午後10時、共同スペースには飯田くんと私の二人きり。何故なら私が二人きりで相談したいことがあると呼び出したからだ。夜分遅くにもかかわらず彼はすぐに来てくれて、俺で良ければ何でも言ってくれ、と爽やかな笑顔で言ってくれた。眩しくて直視できない素敵な笑顔の彼。実は私は彼に一方的に淡い想いを抱いていたりする。


「飯田くん、お願いがあるの……」

「む?何だ?」

「私に……走りを教えてください!」


事の始まりはみんなでいつも通り訓練をしていた時、壊滅的な運動神経を皆の前で晒してしまった際に敵を仮想して対峙していた百ちゃんから言われた言葉がきっかけだ。


『音無さん、折角音も無く動けるのですから、飯田さんに走りを教わってみてはどうです?彼はフォームが綺麗ですし、エンジンに頼らずともかなりのタイムを出せそうですわ。』


この事をそのまま伝えると、飯田くんは少し待っててくれ、と言ってびゅんっと部屋に戻ってびゅんっと帰ってきた。この速度、流石としか言いようがない。戻ってきた彼は青いファイルを持っていて、何かと聞くとすぐに広げて見せてくれた。中学の時の個性禁止の体力テストの記録で、彼は50m走において平均より2秒以上速かった。


「す、すごい……エンジン使ってないのに……」

「ああ、走りとはフォームや筋肉の使い方、呼吸の仕方、他にも様々なコツがあるんだ。」

「そっか、飯田くんは、個性だけに頼らずそういった色んな努力を積み重ねて今の走りをしているんだね……!」

「流石音無くん、理解が早くて助かるな。ふむ、俺で良ければ走りの特訓に付き合おう。」

「ありがとう!でも、私の運動神経で大丈夫かな……」


入学直後の個性把握テストの50メートル走で転んだ際、記録は圏外と書かれてしまった。あの後、まだ私の名前を知らなかった飯田くんから『圏外女子』と呼ばれてしまった時は羞恥のあまり涙して、彼を困らせてしまったのをよく覚えている。けれどそれ以上に印象的だったのは、『圏内女子になれるようこれから頑張ればいい』と言ってくれたことだ。私の運動神経を見てそんなことを言ってくれる人は今まで一人もいなかったからだ。それに彼のあの走りのかっこよさときたら。運動音痴を極めている私は彼のあまりのかっこよさに一目で心を奪われてしまったのだ。


入学してからのこの4ヶ月は座学、体育祭、職場体験に試験などついていくのがやっとのことばかりで、基礎トレーニングは順調だったものの肝心の動きに関してはどうも手も足も出せていなかった。そこで、百ちゃんの言葉もあって、憧れの飯田くんに直々に指導してもらえればと思って勇気を出してみた。けれど飯田くんからは中々言葉が返ってこない……やはり私の運動神経では絶望的なのだろうかと思ったけれど、そんなのは杞憂に過ぎなかった。


「……大丈夫も何も、伸び代しかないじゃないか!委員長として、いや、友人として必ず貢献してみせる!そして、共にキミだけの走りをモノにしよう!」

「い、飯田くん……!ありがとう!」





そして翌日から私と彼の特訓の日々は始まった。一緒にジョギング、インターバル、レペテーション……様々なメニューを教えてもらって、彼は一日も欠かさず、しかも一言も不満を漏らすことなく私に付き合ってくれた。他にも筋トレ後にお勧めの食事や、走る距離毎の呼吸法、ストライドやピッチなどの理論など、本当に一つ一つ丁寧に教えてくれた。その上、私が走るのが遅くて彼についていけなくて、申し訳ないから一人でも大丈夫だと申し出ても、走りの練習は必殺技の考案にも繋がるかもしれないからと必ず目の届く範囲で一緒に走ってくれた。





数日経ち、今日は仮免試験前日。飯田くんがA組のみんなに声をかけてくれて、明日のための軽い肩慣らしというていで50m走のタイムを計測することになった。みんな必殺技の開発のために沢山トレーニングを積んできてすごい記録を出すに違いない。彼等の中で私はどれだけ自分の力を披露できるのか。また転んでしまうのではないか、胸がドキドキして頭がクラクラしてきた。緊張のあまり少し呼吸が乱れてきて、はっはっと息をしていたら、後ろからばんっと両肩を掴まれた。わあ!と声をあげて振り向くと、憧れの彼が眩しい爽やかな笑顔を向けて立っていた。


「音無くん、大丈夫だ。伸び代しかないと言っただろう?落ち着いて練習通りにやればいい。クラス最速のこの俺が大丈夫と言っているんだ、自信を持ちたまえ。」

「飯田くん……うん!私、頑張る!」

「その意気だ!皆のスタートの邪魔にならないよう、俺はゴール付近で応援しているからな!」


そう言って飯田くんはゴール前へゆっくり走って行った。この近距離でもあんなに綺麗なフォームで移動する飯田くんを見て、あんな風に、練習通りに、と意気込むことができた。みんな次々に走り出して、新記録が出たとか、力が入り過ぎて逆に下がっちまったとか、ワイワイ楽しそうだ。そしてついに私の順番がやって来た。一緒に走るのは先日の訓練で対峙した百ちゃんだった。


「音無さん、飯田さんと毎日頑張っていましたわね。期待していますわ。私も負けないよう全力でお相手いたします!」

「うん!頑張るよ!」


スタート位置に着いて、下を向いて、ドキドキしながらスタートを待つ。ピストルが鳴るまでの時間が1分にも5分にも感じる。やばい、また緊張しそうだ。





パァン!!




スタート音だ!走れ!飯田くんのように、綺麗に!ストライドを、ピッチを、意識!





以前と違って風を切って走っている。百ちゃんは当然私よりも前に出ているけど、足元を見ると影がある。その距離は腕を伸ばせば届きそう。でも、腕は伸ばすんじゃない。力一杯振る!姿勢を保つ!





下を向いて、いろんなことを意識してがむしゃらに走っていたら前の方から憧れの彼の声が聞こえた。





「音無くーん!!キミならできる!!ここがゴールだー!!飛び込んでこーい!!」


「っ………!飯田くーん!!」


「うおっ!!」



ドサッ!!





本当にゴールの向こうにいた彼に向かって飛び込んでしまった。気になるタイムは……


「……うおおお!すげーぜ音無!8秒ジャストだ!」


切島くんの大きな声が響いて、みんながワァッと駆け寄ってきてくれた。すごいぞとみんなが褒めてくれて、あの爆豪くんですらやるじゃねェかと言ってくれたほどの快挙を成し遂げたのだ。嬉しさのあまり、私は自分の下敷きになっている飯田くんに思い切り抱きついてしまった。


「すごいすごいすごい!飯田くんのおかげだよ!見ててくれた!?」

「ああ!ここからずっと見ていたぞ!素晴らしいキミだけの走りだった!」

「飯田くん!!」

「音無くん!!」


私達はみんなが見ているのも忘れて、感動のあまり地面に寝そべったまま熱い抱擁を交わしてしまった。そして切島くんの言葉でお互いハッとした。


「くっ……お前ら、熱いじゃねェか!」

「……きゃあああ!ご、ごごご、ごめんなさいっ!」

「い、いや、ぼ、ぼぼ、僕の方こそすまない!!って、キ、キキ、キミ達、なんだその顔は!やめたまえ!」

「おっ、俺じゃなくて僕っつったな、お坊ちゃんよォ〜!」

「破廉恥だぞ!ってか?」

「か、からかうのはよしたまえ!」


私が飯田くんに抱きついてしまったからか、周りの多くの人がニヤニヤしながら私達を見ていて、瀬呂くん、上鳴くんなんか彼を揶揄い始めてしまった。まるで以前転んだ時のような羞恥心でいっぱいになってしまった私は、動けなかったあの日と違って、彼から教わった自分だけの走りでその場を後にしてしまった。


「い、いやあああ!ごめんなさい〜!」

「あっ!音無くん!待ちたまえ!」





自分だけの走りで





「音無さん、さっきの計測で今の走りができていたら……ひょっとして八百万さんよりも……」

「さっきの勝負であの走りを出されていたらと思うと……私もまだまだ未熟ですわ。」

「うおおお!音無くん、待ってくれー!次の計測係はキミだぞ!」

「飯田……ブレねえな。」





back
top