ちかちか、と
算盤をはじく度に、ちかと世が瞬く気がした。
たくさんの数字に囲まれて、わたしは日々を過ごしている。
下に引かれた井草で出来た茣蓙の匂いと、文机の木の香り。紙に筆を滑らせて、わたしの世界はまた瞬く。
ここは街の外れ、小さな学び舎。如月塾というのは祖父が立てた建屋だった。
今では父がここの教師で、物心ついた時からわたしもここで勉強している。
一番好きなのは算術だが、いつかいろんなことを学び父のように教鞭を取る。それがわたしの大きな夢だった。
今日は塾の授業がなく、わたしはひとり一番前の席で問題を解いていた。
父にねだって作ってもらったこれはいささか難しい。それでもひとつ、またひとつ解が紙を汚すたびに妙な興奮を覚えるのだった。
「よう、そよ!」
「ひ、ひゃあっ?」
耳が痛くなるくらいの沈黙の中で、スタンと思い切り戸が開くものだからわたしの口からは間抜けな声が出て行く。
振りかえるとそこには赤茶色の髪を揺らして、男の子がひとり手を振っていた。
「伝七くん、こんにちは」
彼はわたしの数少ない友だちのひとりで、幼馴染の黒門伝七くんだ。
今は忍術学園というところに通っていて会うことも少なくなったけど、忘れたころにひょっこりと現れる不思議な男の子だった。
伝七くんは背中に背負っていた荷袋を解きながらわたしの隣まで来た。
「今日は授業ないのか?」
「うん、父さまが今日は別の塾へ臨時で行っていて……」
わたしは解いていた問題用紙を脇に寄せる。座った伝七くんは慣れたように頬杖を付いた。
「伝七くんは授業ないの?」
「今日は休校日なんだ。昨日まで予算会議で、大変でさあ。同室の左吉なんかまだ後片付けやってて。そうだ!その予算会議でさ……」
伝七くんは嬉しそうに学園でのことを話してくれた。普段家からここへきて勉強しかしていないわたしにとって、たまにしか会えない彼の話は全てが新鮮だった。
楽しい話に夢中になっていると、伝七くんははたと話すのをやめてしまう。
「そうだ!予算会議の話をしにここに来たわけじゃなかった!」
そう言いながら文机に墨や筆、紙を広げ始める。
全てが出そろって、筆に墨を付けた伝七くんは嬉しそうに言うのだった。
「そよ、今日も勝負だ!」
「え、ええ……今日もやるの?」
わたしの言葉に伝七くんは大きく頷く。
そして荷袋から二枚、紙を抜き取った。
勝負、というのは算術の問題用紙の事だった。どちらが早く、そして正確に問題が解けるかを競うのだ。
伝七くんはたまにやって来ては算術を競いたがった。競う為に勉強をしている訳じゃないんだけどな。正直やりたくないなあ、と困っていると、そんなこともお構いなく伝七くんは一枚の問題用紙を机に置いた。
「今日は先輩に問題を作っていただいたんだ!な、いいだろう?やろうよ!」
目の前に置かれてしまえば自然とそれが目に入る。並ぶ数式たちにわたしの心は躍った。
問題を解きたいと言う欲には勝てなかった。小さく頷くと伝七くんは嬉しそうに笑った。
「よおし、行くぞ。……よーい、どん!」
彼の合図でわたしは問題を解き始める。問題は数が多く、なかなか解きごたえがありそうだった。
どこになにを組み合わせれば答えが出るのか、それを考えている時間はとても幸せだ。
女子なのに勉強なんて、と言われたこともあったけれど、普通の女の子がかんざしや、きれいな帯を見て喜ぶと同じようにわたしは数式が好きだった。
がらんとした部屋の中で、ただ筆が紙を滑る音がする。
呼吸も忘れてしまうほどに夢中になった。しばらくして小さく息を吸うと脇へ筆を置いた。
「で、できた!」
「やっぱり解くの早いなあ……」
ふう、と伝七くんの吐く息の音が聞こえる。横を向けば、彼は最後の問題を解いている最中のようだった。
はらり、と前髪が下へ垂れている。問題を見つめる真剣な眼差しをわたしはじいと見ていた。
そして少しだけ目を細めると、右手に握られた筆が最後のひと文字を書き終える。
すると、伝七くんはわたしの方へそれを差し出した。
「答えあわせは交換してやろう。はい、これに答え書いてあるから」
渡された問題用紙を受け取って、わたしたちは答えあわせをしていった。
問題は全部で二十五問。伝七くんはひとつも間違えず全問正解だった。
「伝七くん!全問正解だよ!すごいすごい」
自分の事のように嬉しくなって手を叩く。すると、彼の悔しそうな声が聞こえてきた。
「くっそー!また負けたー!」
「え、負け?なんで?」
伝七くんが眉根を寄せる横でわたしは何度もまばたきをする。
するとわたしが解いた問題用紙が返ってきた。すべての回答に丸印がついている。
「そよの方が解き終わるのが早かった!だから僕の負け!」
肘をついて頬を抑える彼にわたしは何と言っていいのかわからなくなる。
丸印がたくさんの問題用紙を見てそれからぽつりと言った。
「伝七くん、もう勝負するのやめようよ……」
「どうして?」
頬杖をついたまま聞いてくる伝七くんにわたしは口ごもる。
いままで何度も言おうとして来たけど、なんだか怖くていつもやめてしまっていた。それでも今日は勇気を持っていうんだ、とわたしは姿勢を正す。
「わたし、ここの先生になるのが夢で、伝七くんを負かせるために算術の勉強してるわけじゃないから……だから、その……勝負とか、したくない、の……」
射るような丸い目に怖気づいて最後の方はもごもごと早口になってしまった。
「知ってるよ。だから勝負するんじゃないか」
「え、ええ?」
返ってきた言葉にぽかんと口を開けてしまう。会話がちぐはぐで、まるで成立していない。
「伝七くん、わたしの話聞いてた?」
聞き返せば、馬鹿にするなよ、と返ってくる。それを謝れば伝七くんは姿勢を正した。
わたしの正面に座り直して、こちらをじっと見ている。あまりに真剣な顔付きだからわたしも座り直して伝七くんをまっすぐ見た。
「そよが言ったんだろう。父さまみたいな人と結婚したいって」
「へ、へえ?」
確かにそんなことを言った気がする。父さまみたいに勉強が出来て、教えるのも上手で、算術が好きな人のお嫁さんになりたい、と。
「言ったかもしれないけれど……」
それがなんの関係あるの、と聞く前に伝七くんの言葉が遮ってしまった。
「だから、僕はそよより算術が得意にならなきゃいけないの」
伝七くんの目にはわたしが映っている。細かく息を吸うと彼の口が動いた。
「だからその時は僕を好いてください」
ちかり、視界が瞬いた。
「そよの父さまにも算術で負けてるようじゃ嫁にやらないって言われたしね」
「え、あ……ええと……どういうことですか?」
「ああ、もう!算術のこと以外は鈍感なんだから」
白く薄ぼんやりした中に伝七くんがはっきりと見える。算術の難しい問題を解き終わった時のように、世が瞬いた。
「僕はそよが好き。きみに格好良いって思われたい。だから算術で勝ちたい。……これでもわかってくれない?」
頬に、鼻先に、血が上っていくのを感じる。心臓が早鐘を打って壊れてしまいそうだった。
「わ、わかります……」
小さく返事をすると、伝七くんの口が弧を描く。
またちかちかと視界が瞬いている。自分はどうしてしまったのかと熱くなった頬を触った。
「じゃあ、また今度勝負してね」
差し出された小指をぼうっとした頭で絡ませる。
伝七くんはあっという間に荷物をまとめて出て行ってしまった。
この半刻程のことは夢だったのではないか、と思ってしまう。文机に置かれた問題用紙を見れば、確かにさっきまで伝七くんがいたことが分かるのだった。
丁寧に作られた問題用紙をわたしはもう一度じっくりと見る。力強く付けられた丸印にどうしようもなく心を揺らされた。
伝七くんは悔しがりで努力家だから、きっとすぐにわたしに勝ってしまう。どうしたらわたしも彼のように悔しがるのだろうか。
喜んでいる自分が想像できて、わたしは頭を振った。
そして静かに人差し指で伝七くんの付けた丸印をそっとなぞるのだった。
ちかちか、と。
きみがいれば世が瞬く
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