帰りに事故ればいいと思うよ」
「優ちゃんひどっ!」
「行こ、緑間君」
さりげなく繋いでいる手を離そうとしたのだが、緑間君は私の手を離してくれなかった。
「真ちゃんスゲー!」
お陰で繋いでいる手を高尾君に見られてしまった。それが原因なのか、次の日から周りが私たちを見る目が変わったのは言うまでもない。
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