心の距離

「よろしくね、修兵くん」

俺が死神になったときに既に席官だった横島さんは、親しみを込めて俺を名前で呼んでくれた。右も左も解らない俺にたくさんのことを教えてくれて、随分と可愛がられていたと思っている。それなのに、ある日突然、横島さんの態度が変わった。

「お疲れさまです檜佐木副隊長、報告書です」

それは、俺が副隊長になってからだった。名前で呼ばれるたびに胸を踊らせることもなくなり、他の皆と同じように檜佐木副隊長と呼んでくることに悲しくなった。せっかく強くなったのに、距離が遠くなってしまった気がした。

「…なんか、元気ないですね?お疲れですか?」
「いや…大丈夫だ、ありがとう」

副隊長になってしまったせいで、敬語を使われるようになってしまった。そして逆に、敬語だった俺は敬語をやめて話すようになった。俺が席官である間はお互いにため口になっていたのだから、そのままでいいだろうと提案はしたのだが、上下関係はきっちりしたいらしく、却下された。せめて勤務時間外は敬語をやめてほしかったが、ただの仕事仲間にそんなこと言えなくて、そのままになってしまった。

「…横島」
「なんですか?」
「話があるから、座ってくれ」
「え…私何か悪いことしちゃいました?」

見た目からして歳は離れていないような気がしたから、呼び捨てにするのは抵抗が無かった。どうせなら下の名前で呼んでやりたいくらいだが、この人はただの、仕事仲間だ。恋人でも無ければ友達でも無い。きっとこの人にとって俺は、小さな存在だ。

「いや、たまにはゆっくり話したくて」
「…真面目な檜佐木副隊長が勤務中にそんなこと言うなんて、珍しいですね」
「横島が思ってるほど真面目じゃないしな」
「そうなんですか」

俺が真面目に思われてしまうほど頑張ってきたのだって、この人に頑張ってる姿を見せたかったからだ。認めてもらいたくて、あわよくばかっこいいなんて思われたくて。

「…この前、九番隊の女の子たちが、檜佐木副隊長は真面目で誠実そうでかっこいいって噂してましたよ」
「ほんとかぁ?」
「ほんとです。人気あるみたいですよ」
「…人気あるならもうちょっと、こう、何かあってもいいだろ」
「何か?」
「…アプローチ的な、何か」
「無いの?」
「無ぇよ」

むしろ女たちはあまり俺に寄り付いて来ない。目付きも悪いし顔が怖いせいか。

「へー、意外と可哀想ですね」

横島の言葉がグサリと刺さる。可哀想だと思うならもっと俺に優しくしてくれ。

「別にいい。ぐいぐい来られたところで俺にはどうしようもねーし」
「お誘いに乗ってあげないんですか?」
「好きな女以外の相手したくねぇよ」
「いるの?」
「あ?」
「好きな女」

横島が驚いたように聞いてきた。いや、あんただよ、という言葉をぐっと飲み込んだ。

「いねぇよ」
「はは、いたら女の子たち泣いちゃいますね」
「横島は?」
「え?」
「その、女の子たち、ってのに含まれてんのか?」

何つーこと聞いてんだ俺は。私が泣くわけないじゃないですか〜とか笑いながら言われたらどうするつもりだ。俺が泣くぞ。

「含まれてますよ。私も檜佐木副隊長のファンなので」
「…俺はアイドルか何かかよ」
「そんな感じですね」

そう思われてんなら、俺らの距離が縮まないのも当然か。アイドルとファンの関係が発展するわけねぇよな。

「だからみんな、抜け駆けしちゃダメだと思って檜佐木副隊長にアプローチできないんですよ」
「…そんな規則があんのかよ」
「女の子は怖いですからねぇ。誰も言わないけど、暗黙のルールみたいになってるんです」
「ふーん…」

それを破ってまで俺に近付くほど俺を好いてる奴は居ないってことか。それはそれで寂しいな。

「…そのせいか、檜佐木副隊長が随分遠く感じます。後輩だったのに副隊長にまでなって、アイドル視されて、手が届かないなぁって」
「…横島が距離置いたんだろ。敬語になっちまうし、名前も呼んでくれねぇし」
「な、名前で…呼んでいいの?副隊長の威厳がとか、そういうのは、」
「俺はずっと、前みたいに名前で呼んで欲しいって思ってんだけど」
「…今さら、呼び方戻すのもなぁ」

他の女の目が怖いってか? そんなの、俺が黙らせてやるってのに。

「抵抗あるなら俺も下の名前で呼んでやる。これでおあいこだろ」
「は!?いや、それは、」
「優」
「はい!!」

元気な返事をして顔を赤らめた。そんな風に顔色を変えられると、少し期待してしまう。

「優って呼ばれて、修兵くんって呼んでたら、みんなに勘違いされちゃうと思うんですけど…」
「具体的に」
「…付き合ってるのかとか、思われたら、迷惑かけるでしょ」
「誰に」
「…檜佐木副隊長に」
「俺は構わない」

言い切ってしまえば横島は黙ってしまった。副隊長の権力で脅しているように思えてしまうから、あまり気弱にならないでもらいたい。

「女の子たちの目が怖いとかそれだけの理由で距離置いてるだけなら、今すぐやめてくれ。俺はもっと、前みたいに…」

上下関係のある仕事仲間に、対等な関係が求められないのは解る。だとしても、友達としてでもいいから、今よりもっと近い関係が欲しい。

「困ります」
「…そうか」
「これ以上仲良くしたら、我慢できなくなります。檜佐木副隊長が困るって解ってても、ぐいぐい迫っちゃいますよ?好きだ、って、付き合ってくれ、って、言っちゃいますよ?いいですか?ダメですよね、困りますよね」
「…は」
「だからもう、手の届く距離に居ちゃダメなんです。失礼します」

言いたいことだけ言って、泣きそうな顔で立ち上がって部屋を出ていこうとするから、「待て」と言って止まらせた。

「…横島の言う通り、先に言われるのは困る。俺から言わせてくれ。…、好きだ、付き合ってくれ」

殴られること覚悟で、横島を後ろから抱き締めた。

「好きな女、居ないって言ったのに」
「居るって言ったら泣いただろ」
「…うん」
「それで、返事は?」
「…私でよければ、よろしくお願いします」

震えた声と共に、水滴が腕に落ちてきた。結局泣かせちまったのか。

「…ほんとは、副隊長になってすぐ言おうと思ったんだ。それなのに距離置かれて戸惑って、言えなかった」
「ごめんね…。勝手に、もう遠い存在だとか思っちゃったから、どうしたらいいかわかんなくなっちゃって…」
「…もういい。離れてた分、これから補えばいい」

まだまだ先は永いんだ。これから何年も、何十年も、俺たちは生き続ける。空いてしまった隙間は、これから埋めることだってできる。

「他のやつに何か言われたらすぐ俺に言えよ。俺が黙らせてやるから」
「…ありがとう。修兵くん」

名前で呼ばれるのはいつぶりだろう。久しぶりに、胸の奥が暖かくなる感覚がした。