きみがすき。ほんとうにすき。
歩幅は広くとって、足音は最小限に。
僕は廊下の先を急ぐ。午後の授業が終わってすぐに同じ学級委員長委員会である一年は組の黒木庄左エ門が訪ねて来た。
「今日、一年は組は補習なんだ。悪いんだけど、委員会室の準備をお願い」
両手を合わせる庄左エ門に二つ返事で引き受けた僕は、返事もそこそこに廊下を急いでいた。
廊下は走らず、しかし素早く。
先輩方は同じ時間に授業を終えると仰っていた。到着される前に準備をしなくては。
精一杯の早歩きの後に委員会室の扉に手を掛けようとした時だった。
「っうわ! びっくりしたー」
「お、尾浜勘衛門先輩!」
飛び出しそうになった心臓を着物の上から抑える。目の前には委員会の先輩である五年い組の尾浜勘衛門先輩がいた。
「す、すいません。まだ準備が出来ていなくて……」
挨拶より先に謝罪の言葉が出る。いつも五年生の先輩方は僕たち一年生より遅れていらっしゃるから、まさかここで鉢合わせをするとは思っていなかったのだ。
遅れたことを咎められるだろうか、恐る恐る見上げれば尾浜先輩はいつも通りにこにこと笑っていた。
「彦四郎は遅れちゃいないよ。今日は伝えることがあって早く来たんだ」
「そうでしたか」
胸を撫で下ろしたとき、先輩が荷物袋を背負っているのに気が付いた。
「お出かけですか?」
「そう、急に明日の演習の下見をしなきゃいけなくってね。五年生は日暮れまで帰れなさそうなんだ。だから今日は委員会中止。庄左エ門には三郎が伝えに言ったよ」
「そうでしたか。お気を付けていってらっしゃい」
「ありがとう」
先輩が通れるように一歩外へ出る。尾浜先輩は特徴的な髪を揺らして涼しげに歩いて行かれた。
ふと、その足が止まって爪先が見える。
「そうだ、彦四郎」
「はい、なんでしょうか?」
手を招くので駆け寄ると、尾浜先輩は少しだけ屈んだ。
「実は学園長先生におつかいを頼まれていて、今日彦四郎が行ってくれないか?」
「どこへのおつかいでしょうか?」
聞けば先輩は耳に手を当てて内緒話をするように言う。
「街の羊羹屋さんなんだけど」
「え! いいんですか?」
「いいんですかって、俺がおつかいを頼んでるのに良いも悪いもないじゃないか。それともなんだ?羊羹屋さんに用事でもあるのかい?」
先輩の言葉にハッとして僕はぶんぶん首を振った。
「あ、あの! そうじゃなくて、その……。あ! おつかいならば早く行った方がいいですね!それでは、失礼します」
小さくお辞儀をして、先輩から逃げるように駆けだした。
その足で外出届を貰いに行って、長屋の部屋へ戻る。着替えもそこそこに荷物袋を持って急いで正門を出た。
一年い組は一年は組に比べると外出頻度が著しく低い。放課後は委員会以外、宿題や予習だし休日も同じく机に向かっていることが多い。恥ずかしい話、ひとりじゃほとんど忍術学園から外へ出ないのだ。そんな僕が唯一まっすぐに行ける場所があった。
そこはある栄えた街の、二番目に大きい通りにある羊羹屋さんだ。
「いらっしゃいまし」
小さな佇まいの店に、明るい笑顔が飛んでいた。
「こんにちは」
「あら、彦四郎くん!」
今日も華やかな笑顔をこちらに向けるのはここの看板娘であるそよちゃんだ。年頃はくのたまの子たちと同じでひとつ上、この店の主人の実娘である。
「また大川さんからのおつかいかしら?」
「うん、そうだよ」
ここの先代、つまりそよちゃんのおじいちゃんと学園長先生は昔忍仲間だったらしい。学園長先生は先代が羊羹屋を始めたころからここの羊羹の虜なのだとか。
だから学級委員長委員会は度々ここへつかいに出されるのだった。何度も同じ道を来れば自然と覚えてしまった。それにこのおつかいは僕自身も楽しみにしているのだ。それは勿論彼女がいるからだった。
「これお代。お願いします」
「はいはい、少し待っててね」
両手でお代を受け取ったそよちゃんは、店の奥に入っててきぱきと品を詰めはじめた。持参した風呂敷にあっという間に包んでしまう。
いくらも待たないうちに店先に出てきた彼女はそれを僕に差し出した。
「お待ちどうさま」
「ありがとう」
「ねえ、彦四郎くん。……ちょっと時間ある?」
一歩道に出て日の傾きを見た。時間はまだあるようだ。僕はひとつ頷くと、そよちゃんは嬉しそうに顔を綻ばせるのだった。
僕たちは人気の少ない土手の上に来ている。河川敷では近所のおばちゃんであろう女の人がひとり洗濯をしているだけだった。
そよちゃんは僕が店に行くとこうして土手に行こうと誘う。なんでも毎日店番ばかりで大人ばかり相手にしているから話す相手がいないんだそうだ。
僕も面白い話が出来る方ではない、と言ったことがあったが「聞いてくれるだけでいいの」と笑顔で言われれば断る理由もなくなって見当たらなかった。
「それでね、そのお客さんったらおかしいのよ……」
色々な話をしてみせるそよちゃんの目はきらきらと輝いていた。ぼくは話もそこそこに彼女の笑顔ばかり見てしまう。これがいわゆる恋心、というやつなのだろうか。よくわからない心の熱を持て余してただただ彼女を見つめた。
「そうだ、彦四郎くん。この間先輩の……えーっと、尾浜さんと鉢屋さんがいらっしゃったのよ」
「え? 先輩たちが?」
「そうなの!数日前に見えてね。なんでも同級生にうちの羊羹を食べさせたいって」
「へえ……そうなんだ」
確か前回おつかいに行ったのは十五日ほど前だ。その時は僕一人で行ったから先輩方は休みの時に来たと言うことになる。羊羹屋さんに行ったなんて委員会の時におっしゃっていなかった。先輩たちなら言いそうなものなのになあとぼんやり考えた。
「……彦四郎くん?」
ぼうっとしているのが伝わったのかそよちゃんがこちらを覗き込んだ。綺麗な丸い目がばちりと合う。
「あ、え! ごめん……そういえばそよちゃんって先輩方や庄左エ門ともこうして話をするの?」
僕の声色はどこか不安が滲んでいた。先輩方や庄左エ門は話が上手だし、話し相手にはきっと僕より適任だろう。自分は学級委員としても頼りにされてないし、話し相手としても自信が持てなかった。
「まさか!」
からりとした声に、驚いて瞬きをする。
「尾浜さんや鉢屋さんとお話なんてなんだかお兄さん過ぎて委縮しちゃうもの」
「じゃあ、庄左エ門は?」
「庄左エ門くんもないわ。おつかいに来たらすぐに帰ってしまうから」
「そっか、そっかあ」
無意識に自分の頬が緩む。つまり、それはそよちゃんの話を聞いているのは僕だけと言うことだ。ほんの少しの優劣感を感じている時だった。
「あ! もしかしてわたしが庄左エ門くんとお話してるって言ったらやきもち妬いてくれてた?」
「……な! ……そんなこと……」
かわいらしい笑顔で聞いてくるものだから、僕は動揺して何も返せなくなった。
もし庄左エ門や先輩方がそよちゃんと二人きりで話していたら……想像しただけでもどろりと不思議な感情があふれ出た。これがやきもちと言うのだろうか。
「ううん……そう、かも。少し嫌だな」
正直に伝えれば、彼女の目はぱっと見開かれる。その後にふにゃりと弧を描いた。
「嬉しい! わたし、彦四郎くんのこと大好きだもの」
「え、え! ええええ?」
思ってもみなかった言葉に頓狂な声をあげてしまう。
可愛くて愛嬌の良い羊羹屋の娘さん。会って、話す姿を見るだけでいいと思っていた。それがこんなにも嬉しい言葉をかけてくれる。
「そ、それは僕が言いたかったかな」
嬉しい癖に精一杯の照れ隠し。そっけない返事をしてしまう。
そうしたらぐいっと手を引かれた。彼女が両の手で僕の右手を握っている。あまりのことにドキドキとして心臓が破裂しそうだった。
「じゃあ、言って。彦四郎くん」
見つめられれば口がむずむずと震えた。自信のないテストの前でもこんなに緊張したことはない。
しばらくそよちゃんの顔を見つめることしかできなかった。
それでも、言わなくちゃ。僕は羊羹屋さんへのおつかいが待ち遠しくて、毎晩きみの笑顔ばかり思い出して眠れない日だってあるのだ。
言わなくちゃ、言わなくちゃ。喉がカラカラで、頭はぐらぐらで。言葉を出すのが難しい。
だけど僕は握られた右手に力を込めて、おなかの底から声を出すのだ。
きみがすき。ほんとうにすき。
もう一度、情けない僕に笑いかけて
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