木の下、光あつめて
出会いは突然だった。
あれは今日と同じ、良く晴れた日。立葵が下から一輪ずつ花をつけ始めた時だった。杭瀬村の裏手にある山の、その中腹。一本杉がぽつんと植わっている。空まで届くんじゃないかと思うくらい高く伸びているそれをわたしはぼんやりと見上げていた。
ここへ来るときは大抵、両親に叱られた後か落ち込んでいる時だ。今日も例外にもれず、泣きそうな顔をお天道様の昇る空へ向けた。
何がそんなに悲しかったのか。いまではおぼえていないけれど些細なことがとても悲しく、辛かったことだけは記憶している。
涙が出そうになって、空の青がぼんやり滲んだ時だった。
「ここはどこだー!」
がさがさがさ、と大きな音と共に声が聞こえてきた。
思わず涙は引っ込んで、そちらを見れば男の子がひとり藪から飛び出して来ていたのだ。
黄緑色の着物と頭巾、深い緑の髪。その男の子は丸い目でこちらを見ていた。
「もしかして、杭瀬村の……」
「もしかして、忍術学園の……」
喋ったのは同時で、なんだか気まずくなって口を結んだ。すると、彼はこほんと咳払いを打つ。
「もしかして、杭瀬村の農家の娘さん?」
「は、はい。もしかして忍術学園の三年生ですか?」
「そうだ! 三年ろ組、神崎左門だ!」
両親も半忍半農、忍術学園へは近所に住む大木雅之助さんと一緒に何度か行ったことがあった。
その際に黄緑色の制服はきみと同じ齢の三年生だ、と教えてもらったのだ。
「わたしは杭瀬のそよです」
「そうか、そよか。……ところで忍術学園はどっちだ?」
「ええと、向こうの方……ですかね」
彼が来た方に指をさせば、もう一度そうか、と呟くように言った。そちらに向かうのかと思えばくるりと方向を変えて、杉の木の根元に座り込んでしまった。
「どうかなさいましたか?」
まさか怪我でもしているんじゃないだろうか。心配になって覗きこめば特徴的な丸い瞳がこちらを捉えた。吸い込まれそうな大きな瞳だった。
「いやな、お前が泣いているようにみえたから。せっかくこんなところに出たんだ。話くらいは聞こう」
不思議な人だった。いきなり出て来たかと思えば、わたしのことを見透かすようなことを言う。
なんだか全部話してしまえるような気がした。
気が付けばその時辛かったこと、悲しかったこと、さらには自分の生い立ちまですべて話していた。
彼はと言えばその最中、ぱちりぱちりと大きく瞬きをしながらじっと聞いている。
話し終わればはっと自分が初めて会った人にすらすらと身の上話をしていることに気が付いた。
「……ご、ごめんなさい。こんなべらべらとはしたないですね」
「いや、構わん。話を聞くと言ったのは僕だ」
その人は口をきつく結んでしばらく黙っていた。何を言うでもなくまっすぐに景色を見ている。ここを去るでもなく、ただ横にいる彼にどうしようもなく気まずくなった。
なにか話そうかと息をのめば、左門さんは勢いよく立ち上がった。
「そよ、僕は思うぞ。失敗することを恐れなくていいと!」
「そう、ですよね」
今になって思い出したが、わたしは些細な失敗をずっと何日も根に持っていたのだ。
「これを見てくれ!」
「……きゃっ!」
彼は袴から自分の着物をたくし上げた。いきなり何をするのだと咄嗟に目を伏せる。恐る恐る顔をあげればやはり着物をたくし上げたままの左門さんがいる。
「そ、それは……」
わたしは男性の肌を見てしまった、という羞恥より彼の肌を見て驚いた。腹部にはっきり赤い痣が出来ているのだ。それはあまりに痛々しかった。
「これは僕の失敗の証だ」
「失敗の証、ですか?」
「そうだ。僕は決断力のある方向音痴でいつも道に迷ってしまう。だから級友や先輩方が僕を
縄で縛るのだ。それでも別の方向に駆けだすとこうして痣になる」
「縛るだなんてひどい、です」
くっきりと縄のかたちになっている痕を見て、素直な感想が口から出て行った。それを聞いた左門さんは静かに首を振って着物を直すと再び座った。
「僕が一向に方向音痴が治らないから、仕方ないんだ。でも、良い事だってたくさんある。例えば……」
駆けだした先々で美しい景色が見られること。迷子になってたくさん走った後の夕飯はとても美味しいこと。諦めずに見つけてくれる友人がいること。
「……それからこうして泣きそうになっているお前にも会えた。もう本日は泣かないな」
くしゃり、と皺を寄せた笑顔が印象的だった。
わたしはひとつ頷くと、また大きな瞳が見える。
「僕は確信している。きっとまたここへ出るだろう。その時はまた忍術学園への道を教えてくれ」
彼はそう言うとわたしの返事を待たずに、忍術学園はこっちだー!と走って行ってしまった。さっきわたしが指差していた方角とは真逆だったが、引き留める間もなく左門さんは走って行ってしまったのだった。
「ふふ、なんだか不思議なひと」
いつのまにかわたしの中の悩みは吹き飛んでいて、自然と笑顔が出た。
突然の出会いは、わたしの心に不思議なあたたかさを与えてくれたのだった。
それから左門さんとは、度々あの一本杉の下で会うことがあった。
いつも藪や道のない場所から出てくる彼には驚かされたが、次第にそれも慣れて行った。木の下で休憩をとる左門さんはたくさんの話を聞かせてくれた。
忍術学園のことや、迷子先でのこと、更に彼は兵法に関心があるらしくそのことについても熱弁していた。左門さんの話はいつも新鮮で楽しかった。
徐々に、わたしは一本杉の木の下へ行くことが増えた。それは落ち込んでいるからではない。もしかしたら左門さんに会えるかも、という淡い期待だった。
立葵が咲いていたという面影もない景色の中、この日もわたしは山を登った。もうすぐ木々は紅や黄に色が付く。秋を迎える直前だった。
「そよ」
「左門さん?」
「やあ」
微かな違和感に首を捻る。いつもはこっちだー! と大きな声でやってくるものだから、静かに手をあげる左門さんは見慣れなかった。
「こんにちは、左門さん」
「こんにちは」
それでも光を多く集める瞳はいつも通りで、杉の木の根元に座るのでわたしも同じく座った。
「この間は楽しかったか?」
「はい、楽しかったです」
“この間”とは忍術学園で開かれた学園祭のことだった。トラブルがあって忍術学園の関係者以外も呼んでしまったと言っていた。わたしも手違いなのかは分からないが招待を受けて行ったのだ。
「僕も楽しかったよ。曲者が来ていたんだが……」
「ええ、曲者ですか!?」
「ああ。僕は決断力のある方向音痴だからずっと店番をさせられていたんだけど、先輩方と後輩が無事になんとかしたみたいだ」
「それは、残念ですね」
以前左門さんから聞いたことがあった。三年生はまだ実戦が乏しいから実技の野外演習などではよく失敗してしまうと。今回は実戦経験を積む良い機会だったのだろう。
しかし、左門さんはいやいやと手を振った。
「先生がいらっしゃる中で実戦経験を積めなかったのは残念だったが、僕が店番を任されたお陰でそよに会えた」
「あ、あの時!」
「亀掬い、楽しかったな」
わたしは左門さんが所属している会計委員会の出し物、亀掬いへ遊びに言った。今思い返してみると確かに生徒たちの姿が少なかったかもそれない。
わたしは大きく頷いた。
「まだ元気にしています。あの時の亀」
「そうか、それはよかった」
左門さんは本当に不思議な人だった。どんなに悲しいことが起こっても、嫌なことがあった日でも、心配した時でも、必ず笑顔にさせてくれた。
絶対に後ろ向きなことは言わない。そこに惹かれていっている自分がいた。
こんなにぽかぽかと暖かな気持ちになるなんて初めての体験だった。
ふと、視線を下に向けた時にわたしはあることに気が付く。
「さ、左門さん!それ……!」
「ああ、これか?」
初めて会った時に彼が見せた痛々しい痣、それを作っているだろう丈夫そうな縄が何重にも腹へ巻きつけてあった。
「痛くないですか?大丈夫ですか?いま解きます!」
「いや、痛くない。解かなくてもいいんだが……うん、まあお願いするよ」
急いで縄に手を掛ける。縛った人は慣れているのか随分ときつく結ばれていた。
これ以上きつくならないように慎重に解いていく。しばらくかかって、やっと解くことが出来た。
「お腹、痛くないですか?」
「大丈夫だ。……それにしてもやっぱり作兵衛は縄をしばくるのがうまいんだな。さすが用具委員会だ」
感心したように言う。作兵衛、という人がいつも左門さんの痣を作っているのか。そんなことを考えていれば、左門さんの少し高い声がわたしの名前を呼んだ。
「そよ、そんな顔をしないでくれ。作兵衛はいつもいなくなる僕のためにこうしてくれてるんだ。誤解しないでくれ」
「で、でも! お腹の痣は痛いですよね?」
「そりゃあ痛くなる時もあるよ。だが……」
左門さんは遠く空を見上げた。大きな瞳が木漏れ日を集めてきらりと光る。この人の見る世界はきらきらと輝いているのだろうな、と思った。
「残念ながらずっと僕の方向音痴はまだ治っていない。迷惑だってかける。そんな僕をみんな見捨てたりなんかせず一緒にいてくれる。それはとても幸せなことだ」
一度大きくまつ毛が揺れて、こちらを向く。その黒目にはしっかりとわたしが映っていた。
「それに今日は作兵衛とここまで来たんだ」
「え、ええ!?」
きょろきょろとあたりを見回す。それでも何の気配もなかった。はは、と陽気に笑った彼はもう作兵衛は忍術学園へ帰ってしまったよ、と言った。
「ひとつ、不思議なことを作兵衛と確かめに来たんだ。僕はそよと出会ったあの時から、この場所にだけはまっすぐ来られる。そして忍術学園へも迷わず帰れるんだ。最初は方向音痴が治ったと思ったのだが、作兵衛が言うにどうやら違うらしい」
「そう、なのですか……?」
左門さんが言いたいことが汲み取れず首を捻った。またひとつ彼のまつ毛が大きく揺れる。
「僕はそよが好きだ」
いきなりの告白だった。
「え、ええ? ……いつ、いつから、ですか?」
「今だ」
「い、いま……」
嬉しいのか悲しいのか驚いているのか、自分でもわからなくて言われた言葉をただ反復した。左門さんは首を慌てて横に何度も振った。
「気が付いたのは、今だ。でも僕は初めて会った時のそよの悲しそうな横顔が忘れられなかった。また泣いていたらと思うと自然とここへ足が向いていた。……その、こんな気持ちは初めてだから……僕もなんて言っていいのか」
いつもははっきりと物を言う彼が珍しくしどろもどろしていた。それでもその瞳はまっすぐで、とても嘘をついているようには見えない。
「嬉しいです。わたし、あの日出会った時から明るくまっすぐな左門さんに惹かれていました」
口から自然に言葉が出て行った。すると左門さんは本当に嬉しそうに顔を綻ばせた。
「よし、決断したぞ!」
立ち上がった彼はうんと背伸びをした。
「僕は勉学に励み、実戦を詰んで立派な忍びになる」
振り返った彼は太陽を背にして陰に見えた。しかし、大きな瞳だけはきらきらと輝いている。
「例え方向音痴が治らずともそよ、お前の元にはまっすぐに帰ると約束するぞ」
「……はい。はい! 待っています」
緩んだ頬で答えれば、左門さんは一度大きく頷いた。
「忍術学園はあっちだー!」
そう言いながら、走り出して行く。その道は初めて出会った時にわたしが指をさした方角だった。
「ふふ、本当に素敵なひと」
黄緑色の制服はどんどん木々に紛れていく。
彼とのあたたかな時間の余韻を感じながら、杉の木にそっともたれかかるのだった。
木の下、光あつめて
逢瀬の誓いをしなくとも
必ずまたこの場所で
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