髪の毛


「ねぇ…あの。えーっと…」

後ろから呼び掛けられた気がした。
だが名前も呼ばれていないのに振り返ったら人違いでした、なんて落ちでは恥ずかしいから気付かない振りをした。

「ねぇ山崎くん、この人の名前って何だっけ」
「え?ヅラ…」
「ヅラじゃない、桂だ!」

不愉快な呼ばれ方をされた気がして、訂正しながら振り返った。
すると予想以上に近い位置に、後ろの席の女の顔があって驚いた。

「わ、いきなり振り向くのはよくないよ。えっと、桂くん?」
「すまぬ…、それより、何か用か?」

驚いたせいで落ち着かない心臓なんて気にしないよう平静を保ちながら尋ねてみた。

「前から思ってたんだけどね、桂くんの髪の毛さらさらで綺麗だし良い匂いするから、シャンプー何使ってるのかなーって聞きたかったの」
「…そんなもの聞かずとも、お前の髪も綺麗ではないか」
「えっ、そう?でもね、枝毛とかけっこう気になるんだよね。桂くんの髪じーっと観察させてもらったけど、枝毛なんて見当たらなかったもん」

横島はそう言って俺の髪に指を滑らせる。馬鹿共に引っ張られる以外で他人に髪を触られるのは初めてで、更にどきどきした。

「ついでにちょっと匂い嗅いでもいいかな…?」
「…何を言っている」
「いや、だってね?近くにいたりすれ違ったりする時一瞬だけすっごい良い匂いするからもう我慢できないんだよ」
「普通に考えたら女子の方が良い匂いをさせているだろう。他をあたれ」
「女子じゃないのに良い匂いさせてるってところに希少価値があるんだよ、わからないかな?」

解るわけがない。男の髪の匂いなど嗅いで何が楽しいんだ。

「じゃあじゃんけんして勝ったら匂い嗅がせてよ」
「…」
「おねがい」

顔の前で手を合わせ上目遣いで見られたら断れるわけがない。俺もそこまで冷たくする意味が無いしな。

「仕方がない…」
「やった!じゃーんけーん、ぽん!」

唐突に始まったじゃんけんに混乱して出したのはグーだった。しかし横島はチョキを出したので俺の勝ちだ。

「わぁ、勝ったね。じゃあ匂い嗅がせてね」
「は?お前は負けだろう」
「ん?べつに私が勝ったら匂い嗅がせて、なんて言ってないし。どっちが勝っても桂くんは嗅がれる運命だったんだよ。細かくルール決めてないのにじゃんけん始めちゃうのがいけないんだよ」

なんてずる賢い奴だ。というか細かく決める前にじゃんけんを始めたのは横島だ。

「…悪いが、今は授業中だからそういうのはやめろ」

休み時間になったらトイレにでも駆け込んで逃げてやろう。
そう思ったのだが、授業はもう終わりのようでちょうどチャイムが鳴ってしまった。

「ほら、授業中じゃなくなったね。いただきます」

横島はにっこり笑って俺の髪を手に取り嗅ぎだした。クラスの奴らに奇異の目で見られている気もしたが気のせいだということにしておきたい。

「桂くん、絶対髪の毛短くしちゃダメだよ」
「その予定は無い」
「なら良いけど。短くしたらこんな風に嗅げなくなっちゃうからさ」

横島は満足したのか髪から手を離した。

「ひとまず、ありがとね!楽しめた!」
「そうか、礼は今から大人しくしてくれるだけで良いからな」
「え?」

やられたらやり返す。
俺は横島の机に少し身を乗り出して、横島の髪に近付いた。

「ちょっ、あのっ、桂くん!」
「逃げるな」

横島は遠ざかろうとしたので後頭部に手をやって動けなくし、横島の髪の匂いを嗅がせてもらった。髪というか、近すぎて横島自体の匂いを楽しむことができた。
しかし楽しむというと変態くさいな。そんなことより、良い匂いだ。女子というのはこんなにも幸せな匂いをさせている生き物だったのか。

「あの、恥ずかしいから…」
「先にその恥ずかしいことをしてきたのは横島だろう?」
「うう…」

手で顔を覆い隠すほど恥ずかしがっていたので、意地悪するのはやめてやった。しかし楽しかった。

「か、桂くんのばか…」
「人にやられたくないことをするからいけないのだろう」
「…はい」

横島はなんだか落ち込んでいるようにも見えたから、頭を撫でてみた。そしたら消え入りそうな声でまた「桂くんのばか…」などと言われてしまった。
横島にばかと言われても、特に悪い気はしなかった。