騒ぐ波間



 初夏、潮の香りがわたしを起こす。
 差し込む光はぼんやりしていて、まだ空は白み始めたばかりのようだ。
 漁村の朝は毎日早い。

「じゃあ行ってくるからね。今日の昼食は頼んだわよ」

「はあい。いってらっしゃい」

 市に向かう母を寝ぼけ眼で見送る。父は夜明け前には漁へ出ていた。
 ここは海の近くの小さな村。ここに住む男の大半は海に関する職に就いている。
 わたしの日常の傍には常に海があった。
 母を見送って、わたしは朝支度を始める。
 布団を上げて、着物を着換えて、髪を結って……あっという間にひと刻が過ぎた。
 それでも時間がかかるのはこれからである。
 わたしの左手には小さな貝殻、右小指に紅を乗せる。唇の左から右、右から左へ流してそれから一回口をあわせるのだ。
 唇の紅は化粧の仕上げ、要なのだ。

「よおし」

 今日も完璧、そうにっこりと笑って見せる。
 小指についた紅を手拭で拭い取って、今度は家事仕事だと立ち上がった時だった。

「随分派手じゃねえか」

 いきなり聞こえた声に体を震わす。
 後ろをむけば男の子が戸にもたれかかっていた。

「三郎次くん! 帰ってきたの?」

「ついさっきな」

 池田三郎次くんは近所に住む幼馴染だ。
 今は忍術学園で寮生活をしているためになかなか会うことはないが、帰ってくればこうして顔を見せに来てくれる。
 言葉を話す前から一緒に過ごした家族のような関係だ。
 そんな彼は遠慮なく家へ上り込んで、わたしの顔をしげしげと覗き込んだ。そして意地悪そうに口端を上げる。いきなり顎を引っ掴む。

「な、なにするの!」

「いやあ、ちょっと紅が濃すぎじゃないか?それに同じ年の女がこんな顔を厚塗りするなよ」

 肌を痛めるぞ、なんて言う三郎次くんから目を逸らす。

「う、いいじゃない……別に」

 ついそっけなく返してしまった。
 わたしも今年で十一になる。化粧のひとつやふたつしてみたくもなるものだ。それをからかうように言われるのは恥ずかしかった。

「まあ、確かにどうでもいいんだけど」

 冷たい声が返って来て彼は掴んでいた顎をぱっと離す。じわりと熱くなったそれを手で押さえた。

「学園はどう?」

「まあまあ」

 三郎次くんは自分の事をほとんど話さない。忍術学園に入学するのも彼がこの村を出てから知ったくらいだ。前日まで一緒に海で遊んでいたのに随分驚いた記憶がある。
 なので幼馴染と言っても三郎次くんが何を考えているかはさっぱり見当がつかない。
 出てくる言葉は冷たいし意地悪だ。

「それよりさあ、そよ」

「なあに?」

「今から海に行こうぜ」

 ぱちくり、と一度瞬きをする。
 こうしてどこかへ誘われたのは初めてのような気がする。
 すぐに頷きたかったが昼食の用意をするようにと言われていたことを思い出した。

「ごめんね、母さんにお昼の準備をするように言われていて」

「ふうん、じゃあ終わったら来いよ」

 三郎次くんはそれだけ言うとわたしの返事を待たずに行ってしまった。
 彼は忍術学園から帰ってくると海へ行って泳いでいることが多かった。そのおかげで水遁の術の成績がいいのだと得意げに言っていたことがある。
 器用な三郎次くんのことだから他の科目の成績もいいのだろうけど、あまり話してくれないものだからそれは分からなかった。
 早く昼食の準備を終わらせて三郎次くんに会いに行こうとわたしは立ち上がる。
 しかし潮風でお化粧が取れてしまわないかしらと、もう一度熱心に鏡を覗き込むのだった。
 日はすぐに天辺へ戻る。
 父と母が仕事から帰って来て、わたしの作ったご飯を食べる。今日は魚の干物と海藻の汁物にした。
 両親が食べ終わるのを見計らって椀を片づけはじめる。

「なんだ、今日は随分焦らせるじゃあないか」

「ごめんね、父さん。ちょっと用事があって」

「ふうん、珍しいこともあるもんだ」

「じゃあ、わたし行くから」

 父との会話もそこそこに海へ走る。後ろからはいってらっっしゃいと呑気な声が届いた。
 一本道を行けばうみねこの鳴き声とざざと波の音が聞こえてきた。
 砂浜へ一歩踏み入れると潮の香が鼻を掠めた。
 視界いっぱいに広がる青の間から緑の髪がゆらゆらと動いている。それが一目で三郎次くんだとわかった。
 綺麗な泳ぎ方でまるで波を感じさせないように進んでいる。
 そういえば学園に入る前に少しでも遠泳できる距離を伸ばしたいと言っていたな、と昔の記憶を思い出した。

「おおい、そよ。入ってこいよ」

 わたしに気が付いた三郎次くんは波間から手を振っていた。

「わたしはここで見ているよ」

 腰を下ろしてから大きな声でそう返す。
 すると波をかき分けてこちらに泳いでくる。砂浜に立つと小走りでこちらへ駆けてきた。
 わたしの目の前まできた三郎次くんは着物から頭まで全身濡らしていた。前髪を邪魔そうに掻き上げる。そこから覗く表情は随分と不機嫌そうだった。

「なんで入ってこないわけ?」

「だ、だってお化粧が落ちちゃうから」

「……なんで海に来るのにそんな濃い化粧してきたんだよ」

「う……それは」

 化粧をするようになった理由、それを思い出して心が痛くなる。
 まごまごと言えないでいると三郎次くんが怒気を含んだ声で聞こえた。

「どうせあの人が綺麗にしてる嫁さんを連れて来たからだろう?」

 その言葉にどきりと胸が跳ねる。三郎次くんを見上げると怒って聞こえた声とは裏腹に、その表情は笑っていた。
 心臓が悲鳴を上げる。

 小さく苦い初恋を思い出したのだ。

 物心ついた時に好きになったのは随分年が上の近所に住むお兄さんだった。ずっとずっと大好きで追いかけていた。
 相手にされていないことくらいわかっていたが、背中を追いかけているだけで満足だった。
 そんな彼は昨年お嫁さんを迎えた。お前には勿体ないなあ、なんて囃された彼の隣にいたのは本当に驚くほど綺麗なお嬢さんだった。
 今もそのふたりは近所に家を構えて仲良くやっている。
 ややが生まれても綺麗なお嫁さま。家族のために一生懸命漁に出るお兄さん。どこのだれが見ても幸せな家庭だった。

 そんな様子を見て、わたしも少しでも綺麗なひとになれるように、と化粧を始めた。
 初めて化粧をしたとき、まるで違う自分になれたようで嬉しかったのだ。わたしはすぐにのめり込んだ。いつしか化粧をとって外へ出ることができなくなっていた。

「そんなことしたってあの人には家庭があるんだぜ?」

「ち、ちが……ちがうよ」

 動揺で嘘を吐いてしまうわたしに三郎次くんからはあっそう、と素っ気ない返事が返ってくる。
 それから砂浜に座っていたわたしの腕をぐいっと掴むのだった。

「顔は濡らさないでいいから来いよ」

 強く引かれる手に逆らえず立ち上がる。そのままぐいぐいと海に入っていった。
 お化粧をし始めた時からすっかり海にも来なくなってしまった。化粧が落ちるのもそうだが万が一にもあの人に会うのが怖かったのだ。

「今ならお前よりうまく泳げるのに」

「……え?」

「おぼえてないのかよ」

 いつの間にかわたしたちは腰まで海に浸かっていた。
 そういえばお化粧を始める前はよく泳いでいたことを思い出す。遠泳が好きでよく遠くまで泳いだものだ。
 三郎次くんは依然、わたしの腕を掴んだままでまっすぐ海を見ている。そこから進もうとも戻ろうともしなかった。

「三郎次くん……?」

「そよ」

 振り返った彼は少しだけ悲しそうな顔をしていた。
 一歩こちらに近寄るときれいな瞳に私が映っている。水面が反射して瞳がきらりと光った。

「隙ありっ」

「ひゃっ……!」

 叫んだ後にはもう水の中にいた。腕を掴まれたまま足を駆けられたのだ。わたしは頭の天辺まで海水に浸かる。
 ばたばたともがいて地面に足をつけた。慌てて水面から顔を上げれば三郎次くんがこちらを無感動な表情で見つめていた。

「な、なにするの……!」

 顔は濡らさなくていいからなんて大嘘つき! そう睨みあげると三郎次くんは自分の着物の裾を袴から引っ張り出した。そのままばさりと脱いでしまうと華奢な上半身が目に入る。

「な、な……なにを!」

 顔が濡れてしまった恥ずかしさと、着物を脱いだ三郎次くん……何が何だかわからず頭が混乱した。
 無意識に後退すれば腕を掴まれてわたしは動けなくなってしまった。

「顔貸せ」

「ひゃっ」

 掴んだ手が離れると間髪入れずに頭を抑えられた。それからごしごしと着物で顔を拭われる。
 抵抗したが華奢な体からは想像ができないくらい力が強かった。
 何度も擦られて、離される。着物には紅やら粉やらがついていた。

「三郎次くん! ひどいよ!」

 つい叫んでしまった。
 わたしがお化粧を取りたくないことを彼は知っている筈だ。三郎次くんが入学したころからずっと素顔は見せなかったのだから。
 それなのにこんなだまし討ちのようにするのは酷いと思った。

「酷いだって? 約束を破った奴が言えることかよ?」

 緑色の髪が揺れる。そして体があたたかいものに包まれたのだった。
 わたしを三郎次くんが抱きしめている。そう気が付くのに時間はかからなかった。

「本当に忘れちまったのかよ」

「な、にを……?」

 聞けばぎゅうと力を込められた。振りほどくことがで出来ずにただただ海の中で立ち尽くす。

「お前より泳ぎが上達したら……」

 耳元で低く掠れた三郎次くんの声が聞こえる。

「ちょっとは振り向いてくれるんだろ?」

 はっとして息を飲む。あれは確か三郎次くんが忍術学園に入学する前日の話だった。

――そよはおれのおよめさんになるだろ?

――ええ、だめだよー。……じゃあ、さぶろうじくんがわたしよりもとおくに泳げるようになったらおよめさんになってあげようかな

――ほんとうか?ぜったいだからな

 その次の日から三郎次くんは黙ってこの村を出て行ってしまった。
 それを知った時妙な喪失感が募ったことを思い出す。

「……ご、ごめんなさい。からかわれてたのかとおもって……」

「わかってるよ。本気に取らないこともわかってて言ったんだ。……ずっとあいつばかり見てたしな」

 締められていた腕の力がゆるくなって、熱が離れていく。

「でも約束は約束だから。俺のことを見る努力はしてもらうからな」

 にかっと覗かせた歯は雲のように白かった。
 離された体は海水に浸かって冷たい筈なのにどんどん熱が上がっていく。

「それと、化粧。……無理やり取って悪かったな」

 三郎次くんは目線を逸らしてぼそりと言った。素直な言葉が彼から出ていることに驚きつい固まってしまう。

「ううん……わたしもひどいなんて叫んでしまってごめんなさい」

 言ってしまった言葉を思い出して頭を下げれば、三郎次くんの華奢な指がわたしの濡れた髪を整えてくれた。

「でもやっぱり、俺は化粧して澄ましているより海の中で笑ってる方が好きだ」

「あ……あ、ありがとう」

 海の青の中にいるわたしたちの顔は夕日に照らされているわけでもないのに真っ赤だった。
 三郎次くんはわたしの手を引きながら戻って行く。いつもとは違い優しい手に違和感と安心感を同時におぼえながら黙って後ろを着いて行った。
 砂浜へ上がると三郎次くんが着ていた水色の着物を頭へかけられる。

「素面を見られるのがいやなんだろ。それで隠して帰れ」

「でも……三郎次くんの着物が……」

「どうせ濡れてるし着ても着なくても同じだ。明日返してくれればいい」

 でも、と着物を取ろうとするわたしを三郎次くんは止めた。

「おばさんの夕飯の支度、手伝うんだろ。体冷やすし早く行けよ」

 そう言うと三郎次くんは俺は泳ぎの練習があるから、と海へ行ってしまった。
 わたしの心臓は痛いくらい高鳴って、無意識に掛けられた着物をきゅうと握った。

「また、明日……」

 独り言を落としてわたしは踵を返す。だんだんと気持ちが逸って走って家へ帰った。
 その日は頭が茹ったようにぼうっとして、いつの間にか床についていた。
 目を閉じれば、海の中できらきらと笑う三郎次くんの顔を思い出して心の蔵が熱くなって痛くなる。
 そのまま溶けるように夢の中に落ちて行った。

「あら今日は随分仕度が早いんじゃない?」

 爽やかな朝、市に行く前の母がこちらを覗き込む。

「今日ちょっと出かけてもいいかな?」

「まあ、今日のお昼は母さんがやるからいいけれど……気を付けて行くのよ?」

 わたしは小さく返事をした。水色の着物を畳んで風呂敷に包む。よしできた、と立ち上がったときだった。

「やっぱりあんたはまだそうやって化粧をしない方が愛嬌あっていいわねえ」

「そうかなあ?」

「ええ、ほんとにそう思うわ」

 朗らかに笑う母がわたしを見送ってくれる。
 素面で出歩くのは実に二年振りだった。化粧を取って外に出ても全然不安じゃない。それどころか浮いたような心地で足取りは軽かった。

 早く、早く行かなくっちゃ。

 ここは漁村。どこからでも海が望める小さな村。うみねこの鳴き声、波のさざめく音。
 その間には緑の髪が揺らいでいる。

「さぶろうじくんっ」

 大きな声をあげれば波間からは綺麗な笑顔を見付ける。
 いつか、本当に近い未来。この笑顔に夢中になる。
 素っ気なくて、冷たくて、広くて、きれいで、優しい。
 海みたいな彼に翻弄されることを夢見てわたしは大きく手を振るのだった。



騒ぐ波間


化粧も心も
全てとってしまいたい


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