「み、見えない……」
そう呟いてぴょんっと飛び上がった時、突然誰かの手がわたしの視界を横切った。咄嗟にその手が指し示す方向に目をやると、3年F組の文字…………あった。わたしの名前。芥子香 蘭。確かにそう印字されている。次に確認することはただ一つ。柳生比呂士、柳生、やぎゅう、や……やなぎ……柳……
確認できた柳の字は一つだけ。柳生、ではなく、柳。そう、柳 蓮二くんの名前だ。ああ、わたし、柳生くんと同じクラスになれなかったんだ……と、がっくりと肩を落としたのはほんの一瞬で。とんっと肩に手を置かれて、振り向いたら、頬にぷすりと指がささった。そこにはニコニコ笑っている私の親友、佐藤 莉絵がいた。引っ込み思案のわたしとは正反対の、明るく元気でとても可愛い彼女は幼稚園の頃からの幼馴染でもある。頬から外れた指の先をじいっと見つめると、どうやら彼女もF組であることがわかった。その瞬間、やったあ!と万歳をしたために肩が上がったというわけだ。しかし、万歳をしたわたしの指先は近くにいた男子生徒の帽子に当たってしまい、帽子はそのまま地面へ落ちてしまった。この帽子……!
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「……構わん。」
「あ、あの……これ……帽子……」
「……礼を言う。」
あの黒い帽子を愛用している男の子は、真田弦一郎くん。確か同じ小学校出身だったはずの彼はこの立海大附属中男子テニス部副部長らしい。部長の幸村くんはとても優しいし、柳くんは賢くて穏やかで、柳生くんはとっても親切で紳士的で……他にもテニス部の人は沢山いて、みんなみんな有名人。だけど、真田くんだけは違う意味で有名な人だ。詳しくは知らないけれど……とぼんやりしていたのも束の間。急いで拾った帽子はぱしっと奪い取られて、彼はわたしと目も合わさずに走り去って行ってしまったのだ。正直、彼が同じクラスじゃなくてホッとしたのが本音だ。
「蘭!ちょっと、聞いてる!?」
「きゃあ!ご、ごめんね、何?」
「だーかーらぁ、ほら、A組だって!」
「えっ?」
「柳生!」
「……本当!?どこ!?」
ぼんやりと考え込んでいたところを親友の一声で現実に引き戻された。そうだ、柳生くんのクラスを特定しなきゃ!人混みを分けてA組のクラスメイトが印字してある紙をじぃっと見つめた。柳生……柳生……あった!柳生くんは、A組、なのか……
「はぁ……離れちゃった……」
「まぁ仕方ないわよ。で、どうすんの?昨日言ってたアレは。」
「う……同じクラスになって渡す計画だったから……」
そう、わたしがこのクラス替えにこんなに必死になっていた理由、それは言うまでもなく柳生くんに恋をしているからだ。1年次も2年次も同じクラスだった柳生くん。鈍間で鈍臭いわたしにいつもいつも親切に接してくれる彼に恋に落ちてしまうまでそう時間はかからなかった。長らく温めてきたこの想いを、3年次も同じクラスになれればこれは運命なのだと勢いづけて告白しよう、と思ってラブレターを書いてきたのだけれど……
「運命じゃなかったのかなぁ……はぁ……」
「諦めんなって!クラスが別でも学校は同じよ!あの人優しいし、クラスが替わったくらいで他人のフリなんてしないって!」
「でも……」
「芥子香さん、佐藤さん、おはようございます。」
「……きゃあっ!や、や、や、柳生くんっ!お、お、お、おはようっ!」
「柳生!おはよう!」
ちょうど莉絵ちゃんと彼の話をしていたところに本人が現れたもんだから、飛び上がってしまった上にしどろもどろになってしまった。咄嗟に莉絵ちゃんの後ろに隠れて、失礼だったかな、とちらちら彼を見上げたら、いつも通り、爽やかな笑顔を見せてくれた。
「おや、驚かせてしまいましたか。失礼しました。」
「う、ううん!わたしこそ、ごめんなさい……」
「私はA組でしたが、お二人はどちらに?」
「うちらはF組だよ、テニス部なら柳と同じ!」
「そうですか……クラスは替わってしまいましたが、これからもよろしくお願いしますね。では、失礼します。」
柳生くんはぺこりと頭を下げるとすぐに校舎の中へ入って行った。ああ、なんて紳士的で優しい……クラスが替わってもやはり柳生くんは柳生くんだ。まぁそんなことは当たり前なのだけれど。早朝から彼とお話できた喜びを噛み締めてぼんやりしていたら、莉絵ちゃんから腕をぐいぐいと引っ張られていて、気付けばF組の教室に到着していた。
F組の担任は昨年の担任と同じ先生だった。今日は午前中で全ての予定が終わったから、わたしは莉絵ちゃんと二人で部活動の自主練に向かうことにした。ちなみに莉絵ちゃんは女子バスケットボール部の部長で、わたしは女子バスケットボール部のマネージャーだ。
体育館には誰もいなくて、莉絵ちゃんがボールをつく音やジャンプや走る時の音が響いていた。わたしはというと、鞄の中のラブレターの端をギュッと握ってぼんやりしていた。柳生くん……A組で誰か好きな女の子ができちゃったらどうしよう……いや、逆に他の女の子が彼のことを好きになっちゃったら……と考えこんでいると、莉絵ちゃんが休憩にやってきたため、さっとスポーツドリンクを差し出した。
「ありがと!やっぱ蘭は気が利くねー!」
「マネージャーだもん!当然!」
「へー……鞄の中見つめてぼーっとしてたのに?」
「……そ、そ、そ、それは……」
動揺したあまり、咄嗟にラブレターを鞄から取り出してしまった。莉絵ちゃんはニヤリと悪戯っぽく笑うと、私の隣に座ってじいっと私の顔を覗き込んできた。
「柳生の下駄箱にでも入れてきたら?」
「えっ?」
「下駄箱にラブレターなんて古臭いってかベタだけどさ、柳生ならバカにしないでちゃんと読んでくれると思うよ。」
「……で、でも……」
「じゃあ直接渡す?」
「そ、そ、それは、はは、恥ずかしい……」
この押し問答を繰り返して、結局わたしは柳生くんの下駄箱にラブレターを入れに行くことになった。下駄箱にはまだちらほら靴が残っていて、A組はほぼ全員の靴が入っていた。みんな部活が忙しいのだろう。さて、ラブレターの最後には『もし、良いお返事がもらえるのなら、明日の朝、7時きっかりに自転車置き場近くのチューリップの花壇の所へ来てください。』と添えてある。つまり、7時に彼が来なければ告白失敗ということになる。全ては明日の朝、明日の朝になれば、私の恋の行方が決まるのだ。
というわけで。朝の6時50分。あの角を曲がればチューリップの花壇がある。あと10分で、わたしの恋の行方が決まるのだ。この恋は続くのか、それとも終わりを迎えるのか。わからない。それを決めるのはわたしじゃない。それは、柳生くんが決めることだ……角を曲がる前に立ち止まって、すーはーすーはーと深呼吸。来てくれますように!と願って一歩踏み出したら、そこには黒い帽子を被ったとても大きな男の子が……なんと、立海大附属中学校男子テニス部副部長の真田弦一郎くんが仁王立ちで待ち構えていた。
「ほう、10分前行動とは……感心だな。」
「さっ……!?さ、さ、真田くん……?あ、お、お、おはよう、ございます……」
「うむ、おはよう。……どうした、こっちに来んか。」
「えっ?あ、は、はい……」
「……やはり、奥ゆかしいな。」
「…………?」
そろりそろりと小さく歩み寄ると、真田くんは帽子を深く被り少しそっぽを向いてぽつりと何かを呟いた。でも、どうして真田くんがここへ?そう尋ねるために口を開こうとしたら、なんと思いもよらない言葉が降ってきた。
「芥子香 蘭、お前の恋文、しかと受け取った。」
「……えっ?」
「……初恋など……よもや実るまいと思っていた。」
「えっ、えっ?」
「芥子香、俺もお前を好いている。」
「……えっ、ええぇぇっ!?」
「そんなに驚くことか?いや、無理もないな、この恋文を読んだ時はこの俺とて気絶しかけた程だ……」
うんうんと頷く真田くんの足元を見てハッと気がついた。彼が履いている靴はわたしが昨日ラブレターを入れた下駄箱に入っていた靴だ…………!?も、もしかして、もしかして……!!
「さ、さ、真田くん……」
「何だ?」
「あ、あの、下駄箱の……」
「うむ、俺の靴の下にこの手紙が置いてあった。お前が置いたのだろう?」
「あ、あ……は、はい……」
「うむ。この靴は俺の靴だ。安心しろ、間違っていない。」
ごめんなさい、間違えました。そんなこと言う勇気がわたしにあるはずもなく、結局誤解を解くことはできないまま、わたしと真田くんのとびきり甘くて切ない恋物語が幕をあけてしまったのだった。
恋文事件
「莉絵ちゃあ〜ん!!」
「あっ、蘭!随分早かったね!もしかして、柳生来てくれたの?」
「ううん……違うの、来たのは真田くんだったの……」
「…………はぁ!?さっ、真田って真田弦一郎!?く、詳しく聞かせて!!」
「う、う、うん、あのね…………」