自覚した恋心

「芥子香!芥子香 蘭!聞こえてないのか!?」

「…………」

「ちょっと、蘭!呼ばれてるよ!」

「えっ……あっ、す、すみません……」

「芥子香のぼんやりについて今更言及はせんが……大丈夫か?いつもよりひどいぞ?」

「は、はい、大丈夫、です……」


わたしのぼんやりは今に始まったことではないけれど今日は特にひどいようだ。休み時間に友達から心配されるのはもちろん、授業中でさえも先生から心配される始末だった。


「蘭ちゃん、先月末の試合の後からぼんやりがひどくなってるけど頭打った影響とか?大丈夫?」

「あ、う、うん、大丈夫だよ!」

「蘭も色々悩んでんのよー、ほら、夏休みの予定とかでね!」

「莉絵ちゃん、気が早いよ……」


そう、実はあの試合からはもう1ヶ月が経とうとしているのだ。ゴールデンウィークは宿題の多さに頭を抱えて、それからあっという間に中間テストが始まり、6月上旬現在、3年生はどの運動部も引退前の地区大会やら関東大会やらで大忙し。無論、バスケ部の私も、テニス部の彼も。


「夏休み、かぁ……」

「蘭ちゃん、どうしたの?」

「…………はぁ。」

「……またぼんやりだ。本当に大丈夫なのかな?」

「あー、大丈夫大丈夫、うら若き乙女の悩みだよ、きっと。」


そっか、この前中間テストが終わったもの。もう真田くんとお付き合いを始めて2ヶ月が経ったんだ。あの恋文事件から2ヶ月。あの日のわたしは柳生くんのことが好きだった。1年生の頃からずっと彼に片思いをしていたのだ。早く本当のことを真田くんに告げなければならないと焦っていたけれど、周りからの助言もあって悪い言い方をするとズルズルとお付き合いを続けてしまっていた。


だけど、わたしは自覚してしまったのだ。中学テニス界では『皇帝』と称される、あの真田弦一郎に、恋をしてしまったのだ。しかし、柳生くんへの気持ちが消えてしまったのかと聞かれると頷くことができないのがわたしの嫌なところだ。優柔不断で最低だ。真田くんにも柳生くんにも大変失礼だと思う。


もやもやしながらぼんやり1日を過ごしていたらあっという間に放課後を迎えていた。





「芥子香!芥子香、聞こえていないのか?」

「……さっ、さささっ、真田くんっ!?」

「例の試合から1ヶ月が経つが……体調に変化はないか?頭は痛まないか?」

「う、う、うん、だ、大丈夫、ちょっと、考え事してたの。」

「そうか……」


バスケ部の今日の活動はお休み、テニス部はテニスコートに業者整備が入るからと筋力トレーニングだけ行うとのことで、真田くんから一緒に帰らないかと誘われていた。下駄箱で待ち合わせの予定で、保健委員のわたしは委員会を終えた後に保健室の掃除をしてから向かうつもりだったのだけれど、どうやらテニス部の活動は早くに終わってしまったようで、わざわざわたしを迎えに来てくれたようだった。一緒に学校を出て、ゆっくり歩きながらテストの話や授業の話をしていたのだけれど、突然真田くんが大きな咳払いをしてから別の話題を切り出した。


「芥子香、来週の土曜日の予定はどうなっている?」

「えっ?えっと……多分何もない、はず。」

「そうか……その、海の生き物に興味はあるか?」

「海の生き物?うん、動物は好きだよ。」

「では、す、水族館に、行かないか?」


前回素敵なお花を見に行って以来、なかなかタイミングが合わなくて遊びに行けなかった。久しぶりの二人きりのデートだ。行かないという選択肢はないだろう。だってわたしは真田くんのことが好きなのだから。


「うん、行きたいな。」

「そ、そうか!では9時に駅前のバス停に集合でいいか?水族館直通のバス乗り場がある。」

「バスで行けるの?」

「うむ……バスは苦手か?」

「ううん、前に友達と行った時は電車だったから……バスもあるんだなぁって。」

「……じ、実はだな、バスで行く者だけが車内で限定のうさいぬを購入できるらしいのだ。」

「えっ!?限定のうさいぬ!?絶対欲しい!絶対バスで行こう!」


うさいぬと聞いたわたしは思わず大きな声を出してしまった。真田くんは少し驚いた様子で目をまん丸にしていた。恥ずかしくなったわたしは咄嗟に一歩後ろに下がろうとしたのだけれど、なんとわたしの思いとは裏腹に身体は前に引っ張られて、気づけば真田くんの腕の中。わたしは今、彼に、抱きしめられている。


「さっ、ささささなっ……!?」

「間に合ったか……危うく水溜りに足を突っ込むところだったぞ。大丈夫か?」

「えっ!?あ、あっ、う、うんっ、大丈夫!」

「うむ、良かった……」

「ありがとう……」

「……ぐおおおおっ!!」

「きゃあああっ!!」


真田くんはとっても良い匂いがする……温かくて力強くて、とても中学生とは思えない逞しい身体をしていて……なんて変態じみたことを考えていたら、突然真田くんが大きな声を出して、それから大慌てでわたしからぱっと離れてしまった。


「す、すまない!嫁入り前の女子を抱きしめるなど……ふ、不埒な……けしからん!芥子香、俺を殴れ!」

「な、殴らないよ!?」

「くっ……す、すまない、御両親になんと詫びれば……」

「大丈夫だよ、だって、その、お、お付き合い、してるんだし……」

「あ、ああ、そ、そうか、う、うむ、そういうものか……」


なんだかしーんとして気まずい空気になってしまった。どうしようかと悩んでいると、真田くんが大きな掌を差し出してきた。


「以前……自転車の時もそうだったが……その、お前は少々注意力に欠けるようだ。決してそれが悪いというわけではないのだが……」


どんどん語尾が小さくなっている。いつもびしばしとはっきりものを言う真田くんにしては珍しい。どうしたんだろうかと心配していると、またしても大きな声をあげてキッとわたしを見下ろしてきた。何か怒らせてしまったんだろうか。


「……ええい!そ、その、つまりだな!」

「は、はい……」

「手を、その、繋げば良いと思うのだ!俺が注意してお前を危険から守れば良いと!」

「えっ?手……?」

「い、嫌なら断れば良い!」

「い、嫌じゃないよ!全然!」

「む……!そ、そうか、では、行こう。」


差し出された手をそっと握るとぎゅうっと力強く、だけど、とても優しく握り返された。ものすごい手汗だ。多分、ものすごく緊張しているのだろう。彼も、わたしも。


手を繋いでいることがなんだかとても照れ臭くて、お互い緊張のあまりに何も話さないままわたしの家に到着してしまった。真田くんの大きな手がわたしの手から離れた時はなんだかとても寂しい気持ちになってしまった。もう間違いない。わたしは彼に恋をしているのだ。


「あ、あの、真田くん。」

「ん?なんだ?」

「えっと……あ、あの……」

「む……?」

「す、す、す……」


あなたが好きです、と言ってしまいたい。けど、事の顛末を全て話さないと気が済まなくて、だけどどう切り出せば良いかわからない。最初は間違いだった、なんて酷いことを伝えるべきなのだろうか、それとも黙って今の気持ちだけを伝えるべきなのだろうか。わからない、真田くんにとってどちらが良いのだろうか。一度、柳くんと莉絵ちゃんに相談すべきではないだろうか。


「す、す、すい、水族館、とっても楽しみです!」

「おお、そうか!俺もだ。楽しみにしているぞ。」

「う、うん、今日も、ありがとう!また、明日!」

「うむ、また明日。」


真田くんはくるりと向きを変えて早足で立ち去ってしまった。例の如く、疾きこと風の如し。わたしもくるりと向きを変えて、静かに家の中に入ったのだった。





自覚した恋心




ずっとずっと柳生くんのことが好きだった。誰にでも優しくて、頭も良くて、真面目な人だけどたまに知的な冗談を漏らすこともあって、どんな時も冷静で……彼が私の憧れなのは今でも変わらない。そんな彼のことが好きだった。そう、好き「だった」のだ。今、私が好きなのは、真田弦一郎くんなのだ。自覚した恋心を抑える術がわからないわたしは黙ってうさいぬのぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめることしかできなかったのだった。







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