邂逅の先、白の上で



 家の裏にある大きな山。その中腹には大きな原っぱがある。
 そこにはたくさんの白詰草が自生していて、長い期間花を咲かせている。
 小さい頃にお爺さまに教えてもらったこの場所は、わたしの秘密の場所なのだ。
 わたしはその中心でひとり、座っていた。花を摘んで編んでもいいし、四葉を探してもいい。ここへ来ると時間はあっという間に過ぎてしまう。
 今日は家の手伝いをしなくてもいいよ、なんて言われたからそれに甘えてわたしは羽根を伸ばすことにしたのだ。
 ひとつ、花を摘もうかなと手を伸ばした時だった。
 わたしの目の前には“ある生き物”が座っていた。
 いつの間にか近づいてきていた“それ”はふわふわとした毛を持っている。鼻をぴくぴくとしながらこちらを見つめていた。

「い、いや……! うさぎ……!」

 目の前にいたのは真っ白な野うさぎだった。
 わたしはこれがどうしようもなく怖いのだ。
 叫んだのにかかわらず、それが一歩近づいてきた。身が縮こまる。
 あっちへ行ってほしいのに、それに反するようにじりじりと迫ってくるのだ。

「……いや! 待って、ごめんなさい! お願いです。来ないで!」

 わたしはあまりの怖さに後退する。もうそれが触れるほどの近さに来た時だった。

「おい、どうしたんだ?」

 誰かが後ろから声を掛けてくれた。
 親にも教えていないような場所。常にひと気のない場所だった。こんなところへいったい誰が……と思ったのだが、とにかく助けが欲しくて振り返る。
 原っぱの入り口に立っていたのは髪を高く結い上げた、体格のいい男の人だった。
 何も言えないわたしをその人不思議そうに眺めている。そして白詰草の中をすたすたと歩いてきた。

「大丈夫か? 何に追われている?」

 その人はわたしの正面、原っぱの向こうへ目をやった。
 その先にはもちろん何もいない。彼は怪訝そうな顔をして、わたしの視線を追うように足元を見る。
すると、嬉しそうに顔を綻ばせた。

「雪子! こんなところにいたのか!」

 その人はほら、おいで……と手を広げて、あっさりとそれを抱き上げてしまった。
 そして荷から竹でできた道具を出して、片手で器用に作業をしていく。わたしは腰が抜けてしまって、座り込んだまま様子を見ていることしかできなかった。
 あっという間に四角形の檻のような籠が出来上がって、うさぎをそこへ入れてしまう。
 作業を終えた彼はこちらに話しかけてきた。

「ごめんな。もしかして、うさぎが怖かったか?」

 わたしは無言で頷く。

「これ、うちの学園で飼ってるやつなんだ」

 学園……その言い方に心覚えがあった。

「もしかして、忍術……学園ですか?」

「おお、知ってるのか?」

「おじいさまが、昔少しだけ教師をしていたと……」

「おほー、そんなことあるんだな。じゃあおじいさまは忍だったのか」

 その人は驚いたように声をあげた。
 わたし自身、話半分にしか信じていなかったのだが、耳がタコになるくらい聞かされていたことだった。
 昔じいさまは忍者でな、生徒に忍術を教えていたんだよ、と。
 今は忍に関する仕事は何もやっていないが、たまにここで忍術のような物を見せて貰った記憶がある。

「俺は竹谷八左ヱ門」

 その人……八左ヱ門さんは暑い日のお日様みたいに眩しく笑った。

「如月、そよです」

「しかし、女の子がうさぎが怖いなんて初めて聞いたな。なんで怖いんだ?」

 竹谷さんは白詰草の葉を摘んで、雪子と呼んだうさぎに檻の隙間からあげていた。

「……わたしにもわからなくて。理由もないのにたまらなく怖いんです」

「まあ、怖いことに理由はいらないよな。怖いものは怖い」

 彼は白い歯を見せて力強く笑った。
 白詰草の中で、その笑顔がとても映えていた。じわりと胸の内が温かくなった。

「でも、そうだなー……俺もこれで生物委員長代理の身ではあるしなあ」

 竹谷さんはもう一本白詰草を摘んで、うさぎに与えている。それが全部無くなった時、もう一度こちらを見て言うのだった。

「そよ、うさぎ恐怖症を克服するか」

 その言葉に顔が引きつったのを感じる。
 それを気付かないのか、籠を持ち上げた竹谷さんはこちらに近づいてくる。
 わたしは本日二度目の叫び声をあげるのだった。

「……なんてことがあったなあ」

「ありましたねえ」

 わたしは白詰草の上に座って、花を摘んでいた。あとほんの少しで花は最盛期を終えてしまう。
 あの日から予定をあわせて竹谷さんとこの場所で会うことになっていた。はじめはいつも籠に入れたうさぎを連れてくるものだから、会いたくない気持ちが強かった。それでも熱心にわたしの苦手を克服しようとしてくれるものだから、それに応えようと努力はしたつもりだ。

「あれからどのくらい経ったか?」

「ええと、三月ばかりでしょうか」

「そっかあ、早いものだな」

 定期的に会っているがわたしたちは恋仲とかそういう関係ではない。
 責任感の強い竹谷さんは一度言いだしたことだから、と時間を割いてくれているのだ。まるで生き物の先生と生徒のような関係である。
 それなのに、その律儀で熱い性格と暑い日のお日様のような笑顔を見せる竹谷さんにだんだん惹かれてきている自分がいた。そうでなければ、命に係わることでもないのでうさぎ恐怖症を克服しようだなんて思わない。下心をお許しください、そう思いながらもわたしは今日も原っぱへ来ていたのだ。

「まだ、触れないか?」

「ごめんなさい……近くにいる分には涙は出なくなったのですけれど」

 わたしは申し訳なさから花を摘む手が止まってしまった。竹谷さんは、まあ無理をすることもないか、と朗らかに言ってくれる。
 実際それは困難を極めていた。最初は籠に入れられたうさぎを見ただけで卒倒しそうになった。いや、実際数回は気を失ったことがあった。
 それからは少し離したところに置いてくれて、だんだんその距離を縮めてくれた。
 竹谷さんはうさぎの事だけじゃなく、合間にいろいろな話をしてくれた。そんな時間はわたしにとって大切でかけがえのない時間だった。

「何をしているんだ?」

 竹谷さんは寝転がりながらわたしに尋ねてくる。
 ここ数か月でいろいろな話を聞いたが、彼がひとつしか歳が違わないことには一番驚いた。精悍な顔付きからもっと大人の男性に見えたのだ。だが、寝転がって気持ちよさそうに目を細めるお顔は確かに年相応に見える。

「ふふ、まだ内緒です」

 わたしは茎を手繰って、また花を摘む。竹谷さんの頭上にある籠にはあの時の白兎……雪子ちゃんがおとなしく入っていた。まだ怖いとは思うが、もう涙は出てこなかった。三月かけて見ている分には平気になったのだ。
 何度か同じ作業を繰り返して結ぶ。出来た!と声をあげれば、今まで寝転がっていた竹谷さんがむくりと起き上がった。

「お! 器用だなあ。これはなんだ?」

 わたしは機嫌よく白詰草の花でできた輪を見せる。腕にすんなり通るくらいの小さな花輪だ。

「雪子ちゃんの首飾りです」

 そういうと竹谷さんは驚いて目を丸めた。

「……見るのは平気になったので、次は触れるようになればなと思いまして」

「そうか! そよ、すごいな。よし、俺も手伝う」

 竹谷さんは寝転んで乱した髪をそのままに、雪子ちゃんの入った籠をわたしの前へ置いた。
 いざ言ったはいいものの、どうしていいか戸惑ってしまう。見かねた竹谷さんは私の後ろへ回った。
 目の前には雪子ちゃん。じっとわたしを見ている。一気に不安が襲ってきた。

「た、竹谷さん……」

「大丈夫、大丈夫」

 竹谷さんは背後に回って、わたしの後ろから雪子ちゃんの籠へ手を伸ばした。頭一つ分以上背の高い竹谷さんはそれに比例して腕も長い。
 ふわりと竹谷さんの前髪がわたしの頬に触れた時に今の状況をやっと理解した。
 竹谷さんがわたしを後ろから抱え込んでいる。

「た、た、竹谷さん!」

「大丈夫だって。怖くない」

 そうじゃなくて、と言いたいのだが竹谷さんは籠の上蓋を取ろうとしている。雪子ちゃんへの恐怖心と、今置かれている体制への緊張がごちゃまぜになってどうにかなりそうだ。
 厚い胸板が背に触れている。
 竹谷さんは、誰かが後ろにいれば安心すると思ってくれてこうしてくれたのだ。わかっているのに妙に意識してしまう。
 上蓋が外されて、長い耳が見える。首飾りを持った手が思わず震えた。

「動物は怖がっている人間がわかるんだ。落ち着いて。俺がいるから大丈夫だぞ」

 まるで、野生動物を宥めるみたいに優しく言うものだから心臓が跳ねる。そのままわたしの手が後ろから支えられた。
 手が握られている……そう思うと目の前がちかちかした。どきどきしているのが竹谷さんに触れられているからなのか、うさぎへの恐怖心なのか全然分からない。
 そのまま雪子ちゃんの頭の上まで手を持ってこられる。
 誘導されるまま手を落として花輪がちょうど首に掛かった。

「おお! やったな!」

 竹谷さんはそのままぎゅうとわたしを抱き込んだ。

「……! たけやさん……!」

 恥ずかしさの限界で俯くと、首飾りをした雪子ちゃんと目が合った。

「……あ、かわいらしい」

 わたしは思わず口に出す。初めてだった。うさぎが可愛らしいと思ったのだ。

「あ、ああ! ごめん! つい、嬉しくて!」

 抱きついていることに気が付いたのか竹谷さんはわたしを離して、申し訳なさ気に素早く退く。
 そしてばたばたと雪子ちゃんの籠の上蓋を閉めてから驚いたようにこちらを見たのだ。

「そよ……今、なんて?」

「あ、愛らしいと……初めてそう思いました!」

「おお! すごい成長だ! よかった、本当によかった!」

 わたしの手を握りしめてぶんぶんと振る姿は、自分よりも年下かと思うくらいにあどけなく見えた。いつも頼もしい竹谷さんが全然違って見えて思わず笑ってしまう。

「な、なんかおかしいか?」

「いえ、竹谷さんも可愛らしく見えたので」

 そう言えば竹谷さんは、それは褒め言葉なのか? とむっとされた。
 わたしの横に座り直して、そして上体を白詰草に預ける。彼はしばらく空を見上げていた。
 機嫌を損ねさせてしまったかもしれない。不安に駆られて竹谷さんの方を向く。
 そうすれば彼は困ったような切なげな顔で、ただ空を見ていた。

「……なあ、そよ」

 先程とは反対の落ち着いた声色で名前を呼ばれる。

「なんでしょうか……?」

「もしさ、そよがうさぎを克服したらさ。俺、もうここに来る理由がなくなっちゃうよな」

「そ……そうですね」

 わたしは言葉に詰まりながら返す。確かにその通りだった。竹谷さんは関わってしまったら最後まで、という信念の元でわたしのうさぎ恐怖症を治そうとしてくれていた。
 それがなくなってしまったら、もうわたしに会いに来る意味はないのだ。
 胸が歪に痛む。どうしようもなく泣きたい気分になった。

「ちょっとそよも寝転がって」

 白詰草を優しく叩いた竹谷さんにわたしはならった。柔らかな草は少しひんやりとしていた。
 いつの間にか眠ってしまった雪子ちゃんの寝息が聞こえてきていて、それ以外は風もなく静かだった。

「俺さあ、最低な奴なんだ。頑張ってくれているのにそよのうさぎ恐怖症が治らなきゃいいなとか思ってた」

 ぽつりと竹谷さんが言う。横を向けば空を見続けている彼の横顔があった。

「そよが好きだ」

 耳に届いたのは紛れもなく竹谷さんの声だった。わたしは一瞬理解が出来なくて、でも飲み込んでしまえば彼も同じ気持ちでいてくれたのだということに気が付いた。
 目の前にある竹谷さんの男らしい横顔がだんだん滲んでくる。

「……だからうさぎ恐怖症を治したいとかそういうの抜きで、お前に会いに来たい」

 駄目だろうか? と顔を赤くして聞かれる。わたしは堪えられなくなった涙を流して、何度も頷いた。

「わ、わたしも……そう思っていました」

 横を向いて手を差し出せば、大きな竹谷さんの手から伸びる長い指が絡められる。
 ああ、でも雪子を抱けるようにはならないとな、なんて言うものだからわたしの涙は止まって思わず身は竦んでしまう。

「時間はまだあるし、ゆっくりやっていこう」

 うさぎ恐怖症も、俺とお前の関係も。そう笑顔を向けられればどうしようもない熱が胸を焦がした。
 白詰草に囲まれて竹谷さんもわたしも笑っている。

「竹谷さん」

「なんだ?」

「好きです」

 高鳴る心臓を抑えて自分の気持ちを告げる。
 すると絡めていた手を離した竹谷さんは、ごろりと身を回転させてこちらに近づいてくる。

「……っ!」

 あっという間に後ろを向かされて、寝転がったまま後ろから抱え込まれる。首と地面の隙間から竹谷さんの逞しい右腕が出てきて、上からは帯紐のあたりを左腕でがしりと抑えられた。
 首筋に竹谷さんの息遣いを感じる。自分の心臓の音がどくどくとうるさい。

「八左ヱ門」

「は、はい……?」

「もう一回言って」

 鼻を首元にすり寄せられれば、もうおかしくなりそうだった。

「は、八左ヱ門さん、すきです」

 僅かに声が上擦って恥ずかしい。

「ああ、もう。かわいいなあ」

 あまりにぎゅうと締め付けるものだから少し苦しくて、それでも全然嫌じゃなかった。
 わたしは目の前の白詰草が目に入る。葉が四つついていた。珍しい、と手を伸ばそうとしたが、いつの間にか寝息を立てている八左ヱ門さんの腕に手を当てる。
 今は必要ないな……そう思って、わたしも瞼を落とすのだった。



邂逅の先、白の上で


ふたりをひきあわせてくれた白いあの子は
首を着飾ってすやすや寝ている


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