想い、綴り、また想い
晩夏も夕刻。
まだまだ日は高く、茜に染まるひとつ手前だった。
茄子に大根、それから瓜、桶に井戸水を入れてそれを洗っている。
そろそろ父さんが仕事から帰ってくるはずだ。それまでに夕飯の支度をしなくっちゃ。わたしは気合を入れて再び井戸から水を汲み上げた。
ここ、加藤村では大半の男たちが馬借の仕事に就いている。
颯爽と馬に乗り、頼まれた荷物を遠くへ運ぶ。位の高い仕事ではないが、どの男たちもそれを誇りに思っていた。
村の女はそれを支える。馬の世話や、帳簿付け、家事全般が女たちの仕事だ。
わたしも今年で十三になる。段々とできる手伝いも増えてきた。裕福ではないものの生活に不満はない。
ただ一つだけ、わたしには悩みがあった。
「そよー!」
考えていればその悩みの種である元気な声が聞こえた。
間髪入れずにぎゅうと腰辺りが閉まる感覚がする。驚いて離しそうになった桶を必死に捕まえた。
「わ、若旦那! いきなり危ないです」
わたしの腰に後ろから抱きついてきたのは、馬借の親方のひとり息子、団蔵くんだった。
離してくださいと言えば、腰に回されている日に焼けた腕がどけられる。するとやっとその顔が見られるのだ。
「ごめんごめん」
汗をかいて、悪戯っぽく笑う若旦那にわたしは頬を膨らませた。怒ってみせたのにもかかわらずそんなのはどこ吹く風で彼は言う。
「だってそよを見かけたからさ! ねえねえ、一緒に馬に乗ろうよ」
「だめです。わたしは夕食の準備中です」
野菜の入った桶を指差すと、若旦那はつまらなそうに口を尖らせた。
「いいじゃないか。そよは将来ぼくのお嫁さんになるんだろう?」
あっけらかんと言う彼にわたしの頬は一気に熱くなった。
「もしそうだとしてもまだまだ先の話です」
何を隠そう、三つ下の屈託なく笑う彼はわたしの許婚のひとなのだ。
仲の良い両家の父が口約束で取り決めたことで、正式なものでないが若旦那が忍術学園を卒業したら、という話になっている。
許婚の話がわたしの耳に入ったのは今年の春。まだ気持ちの整理が出来ずにいた。
「じゃあ、お嫁さんになったら一緒に馬に乗ってくれるんだ?」
「そ、それは……」
無邪気な笑顔で聞かれる。
そんな遠い話、わたしはすぐに頷くことが出来なかった。
夏休みに入って、わたしが家事仕事をしていればこうして若旦那がやってきてちょっかいをかけてきてくる。
若旦那のことを嫌いかと聞かれればそんなことはない。ただ、こうして毎日好きだ好きだと言うようにこられると、どうしていいか分からなくなる。それがわたしの最近の悩みだった。
好意を向けられることは嬉しい。けれど、彼はまだ十歳。小さな戯れのような感情だろう。
初恋もまだなわたしが、三つも年が下の、まだ十の男の子と将来結婚するなんて自覚が出来ない。
どうにかしてこの場を切り抜けなければ夕飯作りが遅れてしまう。
考えたあげくに自分でもよくわからないまま言葉を落とした。
「若旦那、わたしなんかをお嫁さんにしたらきっと大変ですよ」
「どうして?」
彼は不思議そうに首を傾げた。それに合わせて青みがかった黒の髪がはらりと揺れる。
「わたし、夢見がちなんです。もし許婚が出来たら、祝言前にはたくさん恋文が欲しいですし、贈り物もほしいです。街にも頻繁に連れて行ってもらいたいし、それから仕事だからと言って放っておかれるのはいやなんです」
面倒くさい女ですからやめておいた方がいいですよ、そう言った。
実際のところそんな願望はこれっぽちもないのだが、こう言っておけばしつこくもされないだろう。
とにかく今は夕飯作りに専念したい。そう思っていれば不思議そうに首を傾げていた若旦那は頭を戻した。
「そっか、わかった!」
どうやら諦めてくれたようだった。
「ぼく明日から忍術学園に戻るんだけど。冬休みになったらまた帰ってくるから!」
そう元気よく言って彼は踵を返したのだった。
次の日に若旦那は馬借のみんなに見送られて加藤村から忍術学園に戻って行った。
わたしはその小さな背中に手を振って、いつもの日常に戻って行く。
夏の些細な会話もいつしかすっかり忘れて行って、忙しない毎日を送っていった。
実りの秋が過ぎ、冬になった頃。
わたしは部屋の中で帳簿付けの練習をしていた。火鉢に火をくべても口からは白い息が出ていく。
これが出来るようになれば父さんの仕事はもっと楽になるだろう。わたしは筆に墨をつけて、紙に滑らせた。
――とん、とん
ひとつ計算が終わった時、渇いた音が戸から聞こえてきた。
こんな昼間に誰か来たのだろうか。父さんではないようだった。筆を離して土間へ降りる。
「はあい、どちらさま……」
「ただいま、そよ」
鼻の頭を真っ赤にして、惜しげもなく歯を見せて笑っていたのは若旦那だった。
そう言えば父と同じ馬借の清八さんと朝にすれ違って、今日から若旦那は冬休みのようですよ、とおっしゃっていた気がする。
外はすっかり雪景色で、薄着の彼はとても寒そうだった。
「お帰りなさい……あれ? 家に戻られていないのですか?」
わたしは若旦那の背中から覗く荷袋を見付けて尋ねた。
すると、彼は首を振って一歩家へ入った。
「これはね、違うの。寒いから火鉢に当たってもいい?」
ず、っと鼻を鳴らす。わたしは風邪でも引いたら大変だと、すぐに彼を招き入れた。そして火鉢に炭をくべる。
霜焼けて赤くなってしまった手を当てて、あったかいねえと呟くのだった。
わたしも隣に座って火に当たった。
「元気にしてた?」
「ええ。わたしも父も変わりなく元気でした」
若旦那はわたしにそっかあとどこか上の空で返す。そしてかじかんだ手を握ったり、開いたりしてから背負っていた荷袋を解いた。
「あのね、これ……」
一枚の布になった荷袋の上には丁寧に折られた紙がいくつも乗っていた。
その数は十、いや二十以上はあると思う。いったいこれは何なのだろうかと首を傾げる。すると若旦那はその中のひとつを取ってこちらに差し出した。
「これが最初に書いたやつ。それからこれは、九月の初めに書いたやつね」
これは寝る前に、これは授業のあとに、これは朝食の前に、そう言われながら綺麗に畳まれた紙を次々に渡される。
わたしの両手はあっという間にいっぱいになってしまった。
「あの、若旦那……これはいったい……」
「こいぶみ!」
聞けばきっぱりと答えた。
「こ、恋文……ですか?」
よく見れば折られた紙の端には“如月そよ様”とわたしの名前が書いてあった。
「だってそよは許婚からたくさん恋文がほしいんでしょう?」
――わたし、夢見がちなんです。もし許婚が出来たら、祝言前にはたくさん恋文が欲しいですし、贈り物もほしいです。街にも頻繁に連れて行ってもらいたいし、それから仕事だからと言って放っておかれるのはいやなんです。
確かにそんなことを言った。若旦那が夏終わり、忍術学園に戻る前日のことだ。
その場しのぎで言ったことを今の今まで忘れていたのだ。
「贈り物は出来ないから……書いてきたの。読んでくれる?」
わたしは頷いて最初に渡された手紙を広げた。
――本日、忍術学園に戻って参りました。そよは元気かなあ。恋文と言ってもぼくにはなにを書いていいかわからないや。また手紙を書きます。ぼくはそよが好きです。
――ぼくの字はきれいじゃないらしい。手紙を送っても読めないだろうっては組のみんなに言われちゃった。たしかに先輩にも帳簿付けが汚いって怒られるけどさ。それじゃあこれは直接渡そう。そよが読めなくてもぼくが何を書いたか覚えているから。ぼくはそよが好きです。
恋文というにはつたなく、日記のようなそれをわたしは次から次へと開いていく。
――忍術学園に清八が荷物を届けに来ました。そよは元気だと聞きました。良かった。忍術学園には柿が成っています。そう言えば去年は一緒に柿を食べたね。またいつか一緒に食べましょう。また手紙書きます。ぼくはそよが好きです。
――先輩方に最初に書いた手紙を見せたら、恋文とは日記ではないとからかわれました。やっぱりこんなんじゃそよは喜んでくれないかな。ぼくには恋文の書き方なんてわかりません。次からは先輩方に教えていただいた通り書きます。少し照れるけれど、きみに喜んでほしいです。ぼくはそよが好きです。
開く度に鼓動が速くなっていく。
手紙の最後は必ず決まった文が書かれていた。わたしのことを好きだと言う一文で纏められているのだ。
若旦那の字は確かにきれいとは言えなかった。それでも力強く好きだと書かれていれば、嬉しいと思う。
段々と手紙の内容は長くなっていく。わたしは夢中で次から次に手紙を読んでいった。
そして最後の一通を開ける。
――雪降る朝、これを書いたら忍術学園を出ます。加藤村や馬も恋しいですが、やはりきみが一番恋しいです。これまでに書いた手紙は全部で三十になりました。飽きっぽいぼくがこれだけ書いたことだけは褒めてください。もうすぐきみに会えます。今日は走って帰ります。そしたら全部読んでください。そしてこの気持ちがしっかり届きますように。もし届いたのなら一通でもいいです。返事をください。
ぼくはそよが好きです。
急いで書いたのか、最後の“です”の字がひしゃげていた。それがなんとも愛らしく見えてわたしはそれをきゅうと胸に抱く。
「そよ? 読めなかった? ごめん、ぼく字が下手だから……」
「い、いえ! そんなことありません」
「恋文ってこういうのじゃなかったかな?」
そんなことわたしもわからなかった。初めてもらった文なのだ。
胸がいっぱいでそんなこともと言えず、ただただ首を左右に振った。
「わ、若旦那は、どうしてわたしを好いてくださるのですか?」
わたしの問いに若旦那はううん、と唸る。
「好きなことに理由なんているの?」
「え、ええと……」
「わからないんだ。でもそよが理由がいるっていうなら考える!」
だって気が付いた時には好きだったんだもん、そうはっきりと言われてしまえば、そこに疑いなんかなくなってしまった。
たとえ戯れのような恋心でも、わたしを満たすには不足はなかったのだ。
若旦那が苦手な字をわたしのほんの一言のために綴っている。その事実がこころを暖かくした。
「あの、若旦那……」
「なに?」
若旦那の目は火鉢の明かりが反射してきらきら光っていた。
今までに感じたことのない苦しさが胸を締めている。
「お手紙嬉しいです。お返事、書きます」
「うん……うん! 楽しみにしてる」
それから若旦那がこちらに寄りかかって来て、体温のあたたかさを感じる。
学園でこんなことがあったよ、あんなことがあったよ、そう嬉しそうに話しはじめるのをぼんやりと聞いていた。
口からは白い空気が出ていくのに、不思議と寒く感じなかった。とくとくと心地よい心音が伝わってくる。
どうお返事を書きましょうか。
あれやこれやと考えながら楽しそうに話をする若旦那の声に耳を傾けるのだった。
想い、綴り、また想い
また書きます、読んでください
出来たらぼくを好いてください
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