あの子はやんちゃ、きれいな手
冷たい水に手を付けて、ぼくは反物を洗っていた。
今は忍術学園の秋休み。家が農家や商家の子は帰省をして手伝いをしている。
は組のみんなも例にもれず、休みに入ったその日に各々家路についていった。暇なのは家が大貿易商のしんべヱくらいだろうか。いや、乱太郎の家の手伝いをきり丸と一緒にすると言っていたから案外忙しいのかもしれない。
ぼくも朝一番で帰って来て、さっそく実家の染物屋の仕事を手伝っていた。染料に浸けていた反物を丁寧に洗うのだ。
「いすけくんっ!」
さあ、まだまだ洗い流さなくては。そう立ち上がった時に声がかかった。振り向けば女の子がひとり、小さく手を振っていた。
「そよちゃん、こんにちは」
「こんにちは。伊助くん、帰って来ていたんだね」
「今朝帰って来たばかりだよ」
この子は町はずれにある武家、如月家のご令嬢で、名をそよちゃんと言った。如月家の主人がうちをご贔屓にしてくれていて、いわば彼女は上客の娘さんだった。
「そよちゃんはお父様と来たの?」
「ううん、お屋敷を抜け出してきたの」
「ええ? そんなことしたら怒られちゃうじゃないか!」
「そうなの、だから内緒にしてね」
しい、と人差し指を立てている。そんなことを言ったって……と周りを見回す。両親は店先にいるから、裏庭にいるのはぼくたちだけだった。
そよちゃんと話していると実家に帰って来ている筈なのに、忍術学園にいる感覚になる。そう、彼女はちょっとした問題児なのだ。
ご令嬢であるはずなのにやんちゃで、よく抜け出しては女中や使用人を困らせている。本当はぼくもお客様だから丁寧に接しなきゃいけないのに、そよちゃんがいやだと泣くからこうして友達としゃべるみたいな言葉遣いになったのだ。
「そよちゃんのお父様に聞かれたら嘘は吐けないよ」
「ええ、伊助くんの意地悪!」
ぷくり、と頬膨らませる。それから反物を浸けていた桶に近寄った。
「染物って難しいの?」
「うん、まだぼくは最初から最後までひとりで出来ないんだ」
「へえ、そうなんだ」
珍しいのだろうか。しばらく首を傾げながら見ていたそよちゃんは桶に手を伸ばした。
「だ、だめだよ!」
ぼくは井戸から汲み上げた水桶を投げ捨てて彼女の元へ駆けていく。藍色に染まった水に白い手が触れてしまう前にそれを捕まえる。
「い、痛っ!」
「あ……ご、ごめん」
きつく握りすぎた手を離す。急いで懐から手拭を取り出して、濡れてしまった手を拭いてあげた。
「この水はまだ染料が濃く残っているから汚れちゃうよ」
「そっか……じゃあ伊助くんが仕事しているのを見ていてもいい?」
ぼくは静かに頷いて、それからこっそりと店の裏口に回った。端に置いてあった茣蓙を持ってきて敷いてあげる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
それからそよちゃんは静かにぼくを見ていた。なにかを考えるように時々眉根を寄せながらこちらを見ている。なんだかそれが気になってこちらから声をかけた。
「なんか考え事してるみたいだけど大丈夫?」
「え! 変な顔してた?」
「変な顔ではないけれど、百面相してたよ」
指摘すればそよちゃんは両手で頬を抑えていた。
それからぱたぱたと顔を仰ぐような仕草をして、膝を抱えた。
「あのね、伊助くん」
ぼくの名前を呼んだ声色がなんだかいつもより元気がなくて、明るくけらけらと笑う彼女は何処へ行ってしまったのだろうか。心配になって手を止めた。
「わたしって生きてるのかな?」
「そよちゃん……?」
急に何を言いだすのだろう。ぼくはぽっかりと口を開けてしまう。
「わたしはあの家にいる限り、ご飯を作ることも洗濯をすることも布団を準備することもないの。でも生きていくためにはどれもこれも必要でしょう?わたしはあそこにいると生きているんじゃなくて生かされてる気がして……それが、怖いの」
きり丸が聞いたらなんて羨ましい話だと言うだろうか。それでもそよちゃんは泣き出しそうな顔で膝を抱えていた。
如月家は裕福で使用人や女中を何人も雇っている。忍を雇っていたこともあると噂で聞いたことがあった。生きていくために必要なことは全部誰かがやってくれる。こうして家の手伝いをしているぼくとは全く違う日常を送っているのだ。
「このまま大人になって、きっと父さまより偉い人の家に嫁ぐんだわ。そうやって家の飾りのように生きていって……わたし、いいのかな」
その目からはいつしか涙が伝っていた。ぼくは慌てて手を拭いて、そよちゃんの隣へ行く。真っ白な肌が、きれいな瞼が赤くなってしまう。それを止めてあげたかった。
「ぼくはよく分からないけれど……目の前にいるそよちゃんはちゃんと生きていると思うよ」
本当は涙を拭ってあげたかったけれど、手が染料に染まっている。汚してしまうかもしれないのが怖くて、ぼくはただ隣に座った。
すると茣蓙についた手にそよちゃんのが重なった。慌てて引っ込めようとしても、それが掴まってしまう。
「さっきも思ったの。伊助くんの手はきれいね」
「何を言ってるの。そよちゃんの手の方が何倍もきれいだよ」
日に焼けて、指先は染料に染まったぼくの手と、真っ白で細い彼女の手。どちらがきれいかなんて比べなくても分かりきっていた。
「ううん。しっかり働いていて生きている……そんなきれいな手」
にっこり、と笑顔がそこにあったものだから心臓が飛び出してしまうんじゃないかというくらい跳ねた。
「わたしも商家の子に生まれたかったな」
「そうしたら商家のお嫁さんになったらいいじゃないか」
例えばしんべヱのような境の大貿易商の家とか。あんなに大きな家ならそよちゃんのお父様もお許し下さるだろう。
そう言おうと思ったのだけれどそよちゃんの手がきゅうとぼくのを強く握ったから言葉は止まってしまった。
「じゃあ、伊助くん。絶対にわたしを迎えに来てね。約束よ」
「え、ええ!?」
「だって伊助くんも商家の子でしょう?」
きらきらと輝く目に言葉が詰まる。
確かにぼくの家は染物屋で商いをしている。それでもこんなに小さな商家が如月家のような武家の子をお嫁にもらえるはずがない。
「きみのお父様が聞いたら泣いちゃうと思うよ」
「じゃあ、お父様が泣く前に攫いにきてね」
「冗談でしょう?」
「あら、本気よ」
そよちゃんはくすくすといたずらっぽく笑んだ。一つ上の少し意地悪な先輩の冗談みたいに流せないのがまたたちが悪い話だった。
「だって、伊助くんは忍者のたまごだものね」
「なな、なんでそれを!」
「うちに時々いらっしゃるの。実習でね」
瞬間、委員会でお世話になっている先輩が思い浮かんだ。ひと月前にぼくの家の近くを案内してくれと頼まれた。あれは実習の下調べだったのだ。
「わたし祝言は白無垢でなくていいの。伊助くんが染めた反物で小袖を仕立てたいな」
そよちゃんは相変わらずぼくの手を握ったままで上機嫌に話している。
ああ、なんてことだろう。
「そよちゃんには赤い着物が似合うと思うな」
気がついたらそんなことを言っていて、彼女の顔が赤く染まる。
いつもはすぐに冗談を返してくるのに、そんな黙られてしまったら急に現実味が帯びてきてしまった。同じ火薬委員会の池田三郎次先輩なら嘘だよ、なんて軽口を叩けるのだろうか。
そんなこと言えるはずない。そうだったらいいな、なんて本気で思ってしまった自分がいるのだから。
「……ありがとう」
本当に小さく聞こえて、そよちゃんは立ち上がった。
もう帰らなくちゃ、そう言う彼女の顔は首まで真っ赤になっていた。
いつもやんちゃで、明るいそよちゃんがこんな顔をするなんて。ぼくの心拍は早く鳴っていく一方だ。
「ぼく、忍術の勉強も染物の勉強も頑張るから!」
聞こえているかわからない言葉で彼女を見送る。
長い髪のそこから覗く耳は真っ赤で。そう、やっぱりそよちゃんは鮮やかな赤が似合うんだ。
ちらり、と袖から見えた指先は少しだけ藍色に汚れていた。ぼくの心配通り、染料が移ってしまってしまったようだった。本当は彼女を引き留めて、きれいにしてから帰さないといけないのにぼくはそれをぼうっと見ていた。
あの綺麗な手が、指先が藍色に染まるのも悪くない。秋空の下、そんなことを思いながら。
あの子はやんちゃ、きれいな手
お願いです
今日という日を忘れないで
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