いつの日か
換気にと開け放たれた戸からぼんやりと景色を眺める。
田畑の向こうには山があり、その手前には鳶が飛んでいる。
私はそれを布団の中から横目で見ていた。景色は一向に移り変わらない。
「そよちゃん。ただいま!」
視界に入ったのはよく見知った顔だった。ひょっこりと戸から顔を出しているその子は遠慮がちに入ってきた。
私は掛布団を避けて起き上がるとそちらへ手を振った。
「乱太郎ちゃん。学校はいいの?」
「今日から夏休みだよ」
私の元を訪れたのは近所に住んでいる猪名寺さんの家のひとり息子、乱太郎ちゃんだった。
彼の父、平之介さんは私の父の忍者仲間で、畑仕事なんかも協力してやっている。家族ぐるみでの付き合いだ。
年が五つ違う乱太郎ちゃんは弟のような存在だった。
「そよちゃん、具合はどう?」
乱太郎ちゃんはぐいと覗きこんで私の顔色を窺った。
「熱はもうないんだけど大事をとって休んでるの。あとは体力をつけるだけよ」
「そっか、よかったあ」
乱太郎ちゃんが忍術学園に入学する前の事だった。
私は原因不明の熱に冒された。
三日三晩高熱が下がらず、意識が戻らなかったのだ。
目が覚めてもじわじわと熱が引かない日々が続いた。
完全に熱が下がり、動けるようになった頃にはこうしてひとつの季節が終わっていたのだ。
「そよちゃんが心配で走ってきたの。そうだ!前よりうんと足が速くなったんだよ。先生も驚くくらい」
「そうなの?もっと忍術学園の事を聞かせてくれる?」
「もちろん!」
乱太郎ちゃんは草履を脱いで私の寝ている布団の傍へ寄った。それから興奮気味に忍術学園に入学してからの事を話し始めた。
新しいお友達の事、愉快な先生の事、転入生が来たこと、勉強は難しいと言うこと。たくさん聞いているうちにおかしくて私は涙が出るくらいに笑った。
こんなに笑ったのは本当に久しぶりだ。
「……ふふふ、乱太郎ちゃんはとても楽しい日々を過ごしてるのね。安心した」
「うん! まだまだ話してないことたくさんあるんだ」
めがねの奥から満面の笑みが見えた。胸がきゅうと痛くなる。
楽しい話を聞いていた筈なのに、ただただ急に悲しくなってしまったのだ。
思わず顔を歪めると乱太郎ちゃんは慌てたようにこちらを見る。
「そよちゃん……?」
「らんたろうちゃん……」
だいじょうぶよ、と声を落としてそれから掛け布団を握りしめる。
「どうしたの?」
心配そうにしている彼に声を絞り出すようにして、私はぽそりと言葉を落とした。
「……乱太郎ちゃん。私……熱で死んじゃったほうがよかったのかしらね……?」
十の子に私はなにを言っているのだろうか。震える唇を噛みしめる。
私が熱で失ったのは健康な体だけではなかった。それを急に実感したのだ。
「あのね……私、もう色がわからないの。乱太郎ちゃんの肌も、髪も、家の床も、壁も、ぜんぶ白と黒なのよ」
熱が下がって意識が戻ったときに、自分の目には色が映らなくなっていた。少し経てば治るだろう、そう思っていたが一向に世界は白黒のままだった。
医者に診せればもう元に戻ることはないだろうと首を横に振られた。
勘当もやむおえまいと家に戻れば両親はそのことについてなにも触れず、責めもしなかった。逆に痛いくらいに私を心配しているのが分かる。
それでも農作業などの働き手でもあった私が今となっては何も役に立てない。我が家は半忍半農、決して裕福な家ではなかった。
愛する両親に病人を抱えさせてしまった申し訳なさで死んでしまいたかった。
「そよちゃん」
乱太郎ちゃんは布団を握りしめていた私の手に小さな手を重ねた。優しい声色に泣いてしまいたかったが堪える。
「わたしね、そよちゃんの目が色を映さないこと……知ってたよ」
父ちゃんと母ちゃんから手紙が来てね、と乱太郎ちゃんは続けた。
熱が下がらなかったとき、彼の両親は我が子の大事のように見舞ってくれていた。
後から聞いたのだが、両親と一緒に忍者やくのいち時代の知人を介してどうにか治療の方法を探してくれていたらしい。
「……だからね。わたし保健委員になったんだ」
「ほけんいいん……?」
聞けば乱太郎ちゃんは大きく頷く。
「保健委員会は医療のことを学べる機会が他の生徒より多いんだよ。……まあ不運委員会なんて呼ばれたりするんだけど……委員長の善法寺伊作先輩は病気や怪我の事にお詳しくてね。顧問の新野先生もいろんなことを教えてくれるの」
にこにこと笑顔を見せる乱太郎ちゃんは一度きゅうと手を握った。
「そよちゃん、今日は一緒に外へ行こうよ」
「でも……私……」
「右足もあまり思うように動かないんでしょう? でもね、大丈夫。わたしがついているから」
熱による後遺症は右足にも残っていた。それも聞いていたのだろう。
乱太郎ちゃんは有無を言わせない、と言ったように私の肩を支え始めた。
「たまには外の空気を吸った方がいいって先輩も仰っていたんだ」
「……そう、なの……」
熱が下がってからほとんど外へ入っていなかった。景色から色が消えているのを実感するのがとても怖かったからだ。
乱太郎ちゃんは私を座らせて草履を履かせてくれる。久しぶりの感触になんだか懐かしくなった。
五つも年が下の子にこうして介助してもらうのはなんだか恥ずかしい。それを言いたかったけれど彼があまりに一生懸命にしてくれるものだから言葉にすることが出来なかった。
乱太郎ちゃんに支えられて外に出ると、畑から両親が驚いたようにこちらを見ていた。
私が外に出たことに驚いたのだろう。泣きそうな表情で二人が駆けてくる。
「そよ、外へ行って大丈夫なのかい?」
「足は、足は大丈夫か?」
顔を青くする両親に乱太郎ちゃんが一歩前へ出た。
「おじさん、おばさん。少し一緒に外の空気を吸ってきます。茜空になる前にはちゃんと帰りますから」
あちらの方へ、と林の方へ指をさす。
すると母は体を冷やさないようにと外掛けを家から持ってきてくれる。
いってらっしゃい、と泣き出しそうな顔のまま見送ってくれた。
「行ってまいります」
「いってきまーす!」
外へ出てみれば、色がないことをひしひしと感じた。
いつも通っていた農道や、乱太郎ちゃんの家、すれ違う人々、どれもこれも白と黒でできていた。
空は白く、山は黒い。
その濃淡だけでできた世界はとても空しく見えた。
乱太郎ちゃんの小さな手に引かれてゆっくり農道を抜ける。原っぱについたところでここに座ろうよ、と腰を掛けた。
「足は痛くない?」
「うん、大丈夫」
私も座って足を伸ばした。久しぶりに歩いたからか足先がぴりぴりと痺れた感覚がある。僅かな距離の筈なのに息が切れそうになっていた。
乱太郎ちゃんは背筋を伸ばすと前かがみになってこちらを見つめる。きらりとめがねが反射して、眩しく感じた。
「そよちゃんに思い出してほしかったんだ」
「……なにを?」
「わたしがいつも着ている着物の色、覚えてる?」
尋ねる乱太郎ちゃんにすぐ頷いた。
「わたしの髪の色は?袴の色は?」
「全部、覚えているけれど……」
意図の見えない問いかけの後に彼は立ち上がった。そして、原っぱの向こうを指差す。
「あれは樫の木だよ。葉は私の着物と同じ色で、木はだいたい草履と同じ色かな。今日の空は少し白んでいて私の袴の色と同じ色だよ。そしてそよちゃんの来ている着物は私の髪をもう少し明るくしたみたいな綺麗な色」
私はきょろきょろと周りを見渡す。景色が頭の中で記憶の色に少し彩られた。
よく覚えている。
乱太郎ちゃんの着物の色。深いびろうどの色。そして髪はくすんだ赤茶色。袴の色は青藤のような色。
全部、全部覚えている。
「私はね。めがねを外したらそよちゃんのことぼんやりとしか見えなくなっちゃう。でもね、絶対に色は分かるから。どんな時もそよちゃんに教えてあげるね」
「……っ。らんたろうちゃ……」
情けなく泣きだす私の元に来て、膝をついた。小さな体で私を抱き留めて消え入りそうな声で言うのだった。
「だからね、死んじゃったほうがよかったなんて言わないで」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」
私は色を失ってから初めて泣いた。
眼球がぽろりと取れてしまうんじゃないかと思うくらい涙が止まらなかった。顔を上げればめがねの奥で、乱太郎ちゃんも涙を浮かべている。
それなのに目が合えば力強く笑ってみせるものだから、どうしようもなく胸が苦しくなった。
もう色を見ることはできない。しかし、記憶の中にあるたくさんの色が私に教えてくれる。
山奥の八重桜。
村の外れに咲く立葵の色。
夕立後の夕焼けの色。
落ち行く銀杏の葉の色。
雪に耐え忍ぶ寒梅の色。
どれもこれも乱太郎ちゃんと一緒に見た景色だ。
「乱太郎ちゃん、“どんな時も”なんて簡単に女の子に言っちゃだめよ」
「どうして?」
「だって私はもう十五よ。乱太郎ちゃんが大きくなったら私おばちゃんになっちゃう。嫁へ行く宛てもない病人に期待させちゃだめよ」
五つも年が下の子に期待をするなんて変な話だ。
まだ小さかった乱太郎ちゃんの世話をしたのを昨日のように思い出す。
弟のようだと思っていた。守ってあげたいと思っていた。それなのに、わたしは何を言っているのだろう。胸に宿る小さな熱の正体を探せないでいる。
「うーん、でもそよちゃんが健康だとしてもわたしじゃないとだめだから」
「あら、私をからかってるの?」
「そんなことないよ!」
言葉では姉さん風を吹かせても、ぐずぐずと鼻をならせば台無しだ。
「ずーっと前から忍術学園を卒業するまでに、わたしじゃないとだめだって言わせる予定だったの!」
乱太郎ちゃんは少しいじけたように言った。
少しの気休めであってもなんて幸せなことなのだろう。
私はぎゅうと彼の小さな体を抱きしめる。
「な……っ!そよちゃん!?」
「それじゃあ、ずうっと待たせていただきますね。乱太郎さん」
胸元へ頬を押し付ければ乱太郎ちゃんの早い鼓動が聞こえる。
ああ、生きているのだ。私も乱太郎ちゃんも……そう思えば小さな手が頭に降ってくる。
この子の言葉が一時の戯れでありませんように、そう願いながら再び腕に力を込める。
「そよちゃん、顔が紅葉みたいだよ」
顔を見上げると乱太郎ちゃんはふにゃりと笑っている。
「あ……」
「なあに?」
「乱太郎ちゃんも、紅葉色をしているの?」
なんとなく、彼も同じ顔色をしているのではないかと思ったのだ。
「そ、そうだよ」
ふふふ、と互いに顔を見合わせて笑む。
夏初めの原っぱで、季節外れに紅葉色の顔をした私たちがいる。遠き未来を想像してはお腹が痛くなるくらいに笑い合うのだった。
いつの日か
あなたの目となり、伴侶となる
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