小指で宣するはかりごと
両手両足を振って、家路を急ぐ。
今、僕はどんな顔をしているだろうか。
忍術学園一年は組の学級委員長の顔ではないだろう。
きっと黒木屋の長男坊、ただの少年の顔をしている。表情筋は緩んで、だらしない顔をしているに違いない。
僕は朱色の私服に身を包んで、家路を急いでいるこの過程が好きだった。
もちろん、忍術学園で勉強をしたり、委員会活動をしたり、は組のみんなと他愛もない話をして笑い合うのも大好きな時間だ。けれど実家という場所へ向かう際中に、学園にいる時とは少し違った僕になれる瞬間はまた違った心地よさがあるんだ。
家に帰ったら、父ちゃん、母ちゃん、じいちゃん、それから弟の庄二郎に挨拶をする。荷物を置いて、ひと言ふた言学園であった話をしよう。
そしてすぐに家を出てあの子に会いに行くんだ。……そう頭の中で段取りを踏む。
ああ、でも手伝いを頼まれるかもしれない。そしたら出かけられるのは次の日になってしまうかもな。
あれこれ考えているうちに、町へ入って我が家が見えてきた。
逸る気持ちを抑えつつ、荷袋に手をかける。
「ただいま!」
大きな声で言って敷居を跨げば、帰り道にした想像とは少し違った光景が目に入った。
「おかえりなさい」
帰っている途中で想像したのは迎えてくれる父ちゃん、母ちゃんの姿だった。そのあとに裏から庄二郎をおぶったじいちゃんが出てくる。
それなのに目の前には女の子がひとり、弟である庄二郎を抱いていた。
「お帰りなさい、庄ちゃん」
「そよちゃん……?」
僕は戸惑いながら弟を抱いている女の子の名前を呼ぶ。
間抜けな顔にもなってしまう。
家族に挨拶をしてからすぐに会いに行こうと思っていた子が目の前にいたのだから。
ぱちくり、と瞬きをしてもそれは夢や幻なんかではないようだった。
戸惑っていれば裏口かじいちゃんが顔を出した。
「おう、庄左エ門帰って来ていたのか」
「じいちゃん、またそよちゃんに無理を言って店を手伝ってもらったんじゃないだろうね?」
僕はただいまという挨拶も忘れて、じとりとじいちゃんを見た。
弟の庄二郎を抱いている子は如月そよちゃん。
五軒ほど先の家に住んでいる幼なじみだ。
そんな彼女は僕とじいちゃんを見比べて慌てている。腕の中にいる庄二郎は夢の中のようだった。
「違う違う!そよちゃんが炭を買いに来てのう……父ちゃんと母ちゃんが買い付けに出かけとって留守じゃったから炭を束ねている間、庄二郎を頼んでいたんじゃ」
僕のするどい視線にじいちゃんは首を横に、そよちゃんは首を縦に振っていた。
どうやら早合点だったらしい。
じいちゃんにごめんね、と謝ると彼女から弟を受け取った。
「庄二郎の面倒を見てくれてありがとうね」
「ううん、ぐっすり良い子に寝てたよ。……庄ちゃんは今日からお休みなの?」
「うん、秋休みなんだ」
忍術学園では秋休みというのがある。農家や家で商売をやっている生徒の為の休みだ。
僕の姓は黒木、上質な炭、という意味であり実家は炭屋を営んでいる。だから僕も友人と同じように家業の手伝い目的で実家に帰ってきたのだ。
そっかあ、と嬉しそうに言うそよちゃんは、じいちゃんから炭を受け取った。
おつかいで来たのだろう。帰ろうとする彼女に僕は呼び止めた。
「そよちゃん!」
「なあに?」
少しだけ重そうに炭の束を抱えたそよちゃんが振り返る。
「落ち着いたらそっちに行くから待っていてくれる?」
僕の問いかけに彼女は笑顔で頷いた。じゃあ、またね、と店から姿を消す。
それを見送って、まだ眠っている庄二郎をじいちゃんの背中に括るを手伝った。
「じいちゃん、今日は手伝うことある?」
父ちゃんや母ちゃんが買い付けでいないようだから、きっとやることがたくさんあるに違いない。
しかし予想は外れ、じいちゃんはううん、と首を振ったのだ。
「帰って来たばかりじゃし、今日は好きなことをしたらいい」
「あ、ありがとう……」
好きなこと、と言って彼女の出て行った方を見たものだから見透かされている気がして僕は俯いた。
それでもありがたいことだ。善は急げ、と学園から持ち帰った荷物を整理して、別の物を詰め直す。
筆、墨、帳面、算盤……それらを包んで立ち上がった。
「じゃあ、行ってきます」
「気を付けてなあ」
帰ってから半刻も経っていないのに、じいちゃんの優しい声に見送られて再び家を出る。
西の方へ五軒行って、その向かい。周りの家と似たような佇まいの戸の前へ立った。
ここへ立つのはいつも緊張する。いつもは穏やかな心拍数がとたんに跳ね上がるのだ。
庄ちゃんったらいつも冷静ね、なんて言うは組のみんなが見たらどうなることか。信じられない、と目を丸められてそれからからかわれるだろう。
僕は少しだけ上擦った声で戸の向こうに呼びかけた。
「こ、こんにちは」
するとすぐに戸が開いた。中からは先程店へ来たそよちゃんがにこにこと出迎えてくれた。
「庄ちゃん先生、いらっしゃい。今日もよろしくお願いします」
邪気のない笑顔を見せるそよちゃんに僕は頷いて、家へ入る。
忍術学園へ入学してから、実家へ帰省すると彼女と一緒に勉強をすることが決まりのようになっていた。
家だと商売をしているから、なかなか課題に集中が出来ない。それに父ちゃんも母ちゃんもじいちゃんもおしゃべりで僕が勉強をしていれば質問攻めにしてくる。それで全く勉強が進まないのだ。
そんなところをたまたま見ていたそよちゃんが我が家で勉強したらどうか?と誘ってくれた。
彼女は学校へは行っていないが勉強に興味があるみたいで、場所を貸す代わりに僕が基本的な読み書きや算術を教えることになったのだ。お陰で復習も出来るから成績が最近伸びたし、そよちゃんも勉強をするのがもっと好きなようだった。
忍者風に言うのなら利害が一致した関係なのである。
「あれ?ご家族は?」
家の中があまりにもがらんとしていたので聞いた。
「父さん母さんは仕事でいなくて、おばあちゃんはさっき近所へ遊びに行っちゃった」
照れたように笑う彼女を見て顔が熱くなる。
この利害が一致した関係にはひとつだけ問題があった。
それは僕が彼女の前だと冷静でいられないことだ。こうなってしまったのはいつからだろう。前はそんなこともなかった気がする。
それなのに最近は彼女の笑顔を見る度に体の真ん中が熱くなって、たまに痛くなる。
そしてふわふわと浮いた心地になるのだ。
この正体を冷静に分析した時に一つの答えに辿りついた。もしかして、僕は……
「庄ちゃん先生、今日は何を教えてくれるの?」
考えている途中で、蘭々と見つめてくるそよちゃんに僕ははっとする。
「今日は算術にしようと思うんだ」
事前にそよちゃんに向けた教材も準備していた。出された宿題も算術のプリントだし丁度良かった。僕は荷袋から算盤を取り出すとそれを振って見せる。
「すごい、そろばんだ!使い方を教えて!」
「もちろん」
隣に並んで彼女の横へ算盤を置く。まずは数の数え方から、とぱちりぱちりとはじく。その度にとても嬉しそうな顔をした。
宿題なんかよりもこうして算盤をはじくそよちゃんを見ていたいな、なんて土井先生に言ったら泣いてしまいそうなことを思う。
そよちゃんは驚くほど飲み込みが早い。穏やかな時間は過ぎて行って、あっという間に足し算までを覚えることが出来た。
そよちゃんが夢中で算盤をはじくとなりで僕は宿題のプリントを広げた。
秋休みは実家の手伝いをするための休みだ。だから宿題も易しい物になっている。それでもは組の皆は終わらせて来ないのだろうなあ、なんて賑やかな友人たちを思い浮かべた。
僕は学級委員長なのだから絶対に宿題はやって行かなきゃ。そう思うのに反して手は止まったままだ。
そよちゃんが算盤をはじく姿から目をそらせないでいる。
僕が図書室で借りて準備した問題を懸命に解く姿はとても健気だ。
それを見ながらあることをずうっと考えていた。
「庄ちゃん?今日、なんかぼんやりしてる?」
いつの間にか問題を解き終わったそよちゃんがこちらを見ていた。
予想以上に顔が近くにあったものだから体がびくりと跳ねる。それに彼女にも伝染したようだった。
「ごめんね、学校から帰ってきたばっかりなのに……疲れてたよね?」
どうやら勘違いをしているそよちゃんは申し訳なさそうに頭を下げた。
すぐに誤解を解かなくっちゃ。冷静に考えようとしているのにうまくまとまらない。
「疲れてないよ。大丈夫だよ」
そう言うのが精一杯だった。
「で、でも……いつもすぐに宿題をやるのに今日は真っ白だし……」
そよちゃんの目は、何も解けていない算術のプリントを見ている。
確かにいつもだったらこのくらいのプリントは解き終えてもいい頃合いだ。それなのに僕はぼんやりと別のことを考えていて何も手についていなかった。
「ちょっと考え事をしていたんだ」
「なにを考えていたの?」
近い距離で興味深く聞いてくるものだから、考えるよりも先に思っていたことがするりと口から出て行く。
「そよちゃんがお嫁さんになったら、仕事をして家へ帰ってくるのが楽しみになるんだろうなって」
僕の言葉を聞いてそよちゃんが慌てふためいている。ええ、とかああ、とか言葉になっていない声を出して頬を抑えた。
それを見た時に自分がとんでもないことを言ってしまったことに気が付いた。
「ご、ごめん……!今日、帰った時庄二郎を抱いていただろう?だからお嫁さんになって子供が出来て、家へ帰ったらこんな感じなのかなあって思って」
ああ、違う。これじゃ余計そよちゃんに好きだと言っているようじゃないか。
間違いではないけれど、出来るものなら言葉を回収して口に戻してしまいたい。だけど冷静でない頭で考えた言葉はしっかりとそよちゃんの耳に届いているようだった。
「……いや、そうじゃなくて。そよちゃんは良いお嫁さんになれるよ。うん。本当にそう思う」
誤魔化すように言った。
「そっかあ。ありがとう」
頬を抑えたままでそよちゃんは言った。なんとも嬉しそうな声色にまた心臓が跳ねそうになる。僕はこくこくと何度も頷くのがやっとだった。
「それじゃあ、庄ちゃんのお嫁さんになるならもっと読み書きも算術もじょうずにならなきゃね」
白い歯を見せて笑う彼女に僕はなにも気の効いたことが言えなくて、何がは組の優等生だ、と自分を叱責する。
なんとも情けない。好きな子を目の前にすると知識なんてなんの役にも立たないのだ。
やっぱり勉強だけじゃだめだな、と思いながら僕は右手の小指を立てた。
「僕ももっと勉強も頑張って一番の成績で忍術学園を卒業するから、そしたらお嫁さんになってくれる?」
遠慮がちに差し出せばそよちゃんの右手も伸びてきて、小指と小指が触れた。
「黒木そよって似合ってるかな?」
ふふふ、と笑う彼女に、頬が熱くなって小さな声でそうだね、と返す。
この約束をずうっと覚えてくれるだろうか。
冷静に考えれば、それは難しいように思う。五年も経てば今流れている時間なんてほんの少しの出来事で、彼女の頭の中にはきれいさっぱり残らないかもしれない。
それでも僕は忘れない。
この浮かされるような熱い気持ちを。痛いくらいに鳴る鼓動も。
さあ、どうやって完全にこの子を手に入れてやろうか。そんなことを考える。
僕は勉強が好きで、そしてなによりしぶといのだ。
涼しげなこの顔もいつか夏の日の夕日のように真っ赤にしてみせる。
今はまだ余裕そうに笑っているそよちゃんの小指を絡め取って、指切った、と呟くのだった。
小指で宣するはかりごと
“お帰りなさい”を勝ち取るために
さあ、なにから始めよう
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