小さないぶき
ある昼前……井戸の水を汲み上げた時だった。
頭がふわりと揺れて足がよろめいた。立っていられなくなって、私はその場にしゃがみこんだ。
「そよ!どうしたんだい?」
そうしていると、母さんが駆けてきて心配そうに顔を覗き込む。
「少し眩暈がしただけよ。大丈夫、お昼の仕度はちゃんとするから」
「嫁入り前の体なんだから、大事にしなさいね」
「いやね、まだお相手さんもいないわよ」
私は手をひらひらと振る。
「やっぱり母さんが昼をやるわ」
私は母さんの言葉に首を横に振った。
早く戻らないと父さんが困るわ、と続ける。
さすが生みの親なだけはある。私の頑固さをよく知っていた。譲らないとわかったのか渋々だが戻って行ったのだった。
こんな時に困るな、と私は自分が情けなくなった。
ここ一年、定期的にこの症状がやってきていた。頭が揺れて、倒れそうになるのだ。大抵少し座っていれば治るのだが回数を重ねる度に症状は重くなってきている。
忙しい時期に休むことなんてできない。ただでさえ人手が足りないのだ。わたしはひとつ大きくため息を吐く。
「そよちゃん、どうしたの?」
名前を呼ばれてふと顔を上げる。
目の前には灰のような薄い色の髪を束ねた男の子が立っていた。
「四郎兵衛ちゃん」
私はその子の名前を呼ぶ。
私の知っている中でとりわけ不思議な男の子だった。
どのくらい不思議な子かと言うと、まずどこに住んでいるかもわからない。それなのに半年ほど前から落ち込んでいる時や具合の悪い時にひょっこりやってくる。ふたつ歳が下の、その割にもう少し幼く見える子だった。
「具合、悪くなっちゃったの?」
「少し、ほんの少しよ。こうして座っていれば大丈夫なの」
わたしはにっこりと笑って見せた。
四郎兵衛ちゃんは私と目の合うように座って、手をぎゅっと握る。私は振り払うことなくそれを受け入れた。
「あのね、ぼく忍術が使えるの」
「ふふ、おもしろいね」
何度か聞かされた四郎兵衛ちゃんの言葉に微笑ましくなる。
笑っている私を見て本当なんだけどなあ、と彼は呟いた。
「だからね、そよちゃんの具合が悪いの取ってあげられるよ」
そういうとぎゅっぎゅと手を握り込んだ。邪気のない笑顔につられてにこやかになってしまう。本当に不思議な子だと思った。
しばらく私の手を強弱をつけて握っている。小さな手の割にその力は強かった。
初めてこうされたときにとても驚いたことを思い出した。
「はい、これでだいじょうぶだよ!」
「ありがとう」
「また、元気がなくなったときにくるからねえ」
そういうと四郎兵衛ちゃんは立ち上がって手を振った。そして向こうへ走って言ってしまったのだ。
本当は私にしか彼のことを見えてないんじゃないかな、なんて考えてしまう。座敷童とかそういう類のものなのではないか、と。そのくらい四郎兵衛ちゃんは不思議な子だった。
「あ、あれ?本当に平気になってる?」
わたしは立ち上がる。頭がしゃっきりと冴えていた。握られていた手がじんわり温かい。
また会えるかな、見えるかな、なんて考えながら私は土間へ入って行く。
その日は驚くくらい体調がよくて、もしかしたら四郎兵衛ちゃんは神様の子なのではないかと思うのだった。
ひと月後。わたしは遣いで隣村の杭瀬というところの農家へ行き、帰る途中だった。
見渡す限りに広がる畑の中で、私は焦っていた。
頭がふわりふわりと揺れているのだ。次第に足の感覚がなくなっていく。
これではまずい、でも道の真ん中で座れない……なんとか両足を前へ前へと動かしていた。
澄んだ景色が段々おぼろげになっていく。ちかちかと光が揺れる。
もう、だめかもしれない、と視界が暗転した時だった。
「そよちゃん!……そよちゃん!」
――声が聞こえた気がした。
あの日からめっきり会えなくなった、不思議なあの子の声だった。
ぐにゃり、視界がぼやける。
ぼやけているが温かみのある木板が目に入った。体には布の感触。布団の中にいるとわかったのはしばらく経ってからだった。
「よかったあ、目が覚めたんだね」
ふと右を見れば四郎兵衛ちゃんがいた。いつもの服とは違って、藍色の見慣れない格好をしている。
何故あなたがいるの? とか、ここは何処なの? とか聞く前に、四郎兵衛ちゃんは小走りで部屋から出て行ってしまう。
しばらく経って部屋に入ってきたのは四郎兵衛ちゃんじゃなかった。
それは緑色の着物を着た男の人で、四郎兵衛ちゃんより随分体格が良い。年上の人なのだろうなと思った。
干し草のような髪色の、とても柔らかい雰囲気の人だった。
「あ、あの……」
「僕は保健委員会の善法寺伊作です。名前を言えますか?」
ほけんいいんかい? ……医者の類なのだろうか。とりあえず私は伊作さんと名乗った方に自分の名前を告げた。
「よかった。言えるみたいだね。そよさん、君は杭瀬村で倒れていたんだって。覚えているかい?」
「はい、お遣いの途中で頭が揺れて、それで……」
「貧血だね。瞼が真っ白だったよ」
ひんけつ? ……さっきから分からない単語ばかり出てきて頭を捻る。
ああ、血液中の濃度がね、と伊作さんは解説していたが私の頭にはちっとも入ってこなかった。まだ少し頭がぼんやりするのだ。
「四郎兵衛がそよさんをここまで運んできたんだ。驚いたよ、あんな焦った顔初めて見たものだから」
「ええ! 四郎兵衛ちゃんが?」
そうだよ、と伊作さんは笑う。あの小さな体でここまで運んできたなんて信じられなかった。というより、やはり四郎兵衛ちゃんは座敷童の類ではなかったことも驚いた要因だった。
「……あの、ここはどこなんでしょう?」
「ここは忍術学園の医務室だよ」
伊作さんはそういうと、ちらと後ろの木戸を見た。
「あとは四郎兵衛に聞いた方がいいんじゃないかな? ……四郎兵衛、入っておいで」
すると控えめに障子が開く。正座をした四郎兵衛ちゃんはいつもより小さく見えた。
「もう大丈夫そうだから、後は頼んだよ」
「は、はい!」
伊作さんはそれじゃあ、お大事に、と言って出ていく。私は頭を下げて見送った。
退室した彼を見届けたのか、廊下の先を見ていた四郎兵衛ちゃんがおずおずと部屋に入ってきた。そして私の前に座る。
「四郎兵衛ちゃん、忍術が使えるって本当だったんだね。ごめんね」
私は今まで話を聞き流してしまったことを謝った。
「ううん。ぼく、ぼけっとしてるから。実技はあまり得意じゃないし、まだ二年生だしねえ」
「でも私を運んでくれたのでしょう?私、軽くないから……ここまで連れてきてくれてありがとう」
お礼を言うと四郎兵衛ちゃんが照れたように笑う。
そして、いつものように私の手を握った。
それなのに何時ものようにぎゅっと握ることはなかった。ためらっているように優しく擦って、それからやっと口を開く。
「あのね、そよちゃん。ぼく、ここに入学するのほんとはとてもいやだったの」
――あれ……?
私の頭は浮いたようになる。なにかがつっかえているような変な気分だった。
「ぼくがここを卒業する歳は十五で、そよちゃんは十七になっちゃう。そのときはお嫁にいっちゃうかもしれない」
――しろちゃん、学校なんかいかないでよ
――ぼくもいきたくないよ。でも、きまっちゃったの。……そよちゃんが泣くのはいやだから……
何か古い記憶が頭の中を駆けた。でもそれには確証がない。
――泣かないように、悲しまないように術をかけてあげるね
布団になだれ込みそうになったのを四郎兵衛ちゃんがぐいっと引きよせた。小さな手に、似つかわしくない強い力。わたしはそれに支えられる。
そうだ、彼は時友四郎兵衛……私の小さな初恋の人だ。
家が近かった四郎兵衛ちゃんとは物心がついたときから遊んでいた。恋と言う言葉を知る前に、わたしは彼が大好きだった。
ある秋も深まった日だった。
泣いた後のような四郎兵衛ちゃんに、卯月に学校に入るからともう会えないと言われたのだった。まだ時間があるじゃないと駄々をこねたけれど、準備があるし別れがたくなるからと手を振られた。
ちょうど二年前の話である。
あの時は泣いて泣いて、ご飯を食べれないほどに泣いて。それなのに、十日ほどしたらぱたりと頭の中から四郎兵衛ちゃんの存在が消えてしまったのだ。
「ほんとうはね、ぼくが卒業するまで会いにいかないって思っていたんだけど、待てなかったんだなあ」
「私、すっかり忘れていたのに……それでも会いに来てくれていたの?」
「だってそれは、ぼくがそよちゃんにぼくのことを忘れる術をかけたから」
さらりと四郎兵衛ちゃんが言う。本当なら信じるはずないのに、不思議と納得させられてしまった。
「そうだ。……これ、さっき伊作先輩からわたされた薬だよ。よくきくから、飲もう?」
四郎兵衛ちゃんが水差しをこちらに向けて飲ませてくれる。
思い出した。小さい時からあまり体が丈夫じゃなくて、外で遊べず泣いていたらいつも四郎兵衛ちゃんが家へ来てくれた。
いつも手を握って、こうすると血の巡りがよくなるんだよと笑いかけてくれた。この安心だけは忘れることが出来なかったのだ。
「そよちゃん。お薬のんで、元気になってね」
わたしは少し苦い薬を口に含んで頷いた。
「それでね、丈夫になってもならなくても、ぼくのお嫁さんになってね」
思いがけない言葉に吹き出しそうになる。
すると四郎兵衛ちゃんは苦くても飲まなくちゃだめだってば、と水を飲ませてくる。
そうじゃなくて、と言い返したかったが口の中がいっぱいで何も言うことが出来ない。やっとの思いで飲み込めば四郎兵衛ちゃんが嬉しそうに笑っていた。
「そ、そんな口説き文句、どこで覚えたのですか?」
思わず、丁寧な言葉で聞いてしまう。
「えっと、七松せんぱいと次屋せんぱいが、好きな女には真っ向勝負、絶対に逃げられないようにしろって。滝夜叉丸せんぱいには浪漫がないと止められたんだけど……いやだったかなあ?」
知恵を吹き込んだ先輩とやらに一言言いたくもなったけれど、きょとんとした顔で聞かれたら、否定する訳にもいかなくなった。
むしろ、ときめいてしまったのだ。先輩方の入れ知恵は正解だったとも言える。
「私、もう四郎兵衛ちゃんのこと忘れない。約束する。今までごめんなさい、ありがとう」
――大好きです
そう言えば、四郎兵衛ちゃんは小指を差し出してやくそくね、と小さく絡めるのだった。
体がすっかり温まって、すっきりとしたように感じた。四郎兵衛ちゃんは村まで送っていくよ、と言ってくれる。私は道も分からなかったので甘えることにした。
「たのしみなんだなあ」
道中、鼻歌を口ずさんでいた四郎兵衛ちゃんは夕日に目を輝かせながら言う。
「なにが楽しみなの?」
「いつか、そよちゃんが四郎兵衛さん、おかえりなさいって迎えてくれるの」
ええ、と私は声をあげてしまった。さん付けなんてなんだかかしこまった夫婦のようで恥ずかしい。
四郎兵衛ちゃんはそれを聞いて、怒ることもなくむしろ余計に目を輝かせるのだった。
「四年生くらいになればぐんと背が伸び始めるってせんぱいが言っていたんだあ。だから、あっ!という間にそよちゃんより高くなって、かっこいいって思ってもらえるよ」
そういうとまだ小さな手が私のを握る。
今のままでも十分私にとってはかっこいいのに、なんて言葉は口から出なくて。もしもの未来を想像しながら歩く。想像した背の高い四郎兵衛ちゃんは、顔だけ今のままだったものだからなんだか不恰好ですぐに頭から消した。
そんな時、私はあることを思い出して立ち止まった。
「そうだわ。私、ちゃんと伊作さんにお礼を言ってない!四郎兵衛ちゃんどうしよう!お薬も貰っちゃったのに」
取り乱す私に、大丈夫だよお、と呑気な返事が届いた。
「また忍術学園にお薬をもらいにきたときに言ったらいいんだよ。そのときにぼくのお嫁さんになるひとです、って紹介したいなあ」
伊作せんぱいはお優しいからそんなことで怒ったりしないよ、と付け足される。
四郎兵衛ちゃんは無自覚なのかもしれないけれど、着々と私の胸の中に熱を点らせていった。
ああ、この子が成長してしまったらどうなってしまうのだろう。もしかしたらたくさんの女性を惹きつけてしまうかもしれない。わたしには新しい心配事が出来てしまったのだ。
心臓がもたないからしばらくはこのままでいてほしい、なんてわがままを思いながら、いつか大輪の花を咲かせるつぼみのような四郎兵衛ちゃんの隣を歩く。
そうすると隣からはまた、稚い鼻歌が聞こえてくるのだった。
小さないぶき
せんぱい、お嫁さんになるひとができました
なんて驚かせるのはもう少し先のおはなし
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