すきです、すきです、どうしようもなく
くないの持ち手は刀の柄とは違ってほっそりとしている。
そんなくないをぼくは右手に握っていた。
今日は休校日だが、朝から体育委員会の活動があった。
委員長である七松小平太先輩を筆頭に、委員会全員が黙々と塹壕堀りを進めていた。
いつものように目の前にある土を力いっぱい砕く。たまに小石にぶつかれば反対に力がかかって、固くなった手のマメに当たった。
ぴり、と伝わる微かな痛み。それに気付かないふりをしてもう一度くないを振り上げた。
「金吾、今日は一段と頑張っているねえ」
隣からふわりとした声が聞こえてきた。二年生の、時友四郎兵衛先輩のものだ。
「そうですか?」
「うん、いつもより掘るのが早いし泣き言も言わないし。えらいねえ」
顔を土まみれにして笑う時友先輩。褒められたものだから恥ずかしくて、でも嬉しくてその穏やかな笑顔が伝染した。
確かに今日は調子がいい。
休みだからといってだらけるは組の中でも一番に起きたし、集合場所へも誰よりも早く着いた。
いつもは手のマメが痛くて弱音を吐くのに、今日はただただ黙々と塹壕堀を進めていたのだ。
「へへ、今日はいい事があるんです」
こそりと他の先輩に聞こえないように言った。
それを聞いた先輩はそっかあよかったねえとふわりと笑って、汗の滲んだ額を拭いていた。
今日はぼくにとって待ちに待った素晴らしい日だった。
天気は快晴だし、委員会活動は昼前には終わる。ランチは彼の好物ばかりだと朝食の時に食堂のおばちゃんに教えてもらった。
そしてなにより、今日はあの子に会える日なのだ。
「……ふふ」
ぼくは口の端から漏れ出た笑みをそっと手の甲で隠した。
そして再び強くくないを握り直して、後ろにいる時友先輩に同じく土を削り始める。そして、“あの子”のことを考えはじめた。
かすかに気を緩めた瞬間だった。
ばりばり、と空間が裂けて今掘ろうとしていた土から誰かが出てくる。
「説明しよう!」
忍び装束にすっとした切れ長の目。落ち着いた声の主はぼくの剣の師匠、戸部新座衛門先生だった。
「と、戸部先生……!静かにしてください」
反射的にシイ、と人差し指を立てる。こんなところを先輩に見られたらややこしいことになる。
ああ、すまんと短く返されると、どこか違う場所を見ながら戸部先生は小声で話しはじめた。
「あの子、というのは町の饅頭屋の娘、そよのことだ。金吾は忍術学園に編入する前、空腹で倒れた時がある。その時に介抱したのが如月屋のそよという娘だったのだ」
「そりゃあ、先生には話しましたけどわざわざ出てきて説明しなくても……」
突っ込みを入れながら、周りを確認したが幸い先輩方は誰も気が付いていないようだ。そんなぼくの心労を余所に先生は説明を続けた。
「如月屋の初代は学園長の古い知り合いで、定期的に届けてもらっている。そして、本日はそよが学園長に饅頭を届けに来る日なのだ。以上、説明は忍術学園講師、戸部新座衛門だ」
「あ、ありがとうございました……」
お礼を言えば先生から貼っておけ、とテープを渡される。
ばりばりとそれを引っ張った時だった。
「あれえ? 金吾、誰か来ていたの?」
「い、いえ! 時友先輩、誰も来てません!」
「そっかあ。もう少しでお昼だからがんばろうねえ」
「はい!がんばります!」
増えた仕事を片づけてから、再び塹壕堀の訓練に戻った。
先生の言ったとおり、今日は命の恩人とも言えるそよちゃんに会える日なのだ。
ずっと楽しみにしていた大切な日である。
お昼が過ぎたころ、決まって同じ時間に彼女は風呂敷包みを大事そうに抱えて町のほうからやって来るのだ。
ぼくはいつもそよちゃんを学園長先生の庵に案内していた。
誰が決めたわけじゃない。むしろ案内なんて必要ないんじゃないかというくらい彼女は忍術学園に来ている。
それでもぼくは偶然を装って正門へ行き、彼女のことを待った。案内途中で色々な話をすることが何よりも楽いのだ。
今日は何を話そうかと考えていれば、委員長である七松小平太先輩の元気の良い声が聞こえてきた。
「よおし、お前たち。今日の塹壕堀はここまで!」
未だ疲れを感じていないようだった。一等先に塹壕から這い出て、くるくると腕を回しながらぼくたちを見おろした。
次に塹壕から出てきたのは平滝夜叉丸先輩だ。次屋三之助先輩が迷子にならないように襟首を掴んでいて、いつも綺麗にしているご自慢の顔や髪を乱している。
「七松先輩、次回は塹壕堀以外の事をしませんか?」
「何故だ? 楽しいだろう。良い鍛錬になるぞ!」
平然と言ってのける七松先輩に滝夜叉丸先輩の眉間には深く皺が刻まれる。
ああまた始まるな、と下級生の僕たちは溜息を吐いた。
それと同時に滝夜叉丸先輩の叫びにも似た声が聞こえる。この美しい顔が土まみれになるんです、細かいことは気にするななどと言い合い始めた。
これは長くなるなあ。
上での喧騒を見上げていればずいと手が伸びてきた。泥だらけのそれは、先程声をかけてきた時友先輩のものだった。
「このあとなにか予定があるんでしょう?くない、返しておくよ」
「ええ、でも……いいんですか?」
「早く行かないと言い争いに巻き込まれちゃうから、ね」
含んだ物言いをする先輩に、首を傾げる。それから遠慮がちに先輩の手にくないを置いた。
小さくお礼を言って、土が盛り上がっているところに足をかけた。
「だから! 塹壕堀りは美しくないと言っているんです!」
「体育委員会に美しさなど必要ないだろう。滝夜叉丸は細かいことを気にし過ぎなのだ」
「せ、先輩がた! おつかれさまでした! お先に失礼します!」
返事を待つ前に深く頭を下げてから、振り返って地面を蹴った。
後ろでは滝夜叉丸先輩がくどくどと何かを言っている声、おつかれさん、と大声で言う七松先輩の声、それからそのまた遠くから用具委員会委員長の食満留三郎先輩が塹壕を掘ったことに文句を言っている声が聞こえてきた。
時友先輩が言う通りだ。あのまま残っていたら面倒なことに巻き込まれていただろう。
機転の利くひとつ年上の先輩に感謝をしつつ、ぼくは井戸へ向かう。
汚れた体を洗って、髪を結い直さなければいけない。それから急いで昼食を食べて……やることはたくさんあった。
それでも、もうすぐ会える。あの子に会える。
ぼくはだらしなく顔を綻ばせながら、急いで走っていくのだった。
汚れた体は綺麗になったし、おなかいっぱいご飯を食べた。委員会活動の疲れも残ってはいない。
今のぼくを言葉で表すのなら、絶好調というのがぴったりだろう。
あとは正門に行くだけだ。
あまり人に出くわさないように慎重に廊下を歩く。こんな時には組の誰かに出くわしたりしたら絶対に着いてこようとするだろう。先生たちになにか頼まれごとをしてもまずいのだ。
渡り廊下から外に出てまっすぐに歩く。
まだそよちゃんの来る時間より少し早い。門の前には事務員の小松田さんがいるだろうか、もしかしたら掃き掃除をしている忍犬、ヘムヘムがいるかもしれない。そんなことを考えながら建物の角を曲がった。
その先でぼくの目に映ったのは想像と少し違った景色だった。
「あ、あれ? そよちゃんと……庄左エ門?」
正門前にはいつもより早くそよちゃんが到着していた。そして彼女に向き合っていたのは入門表を持っている小松田さんじゃなくて、忍術学園一年は組の学級委員長である黒木庄左エ門だった。
ぼくがなにか考えるよりも先に、そよちゃんがこちらに気が付き手を振った。
「金吾くん! こんにちは」
そよちゃんに向き合っていた庄左エ門も振り返ってこちらを見た。
彼女もそれから庄左エ門も機嫌の良さそうににこにこしていた。
「庄左エ門、こんなところで何してるの?」
「いやあ、たまたま通りかかったらそよちゃんが正門にいたから」
「黒木屋の庄左エ門くんがまさか忍術学園に通ってるとは思わなくて、驚いちゃいました」
「僕も如月屋のそよちゃんがここにお饅頭を届けに来てるの今まで知らなくてさ。ほら、忍術学園のことって他言しちゃいけないし」
庄左エ門の実家、黒木屋は如月屋と近所でふたりは顔なじみだったらしい。
そよちゃんはいままで庄左エ門が忍術学園に通っていることを知らなかったのだが、偶然正門で出会って話し込んでいたのだと言う。
「この間庄左エ門くんのおじいさまがうちへいらっしゃいましたよ」
「本当? じいちゃんなんか言ってた?」
しばらくふたりは実家のことを話をしていた。
ぼくは立ち去ることも、話に入ることもできなくてただその話しに耳を傾けていた。
すると、そよちゃんはああ、そうでした! と声をあげる。
「小松田さんがいらっしゃらないから入門表にサインが出来なくて困っていたんです」
「そうだった!ごめんね、話し込んじゃって。……金吾、僕が小松田さんを探してくるからここでそよちゃんと待っていてくれる?」
「うん、いいけど……そよちゃんを案内するつもりだったし」
ぼくが言うとそっか、じゃあお願いね、と庄左エ門は走って行ってしまった。
「ごめんなさい。いつも案内をさせてしまって……」
「ううん、いいの。ぼくはそよちゃんに会いに来たから」
「え?」
「あ、いや。そうじゃなくて。ええと、そう!いつもこの時間ここを通りかかるから」
見上げられた視線が恥ずかしくて、へたな言い訳をしてわたわたと手を振った。
するとそよちゃんの手がすう、とこちらへ伸びてくる。
それがぼくの手をあっという間に掴まえてしまった。
「金吾くん、怪我していますね」
そよちゃんの指がさっきの塹壕堀で破いてしまったマメに滑った。
触れられたことと走る痛みに体が跳ねる。
「ご、ごめんなさい。痛かったですか?」
「い、いや。大丈夫。さっき委員会で破いちゃって。平気だよ」
時間差で破裂しそうに鳴る心臓を抑えた。
それでもそよちゃんは心配そうに右手を見ている。
「マメを作ることも破くこともしょっちゅうだよ」
手を握ったり開いたりして見せれば、安心したように手が離された。
微笑んだそよちゃんに何か話をしようとした時だ。
「あー! そよちゃんだ〜!」
「ほんとだー。こんにちはー!」
倉庫棟の方から聞こえたのは同室の喜三太、それからしんべヱの声だった。
「しんべヱくん、喜三太くん、こんにちは」
そよちゃんも大きく手を振りかえしている。
用具委員会の仕事中なのか、木の板を小脇に抱えてこちらへ向かってきていた。
「今日もおつかい? 大変だねえ」
「お饅頭、ぼくも食べたいなあ」
「ふふ、これは学園長先生のだからだめですよ」
あれ、おかしいな。
くすくすと笑うそよちゃんを見て身体の真ん中あたりがぴり、と痛んだ。
「喜三太、しんべヱ、知り合いなの?」
聞けばふたりはもちろん! と頷いた。
「風魔に帰るときに如月屋さんに良く寄るの!リリィばあちゃんの好物でさあ」
「ぼくもよくそよちゃんのお店に行くよお。乱太郎とアルバイトのお手伝いにも行ってるんだ」
まさかだ。そよちゃんがこんなには組のみんなと接点があると思わなかった。ぼくが驚いていることもつゆ知らず、喜三太たちは和やかに話し始めている。
すると、遠くからしんべヱと喜三太を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい、お前たち何やってるんだ!すぐに使うんだから持ってきてくれ」
三年生の富松作兵衛先輩だ。作業中で、なかなか戻ってこないふたりを心配して迎えに来たみたいだった。
「ごめんなさーい! すぐ行きます!」
「そよちゃん、またお饅頭食べに行くね」
「はい! お仕事がんばってくださいね」
じゃあね、と元気よく手を振って喜三太としんべヱは富松先輩のところへ戻って行ってしまった。
嵐のように去って行ったふたりを見送ってふう、と短く息を吐いた。
やっとゆっくり話が出来る、そう思っていたときだった。
「ごめんごめん、吉野先生に呼ばれてて……はい、入門表」
小松田さんが庄左エ門から聞いたのだろう。慌てて走ってきた。
そよちゃんは入門表を受け取って慣れたようにサインをしている。
「金吾くん、僕また戻らなくちゃいけなくて……学園長先生のところにお連れしてもらえる?」
「はい、わかりました」
いつも通りに返事をして、そよちゃんが入門表を返すところを眺めていた。
「書けました」
「ありがとう。じゃあ、金吾くんおねがいね〜!」
入門表を受け取って忙しげにと去っていく小松田さんのことを見送る。
なんだか忙しないなあと思いながらぼくは頭を掻く。
さあ、行こうかと言えばこくりと頷いてそよちゃんが隣へ並んだ。
それから時間は半刻くらい経ったと思う。ぼくとそよちゃんは裏庭の大きな木の下にいた。なぜこんなところでふたりで座っているのかとぼんやり思い出す。
小松田さんの背中が見えなくなってからぼくはそよちゃんを連れて学園長先生の庵へ行った。いつも通り帰りも正門まで送るからと彼女がおつかいを終えるのを中庭で待っていた。
何事もなく庵から出てきて、さあ帰ろうというときにそよちゃんが静かに言ったのだ。
「この後少しおはなしできませんか?」
歩きながら話したことはあったけれど、こうして呼び止められることは初めてだった。
突然の誘いに戸惑ったが、考えを絞ってとりあえず日の当たらない木の下に来たのだ。
もともと物静かなそよちゃんが改まってなにを話すのだろうかと緊張する。
庄左エ門のことか、もしくは喜三太やしんべヱのことだろうか。あの中に好きな子がいるとかだったら嫌だなあ……あれこれ考えていると彼女の小さな口が動いた。
「あの……やっぱり痛いですよね」
「へ? なんのこと?」
いきなり何をいうのかと思っていればそよちゃんは自分の荷袋を解いて中から何かを探している。
しばらくして取り出したのは細長く白い布だった。
「やっぱり傷が痛いんだと思って……」
そよちゃんは委員会中に破れてしまったマメの事を言っているみたいだった。
「痛くないよ! こんなの本当にしょっちゅうだし、平気だから」
「でも、今日金吾くんとても静かで……我慢させてしまったのだと思って心配だったんです」
そう言うとぼくの手首を掴んだ。
たしかにマメは痛いことには痛い。でも高鳴る心臓のせいでそれがよく分からなくなった。
そよちゃんは泣きそうな顔で右手のひらに包帯を巻いていく。
そんなに心配されるほどぼくは話をしていなかっただろうか……思い返せば確かに別の事を考えていて全く彼女と会話をしていなかった気がする。何度か声をかけられたけれど、ああとかうんとか気の抜けた返事しかできていなかったことを今になって自覚した。
「ほんとに、大丈夫だよ。考え事をしていただけで……ごめんね」
「悩み事ですか?」
「いや、ああ……うん。……そよちゃんがまさか庄左エ門やしんべヱ、喜三太と知り合いだとは思わなくて。それを見ていたらなんか、こう……胸のここら辺が痛くてさ。ごめん、なんて言ったらいいかわからないんだけれど」
自分で分からない気持ちをぶつけてしまった。困らせちゃったかな、と顔を覗けば、予想に反してそよちゃんは顔を赤らめていた。
「そよちゃん……?」
「あの……わたし、今日いつもより早く来たんです」
確かにぼくが正門へ向かった時、普段彼女は来ない時間だった。それなのに、今日はすでに到着していてたまたま通りかかった庄左エ門に出会っていた。
なんで? と聞けば彼女の顔はまた赤くなった。
「金吾くんに、はやく会いたくて……でも、会っても金吾くんは怪我を我慢しているみたいであまりお話しできなくて。それが寂しくて」
こんな泣き出しそうな顔、させたかった訳じゃないんだ。今になって自分の勝手さを思い知る。
「ごめん。……ごめん」
そよちゃんの手が包帯を巻き終わり、端をきゅうと結んだ。その手が引かれる前にぼくは自分の左手を重ねてしまう。
「そよちゃんが他の子と仲良くしているのを見ると嫌な気持ちになったんだ」
今日は絶好調のはずだった。
朝は誰よりも早く起きたし、空は雲もなく青空が広がっていた。委員会は午前中で終わったし先輩に褒められた。ランチは好物ばかりで、身支度も素早く終わった。
それなのに庄左エ門や喜三太、しんべヱと楽しげに話しをしているそよちゃんを見た時に心が淀んで、なにかどろりとしたものが溢れそうになったんだ。
情けなく眉根を寄せれば、そよちゃんはふふ、と笑った。
「それは、ええと……あの」
「そうだよ、やきもちってやつだよ」
かっこう悪いなあ。それでも認めるしかなかった。
ぼくはやきもちを妬いたんだ。
自分しか彼女のことを知らないと思っていた。それが覆った時どうしても寂しくなったんだ。
「なんだか、嬉しいですね」
恥ずかしさのあまり口を尖らせていたのに、ぼくはぽかんと間抜け面をさらしてしまう。
ふわりとした笑顔はあまりにきれいだ。やきもちをやくなんてはずかしい、とかつまらない見栄がすぐにどこかへ飛んで行ってしまった。
この笑顔だ。倒れた時、目が覚めて一番に見た顔。
あのとき胸に点ったあたたかさが、今は燃えてしまうんじゃないかというくらい熱くなっている。
「そよちゃん」
ぼくの問いかけに彼女は小さく返事をした。
今日のぼくは絶好調なのだ。
委員会中に泣かなかったし、破れたマメも痛くない。夕飯もぼくの好物ばかりだし、明日提出する宿題だってもうやってある。
だから、言ってしまおう。ぼくの心の熱の正体を。
「あのね! 聞いてほしいんだけど」
――欲しいものがあるのなら捕まえておけ。絶対に逃がさないように。
以前、誰かにそう言われた気がする。
それは父さんだったかもしれないし、戸部先生だったかもしれないし、七松先輩だったかもしれない。
今しかない、今がいい。ぼくの体には収まらない気持ちを打ち明けてしまおう。
全身の血が頬に登る。からからと喉が渇く。
あたたかいそよちゃんの手を握り直して、ぼくは一世一代の勇気を持って告げるのだった。
すきです、すきです。どうしようもなく
やきもちのあとにあふれ出た
燃えるようなこのおもひ
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