満月の贈り物
いやだ、いやだ、いやだ……!
わたしは山の中を懸命に走っていた。ここがどこなのか分からない。夜中で動物たちも眠っているだろう。この際帰れなくてもいいとも思っていた。
普通に起きて、家業を手伝って、そしていつも通りに布団に入った。
うつらうつらとして、眠れる幸せに浸っていた時それは来た。
ひやりとした手がわたしの頬を撫ぜなのだ。
骨ばった手、荒い息遣い。それらは父や母のものではなかった。十四にもなれば嫌でもその意味が分かる。
いわゆる夜這い、というやつだった。
誰が私の元に来たのかはわからない。家業のかんざし屋に立っていれば通りにはたくさんの男の人がいる。最近しつこく話しかけてきた男がいたが、確証はない。それが誰なのかもわかりたくなかった。
「いやっ!」
わたしは無我夢中でその手をきつく噛んだ。ひるんだすきに布団を抜け出す。
父と母は生憎出かけていて留守だった。それを見越して来たのだと思ったらやけに腹立たしかった。
「おやめください!」
怒りに任せて叫んだ。そして驚いている隙に逃げたのだ。本当に運が良かったと思う。
怖くて怖くて、息が上がっても足を止めることが出来ない。もし追って来ていたらと思うと身が震える。
夜着のままで出てきてしまったから少し肌寒い。走りながら自分を抱けば頬を撫でられた感触が蘇って、喉に酸っぱい物が上ってくるのを感じた。
吸い込んだ冷たい空気に咽たとき、それは聞こえてきた。
――こーえもーころーさずー……すがたもみーせーず……
歌声だ。
こんな山の奥で誰が歌っているのか。男の人の声のようだった。わたしは思わずそちらに足を向ける。
本当は男の人になんて父以外会いたくない……それなのにあたたかな歌声に誘われて、自然と歩き出していた。
「逃げろ、逃げろ、散れ、散れ。風のようにー……」
……いた。あの人だ。
わたしは陰に隠れる。歌声の主は高くそびえる岩の上で座っていたのだ。後ろを向いていて顔は見えなかったがくすんだ蜜柑のような色の髪を揺らしている。
きれいな歌声……わたしは切れた息を整えるために木陰にしゃがんだ。
「そこにいるのは誰だい?」
歌が止まって、その人の声が訪ねて来たようだった。
まさか気付かれているのだろうか? そんな筈はないと思った。彼はこちらを向いていないし、岩は十五尺ばかりある。木陰に隠れているわたしを目視できるとは思えない。
しかし、念のため息を殺した。
「女性ひとりじゃ危ないですよ。僕はなにもしない。約束します。姿を見せてくれませんか」
声は張り上げられたが、相変わらずその人は後ろを向いていた。
わたしは意を決して木陰から出る。するとその人はくるりとこちらを向き、岩から飛び降りる。
――危ない!
思わず目を伏せた。あんな高さから降りたら足を挫いてしまう。
しかし、着地した音が聞こえなかったのだ。
「こんばんは」
顔を上げればその人は笑顔でこちらを向いていたのだ。
よく見れば瑠璃色の忍び装束、そして頭巾を身に付けている。普段目にかかることのない忍者だったのだ。
「こ、こんばんは……」
「こんな山奥にひとりでどうしたの?」
「え、えっと……風に、当たりたくて……」
随分下手な嘘をつく。その人は困ったように笑った。
「ああ、怪我をしているね」
彼はわたしの足を指差した。裸足で山を駆けたものだから、葉や枝、小石で傷がついていた。今まで全く気付いていなかったのにそれを目視すれば途端に痛みを感じる。
「こちらにどうぞ」
その人は丁度よい大きさの岩のところまでわたしを連れて行ってくれた。そしてかぶっていた頭巾をしゅるりと取る。
「あまり器用じゃないからこれで許してね」
「駄目です、頭巾が汚れてしまいます」
彼はわたしの制止も聞かず、怪我をした足に頭巾を巻いていった。
あっという間に包帯のように巻き上げてしまう。わたしは申し訳なくて何度もお礼を言った。
「あの、忍者さん。ありがとうございます」
「どういたしまして。僕の名前は不破雷蔵。忍者ではなく、それを学ぶ忍者のたまごなんだ。……プロの忍者なら」
雷蔵さんは真上を指差した。
「緊急時以外、こんな綺麗な満月の日に出かけないよ」
でっぷりとした満月がそこにはあった。この明かりがあったから、わたしはここまで恐れずに逃げてこられたのだ。
「雷蔵さんはなぜこんなところに?」
「満月の日はだいたいこうやって裏山の誰もいないところで歌っているんだ。いろんな迷いから逃げたくて」
「迷い……ですか?」
「僕の事はいいんだ。……それよりあなたは何故こんな山奥に?見れば夜着のようだけど……ああ、ごめん!」
雷蔵さんは上着を脱いで、そしてわたしに掛けてくれる。そんなことをしたら雷蔵さんが寒いのでは、と返そうとしても譲らなかった。
「いいから。薄着はよくないよ。それよりただ事じゃあないようだけど」
「あの……わたしは……」
言えない。わたしは話し出すことが出来なかった。じっと下を見て触れられた頬を触る。ぞっと悪寒が走った。
「その前に」
「はい」
「名前を聞いてもいいかな?」
雷蔵さんは首を傾げた。
「如月そよです」
「そよさん」
雷蔵さんに名前を呼ばれてわたしは返事をした。
「僕の歌を聞いてくれる?」
小さく頷く。そうすると彼は月の方を見て、口ずさみ始めた。
「がっかりして、めそめそして、どうしたんだい……」
――太陽みたいに笑う君はどこだい
月明かりに照らされて雷蔵さんは楽しそうに歌っている。
あたたかな歌声にいろんな気持ちが溢れてきてわたしは自然と涙を流していた。
「そよさん? 大丈夫?」
「今夜、家に父さんも母さんもいなくて……床に就いたら知らない男性が来たんです。それで、わたしっ、怖くて……逃げたんです」
いつの間にかあったことを全部話していた。するすると言葉が流れて止まらない。雷蔵さんはただただ頷いて聞いてくれた。
「君はかんざし屋さんの娘さんだろう?」
「なぜ、そのことを……?」
「如月屋っていうかんざし屋にそよさんってきれいな娘さんがいるって同級生やくのたまの間で話題になっていたから」
ああ、くのたまっていうのはくのいちのたまごでね、と雷蔵さんは陽気に言った。
「うう、嘘です!」
彼は、嘘なんかつかないよ、とはにかむ。
「そりゃあ、街の男は年頃になったあなたを放っておかないってわけだ」
「でも、わたしは嫌なんです。知らない人と体が先に結ばれて……その先に何があるのでしょうか。こころは死んでしまいます」
ああ、何故だろう。雷蔵さんに言わなくてもいいことを言ってしまう。
「すみません、生意気に。子供の夢物語のようなことを言いました」
想い人が出来て、結ばれて、嫁いで、子を成して……当たり前だけれどこの時代では難しいことをわたしは夢見ている。
「生意気なんて思わないよ。誰もが夢見るさ。……そうだなあ」
ううん、と雷蔵さんは何かを考え始めた。ぶつぶつと独りごちながら唸っている。
しばらく考えた後にぱっと顔を上げたのだった。
「今夜は僕と一緒に過ごそう」
「……え!?」
いきなり何を言いだすのだろうとわたしは驚倒の声をあげる。
「安心して。何もしないって約束する。何なら武器になる物を持ってくれたって構わない」
雷蔵さんの作戦はこうだった。わたしと共に家で一晩過ごし、周りの男性に恋仲の相手がいると思わせる。
「でも! そんなの、雷蔵さんに失礼です」
「気にしないで。これも何かの縁だし魔除けだと思ってくれて構わないよ」
その笑顔が、嫌だと思わなかった。わたしは直感に任せて首を縦に振る。
「さあ、背に乗って」
雷蔵さんはしゃがんで後ろを向いた。
「自分で歩けます!」
「その足じゃ、夜が明けてしまうよ。鍛錬に付き合うと思って。ね?」
「し、しかし……」
「早く」
わたしは控えめに肩に手を触れる。同じ男性なのに雷蔵さんには触れても気持ち悪くなかった。
足が浮いたと思うとひゅうと風が抜けていく。すごい速さで雷蔵さんは山を下りていった。
しっかりと掴まれば彼はまだまだ速度を上げる。目を開けた時には見知った場所についていた。
「ここからは降りて君の家まで行こう」
「はい、こちらです」
案内しようとしたとき、雷蔵さんがぴくりと肩を震わせた。
「どうしました?」
「悪いんだけど肩を抱いてもいいかい?」
「え、ええ……」
雷蔵さんは遠慮がちにわたしの肩に触れる。そのまま黙って家に入って、というので二町ばかりそのまま歩く。引き寄せられた肩に顔が熱くなる。
表から家に入れば、雷蔵さんがすぐに手を退けた。
「ごめんね。君の家の近くで誰かの気配があったから」
「そうでしたか……良くお分かりになりましたね」
「最近勘を磨く訓練をしていてね」
わたしは羽織らせていただいた着物を返す。雷蔵さんはそれを着直すと土間の戸の前に座った。
「雷蔵さん……?」
どうしたものかと彼を呼ぶ。すると困ったような声で帰ってきた。
「男を座敷へ上げるものじゃあないよ。僕はここで明け方まで休むから、君は布団で休んで。そよさんの両親が帰る前には出るから」
「いえ!ここまでしてもらった方にそんな粗末なことできません!わたしもそちらに座ります」
自分の着物を羽織って降りようとする。雷蔵さんは慌てたように立ち上がった。
「ああ、わかったよ! じゃあ、そうだな……そっちの壁に寄りかかって休むから! 体を冷やすし、君はこっちに来ちゃだめだ」
そっち、と差したのは横になると足元の方角にある壁だった。
「男性に足を向けて眠れません!わ、わたしも壁で休みます」
こればかりは譲れないとわたしは反対側の壁にもたれかかって座った。雷蔵さんは少し呆れたように笑って、諦めてくれたのか何も言わずに座る。
窓からは月明かりが入って、静かな夜だった。
たくさん走って疲れたのか、うつらうつらとし始めてしまう。雷蔵さんはまだ起きているのに……と目を擦った。
「そよさん」
遠くから声がする。はい、と寝ぼけた声で返事をした。
「君のことが噂になっているって本当は嘘だったんだ」
「……は、はい……? わたしがきれいな娘さんだなんておかしな噂です」
「それは本当。でもそれを一番先に言いだしたのは僕だって話なんだ」
わたしは驚いて顔を上げる。座る前に急いでまとめた布団の向こう側には雷蔵さんが胡坐をかいていて、照れたように頭を掻いていた。
「……店先に立っていた君が愛らしくってね。いつも見に行ってた。あそこの娘さんきれいだね、って同輩にいったらあっという間に広まっちゃってさ。僕の友人おしゃべりが多いの」
そう言えば……一時期男性のお客様が増えた気がした。
どの方もとても派手な化粧をした女性を連れていたのでよく覚えている。それを言えば、同輩か先輩の女装かもしれないね、と雷蔵さんは言った。
「今日はいい月だね。忍者にとって月は敵も同然なんだけど、君に会わせてくれた」
そう言って雷蔵さんは月を見上げる。その顔が薄黄色に照らされていた。穏やかな、優しい表情はわたしの心に熱を宿す。
「ひとつ、提案をさせてくれない?」
「はい、わたしにできることなら……お礼もさせてください」
「しばらく僕は君と恋仲のふりをしなくちゃいけないだろう?それで万一に僕を気に入ってくれたら、そのときは本当の恋人になってほしい」
雷蔵さんはまっすぐこちらを見ている。
「ごめん……君が傷ついて、しかも眠たい時に言うなんて卑怯だね」
眉根を切なげに寄せて、困ったように笑った。あんなに鋭い観察眼を持っているのに、わたしの眠気が吹き飛んでしまっていることに気が付いていないようだった。
わたしは立ち上がって雷蔵さんの元へ駆け寄る。驚いている彼に構うことなく、その前へ正座した。
「卑怯なんかじゃありません! わたし、雷蔵さんのこと好きです!」
滑らせた言葉に自分でも驚く。今日会ったばかりの雷蔵さんにわたしは何を言っているんだろう。軽い女みたいじゃないか。
わたしは思わず、えっとその、そういう意味でなくて……と口ごもった。
「わかってる。嫌じゃないってことを言ってくれたんだろう? ありがとう」
そういうと膝の上に乗った手に大きな手が重なった。
温かくて、大きな手。全然嫌じゃない、この人の手。
ぐいっと引かれて立たされる。そしてわたしが元いた壁に誘導されたのだった。
「僕だって男だから、今日は離れて休もう。次の休みの日そよさんに必ず会いに来るから」
雷蔵さんはわたしの手を一度だけ強く握った。
「おやすみ」
「お、おやすみなさいませ」
雷蔵さんは反対側の壁に戻って行った。わたしは握られた手をさすってへなへなと壁にもたれかかる。
これじゃあ翻弄されっぱなしだ。こんな優しくて格好良い人がわたしを想ってくれていたのに気付いていなかったなんて。
恥ずかしくて雷蔵さんの方を見られなかった。窓枠から月を眺めているのだろうけど、胸がつかえるように苦しくて前を向けない。
長い夜に感じた。目を瞑って心臓の音を落ち着けていれば、鳥の鳴く声が聞こえる。
「……雷蔵さん!」
明るくなった部屋で立ち上がる。そこに彼の姿はなかった。長い夢を見ていたのかと思ったが、足に巻かれた頭巾と隣に置かれたある物が幻ではなかったことを教えてくれた。
わたしはそれを拾い上げる。
「手紙……?」
中身を確認すると、流れるような文字で文が綴られていた。
――如月そよ様
空が白んでまいりましたので、こちらを出ます。
街で客を引くあなたがとても眩しく見え、苦手な変装の練習だとうそぶいては様々な人になり、あなたを遠目から一目見に行っておりました。
自分に自信がなく、素顔であなたの前に現れたのは今日が初めてです。
卑怯な僕をお許しください。
三日後の午後、迎えに行きます。店の前の一本杉で待っております。
不破雷蔵
わたしは綴られた文字を何度も読み直す。こんな熱心に想ってくださっていた。そしてわたしが気付かったわけではないのだと言うことに安堵する。
不破雷蔵……太く書かれたその文字にそっと人差し指を重ねる。思いがけずできた好い人を浮かべては、恍惚の溜息を吐くのだった。
満月の贈り物
落ち込んでいた僕にくださった君という愛い人
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