▼▲▼
「…ねぇ、ここわかんない。数学嫌…」
「あぁ?」
私は放課後に居残りをしていた。茜色に染まり始めた教室には、担任の教師と二人きり。
「お前、馬鹿だろ」
もさもさ天パ野郎は教師のくせに生徒の私に向かって馬鹿とか言ってくる。教育委員会に訴えてあげようか。
「学年一位のお前にわかんねー問題が俺にわかると思ってんのか」
「そんなこと言うなら、居残りまでして勉強する意味ないでしょ」
「じゃあ帰れ」
「…」
帰りたくない。口には出さないが態度で示すため、そのまま勉強を続けた。視線が刺さってくる気がするが、負けちゃいけない。
「何時までやるんだ?」
銀八は眼鏡をくいっとあげて、壁にかかっている時計に目を向ける。そろそろ生徒のほとんどは帰っている時間だろう。
「先生が帰るまで」
「ふーん」
めんどくさそうに返事をするけど、先生だって帰りたいといった仕草は見せてこない。
勉強を手伝ってくれるわけでもないが、一緒に居てくれる。ただそれだけでも、私の心は落ち着いてくる。
「先生」
「あ?」
「卒業したら、先生は先生じゃなくなるね」
「当たり前だろ」
「こうやって、毎日なんて会えなくなるんだね」
「そりゃあな」
よくもまぁ、そんな軽々と返事をしてくれるな。私は毎日そんな憂鬱なことを考えて、毎日無駄に居残りして先生との時間を味わっているというのに。
「…銀八」
もどかしい。
「卒業したら、先生と生徒じゃなくなって、ただの他人になるんだね」
何の関係もない、赤の他人になってしまう。会う理由もなくなるし、町中で偶然会うことだってほとんどないだろう。
「私…、卒業したくない。大学受験だって、したくない。もっと、留年してでも、銀八との日々を過ごしたいよ。」
恋しい。
「離れたくない」
鬱陶しいとか図々しいとか思われたかもしれない。
でも、私の意思に反して流れてくる涙を止められるわけでもない。
銀八のおかげで落ち着いた心も、銀八のせいでかき乱される。
流れる涙は、解けない問題の上に染みを作っていく。
「銀八…」
たった三年間の想い。私にとっては、三年もの想い。
「大好きだから、傍にいて…」
三年間、貫いてきた恋心。
三年間、貫いてきた優等生。
自分の心のためなら、真面目な優等生なんて肩書きはいらないと思った。
「お願い…、何でも、するから」
私のとびきり重い想いは銀八に伝わっただろうか。重すぎて受け止めてもらえないだろうか。
「銀八…」
不意に、頭に乗せられた温かい手。大好きな銀八の、大きな手のひら。
「優」
「…はい」
「ここまで優等生で頑張ったんだから、ちゃんと大学受験ぐらいしろ」
「…はい」
真面目な説教。握りつぶされるように軋む私の心臓。苦しい。
「卒業して、受験して、受かったら、また俺に会いに来い」
「…銀、八?」
「ちゃんと第一希望の大学受かって、その時まだ今と同じ気持ちだったなら、お望み通り傍に居てやるよ」
頭を撫でるその手が、ものすごく優しい。
「…約束?」
「おう」
「…銀八は、私のこと好き?」
「約束の時まで、秘密」
意地悪そうに笑う銀八に、私の心はわし掴みにされた。
▲▼▲