「……あの青い屋根の家の犬は元気にしているだろうか。」
「うん、毎朝元気に……えっ!?な、なんで知ってるの!?」
なぜ、わたしの家のお向かいさんのペットのことを知っているのだろうか。なんで、と言ったところで、真田くんは当然だと言わんばかりに顔を顰めていた。
「……小学5年の頃、風邪で休んだ芥子香の家に学級委員の女子と共に配布物を届けに行ったことがある。」
「……えっ!?そ、そ、そうなの!?」
「覚えていないか?」
「ごめんね、わたし、お友達は女の子ばっかりだから、あんまり男子との関わりは覚えてなくて……」
「そうか、女子とはそういうものなのか。」
なるほど、だから真田くんはわたしの家を知っているというわけか。わたしの記憶力のなさについては彼も納得してくれた感じだった。しかしながら真田くんは同じ神奈川第一小学校だったっけ。もはやそこからだ。彼ほどインパクトの強い男子をどうして忘れようかと思うけれど、それでも忘れてしまうのがわたしという人間なのだ。うっかりさんにも程がある。
さて、既に家の前に到着して荷物を受け取ったにもかかわらず、真田くんは帰ろうとしない。わたしは彼に送ってくれたお礼を伝えて、彼が背を向けてから家に入ろうとしているのに。一体どうしたと言うのだろう。わたしが家に入るのを見届けてからじゃないと帰ってくれないのだろうか。
「あの、今日はありがとう。」
「……あ、あぁ、構わん。」
「えっと、それじゃあ、帰り道、気をつけて、ね。」
「……ま、待たんかあっ!!」
「はいっ!?」
くるりと彼に背を向けて、ドアに手をかけようとしたら大きな声で止められた。びっくりして勢いよく振り向いたら、昼休みに見た時のように顔を横に向けて口元と頬を大きな左手で隠していた。
「大声を出してすまない。その、あれだ。」
「あれ……?どれ……?」
「……たぷ……」
「たぷ?」
真田くんの口から意味不明な言葉が出るとは思えない。きっと何か真剣に思い出そうとしているのだ。わたしは一歩彼に近付いて、彼がぶつぶつ呟いている言葉を一生懸命拾った。
「……黒くて小さい……丸い団子状の……たぷ……いや、たぺ……」
「……タピオカ?」
「それだ!!芥子香、その、あれだ、たぴおか、とやらに興味はあるか?」
これは意外も意外、あの泣く子も黙る真田弦一郎がタピオカ……なんて言ったら失礼だけれど、そう思わずにはいられない。ちょっと面白いと思ってしまったのは置いておいて、彼の質問に答えることにした。
「タピオカ、美味しいよねぇ。よく莉絵ちゃんと飲みに行くよ。」
「ほう、佐藤と共に……」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「む、いや、その、なんだ。同じテニス部の丸井という男が言っていたのだ。女子はたぴおかを好むと……」
「そうなの?うーん、人によるんじゃないかなぁ……」
「お前はどうなんだ?」
「わたし?わたしはタピオカ好きだよ。」
「うむ、そうか。わかった。」
「えっ?あ、真田くん……?」
「やはり夕方からはまだ冷え込むな。風邪を引くなよ。では。」
真田くんは満足したのか、優しい言葉をかけてくれたと思ったら突然方向を変えて走って行ってしまった。一体なんだったのか。もしやタピオカを飲んでみたいのだろうか。そう思うとやはりちょっと面白い。なんてぼんやりしていたら、くしゅんっとくしゃみが出てしまった。彼の言う通り、夕方からだいぶ冷え込んできたようだ。家に入ってすぐに入浴を済ませ、温かいご飯を食べて宿題をした後はすぐに眠りについたのだった。
「蘭!おはよ!ねぇ、昨日真田と一緒に帰ったって本当!?」
「わぁっ!莉絵ちゃん、おはよう!うん、そうなの……なんで知ってるの?」
「さっきそこで2年の男子が桑原と丸井に話してるの聞いちゃったのよ!」
「……そっ、そうなの!?」
「あの真田弦一郎が女子と帰ってた、なんてすぐ噂になるでしょ……」
「うぅ……柳生くんにも知られちゃうかな……」
「間違いなくね……」
朝練で体育館に入った途端、莉絵ちゃんから真田くんの話をふられたのだけれど、まさかもう噂になりかけているのか。少し気が遠くなったような気がする。やっぱり早くお別れした方がいいのではなかろうか。何より柳生くんに勘違いされたくない。
「予定変更……やっぱりお別れのお話する……」
「できるの?」
「……でき、る。やる。うん。」
「じゃあまた昼休みに行く?」
「うん……あ、でも、柳生くんに見られちゃう……」
「芥子香!!」
「はいっ!?」
莉絵ちゃんとあれこれ作戦を練っていたところで、後ろから大声で名前を呼ばれた。この声、流石のわたしでももう覚えた。真田くんだ。びっくりして勢いよく振り返ったら、テニス部の黄色いジャージを羽織った真田くんが腕を組んで仁王立ちになっていた。
「……すまん、また大声を出してしまった。」
「う、ううん……何か用事?」
「うむ……その、人払いを……」
「私?うん、いいけど……真田、蘭に変なことしたら私許さないからね!」
「へ、変なこととは何だ!不謹慎な……芥子香、案ずるな。決してやましい事ではない。」
莉絵ちゃんは体育館の外に出てしまった。真田くんはとても深刻な面持ちだ。もしかして別れ話じゃなかろうか、なんて期待したのも束の間、むしろその逆の話題をふられてしまった。
「明日は土曜だが……その、何か予定はあるか?」
「明日?明日はね、午前中は体育館で部活でね、午後はお休みだよ。」
「そ、そうか。では、あれだ。その……たぴおかとやらはどこに行けばあるのだ?」
「えっ?タピオカ?えっと……あ、駅前のコーヒー屋さんのタピオカドリンクはとっても美味しかったよ。」
「うむ、わかった。よし……芥子香 蘭!!」
「は、はいっ!?」
「土曜日、午後3時……駅前にて待つ!!」
「……えっ?」
「3時だぞ!では失礼する!」
「えっ!?ちょ、ちょっと!あ……」
真田くんは帽子を深く被ると、早急に立ち去って行ってしまった。疾きこと風の如し、とはこのことか。どうしようかと困っていると莉絵ちゃんがだだっと駆け寄って来た。何話したの!?と聞かれて、今あったことをそのまま伝えると彼女はまたしても金魚のように口をぱくぱくさせたかと思えば、ぎえええっと大きな悲鳴をあげた。一体どうしたのだろう。
「さっ、さ、真田とデートじゃん!!」
「…………でっ、ででっ、でえと!?」
あれはデートお誘いだったのか。男の子からデートに誘われるなんて人生で初めてだ。わたしの初めてのデートの相手があの真田くんだなんて夢にも思わなかった。タピオカか……黒くて丸くてもちもち……食べる前は苦そうだと思っていたけれど、実際はもちもちで甘くて美味しいんだよねぇ……なんてぼんやりしていたら莉絵ちゃんが、そうだ!と声を上げた。
「……これってチャンスだよ!話してみてやっぱり合わないねとか言えばいいよ!」
「えっ?あ、そっか、うん、そう、だよね、うん。」
莉絵ちゃんの考えには大いに賛成だ。これはお別れのチャンスかもしれない。やっぱりこんなことを思うのは本当に失礼なことだとわかってはいるけれど、わたしの好きな人は柳生くんだもの。それに、あの真っ直ぐな真田くんを騙していることに胸が痛んで仕方ない。明日、デートをしてからやっぱり合わないねと告げてみよう。そう意気込んだところで、床に落ちているボールを手に取って勢いよく投げてみたら、ボールはスパッと綺麗な音を立ててリングをくぐったのだった。
でえとのお誘い
「やったあ!よーし!莉絵ちゃん、わたし、頑張る!」
「……あ、う、うん。」
「莉絵ちゃん?」
「いや、蘭ってやっぱりバスケ上手いよなぁって……マネージャーにしとくの、惜しかったよ。高校からでもやらないの?」
「うん、わたし、見てる方が好きだから。」
「そっかぁ……全く!勿体ないなぁ!」