穏やかな日常



猿夫くんが退院して1ヶ月とちょっとが経って、昨日はふたりで一緒に住むお家の内覧に行ってきた。先日、猿夫くんからいつか結婚しようねと言われて、その、所謂、婚約指輪、というやつを頂戴してしまった。まさかこんなものを自分が、しかも、人生で初めて恋をした男の子からもらえるなんて夢にも思っていなかった。彼の熱い眼差しや優しい言葉から、わたしとの将来を本気で、真剣に考えているんだということがひしひしと伝わってきた。だから、わたしもそれなりに考えなきゃ、と思いながら今日もひたすら筆を走らせている。


「統司さん、今日も筆が速いね〜。」

「本当!しかも上手いもんね〜、教職とって先生になればいいのに!」

「い、今からじゃ間に合わないよ……それに、わたしは人に教えるなんてとても……」

「そういえば、私、来月デザイン系の企業説明会行くんだけど、よかったら真ちゃんもどう?」

「デザイン……?」

「いいんじゃない?統司さん、こんなに絵上手いし、発想力もあるし!」

「そ、そうかな……うーん、じゃあ、一緒に行ってみようかな……」


みんなも将来について考え始めていることがわかって少しほっとした。説明会は来週、大学内で行われるらしいし、試しに参加してみようと思う。デザインといえば、最近、バイト先のチラシの製作を任された。猿夫くんの記憶を失っている間、学校の課題の合間にたくさん考え抜いて、先月末にようやく完成させたのだけれど、これがまた評判が良く中高生や子連れのママさんといったお客様がとても増えたと店長さんが大喜びしてたっけ。もしかしたらデザインはわたしに合っているのかもしれない……なんて思いながら歩いていると、いつの間にかバイト先のパン屋さんに到着していた。


「統司!お疲れ!」

「波間くん、お疲れ様!」

「今日も楽しそうだなー。何、彼氏とうまくいっちゃってる感じ?」

「えへへ、うまくいっちゃってる感じ!波間くんは?彼と仲良くやれてる?」

「ああ、統司のおかげだよ!あいつ、すっかり真面目になっちゃってさ、釈放された後坊主にしたって話したっけ?」

「えっ!?何それ、聞いてない!ぼ、坊主!?野球でも始めるのかな……」


波間くんとはこんな感じでかなりの仲良しになった。猿夫くんは少し不安そうにしているけれど、わたしが黙って右手を前に出せば顔を綻ばせてくれる。この薬指にある可愛い指輪が彼とわたしの愛の証だから。


バイトが終わる間際、お仕事を終えた猿夫くんがリュックを背負ってお迎えに来てくれた。あのリュックを背負っている日、つまり今日は彼がお泊まりしに来てくれる日で、後片付けを終えたわたしは店長さんに挨拶をしてお店を出た。外に出てからは誰もいないことを確認して、猿夫くんの大きくて温かい手をきゅっと握って、ふたりで一緒にわたしのお家へゆっくり歩いて帰った。





「ご馳走様でした。真、料理上手だよね。」

「レシピは師匠に教わってるから、上手くなってないと悲しいよ!」

「へぇ、砂藤に習ったんだね。」

「うん、高校生の時から、猿夫くんがいつもお昼に食べてる物とか聞いて、いつか、わたしの作ったご飯を食べてもらう時に喜んで欲しいなって……」

「そ、そっか……俺って幸せ者だな……」


猿夫くんはお顔も尻尾も真っ赤にしながらお皿を洗うのを手伝ってくれた。そのあとは順番にお風呂を済ませて、ふたりで一緒にふかふかのソファに座った。明日は日曜日だからどこかにお出かけする?なんて話していたら、水色のスマホから電話の音が。猿夫くんに後ろからぎゅっと抱きしめられながら、相手を確認したらお父さんからで。彼はパッとわたしから離れてバツが悪そうに身を縮めていた。


「もしもし?お父さん?」

「うん、真、元気にしてるかい?」

「うん!あのね、絵画のゼミが始まったんだけど毎日すごく楽しくて、それで……」


わたしはお父さんに毎日楽しく元気に過ごしていることをたくさん伝えた。お父さんはしっかり聞いてくれたんだけれど、でも、他にお話があるみたいで。


「……あっ、ごめんね、えっと、お父さんの用事は何?」

「おや、もっと話してくれていいのに……うん、実はね、来週、仕事の都合で東京に行かなきゃいけないんだけど、週末に真が空いていたら食事でもどうかなって。」

「えっ!行きたい!お父さんに会いたい!」

「はは、そう言ってもらえて嬉しいよ。それじゃ、詳しいことはまたメールするから。」

「うん!待ってる!」


お父さんとお話を終えたわたしはとっても嬉しい気持ちになりながら猿夫くんの方を見たのだけれど、彼はどこか落ち着かない様子で。きっと、わたしと彼の関係はお父さんには言えていないからだろう、といっても彼はプロヒーローだし、お付き合いしていると話してもお父さんなら笑って許してくれると思う。どうしたの?と聞いてみると、やっぱりお父さんに……と不安げに呟く彼。


「……会ってみる?」

「……えっ!?お、俺が!?真のお父さんに!?」

「いや?」

「い、嫌じゃないよ!い、いずれ、その、ご挨拶しなきゃでしょ……こ、心の準備が、その……」

「そっかあ。じゃあ、準備ができたらいつでも声かけてね。」

「……真は緊張しないの?」

「だってわたしのお父さんじゃない。」

「そ、それもそうか……」


おかしな猿夫くん、とクスクス笑ったら彼のお顔は火がついたようにぼっと真っ赤になってしまった、と同時に少し欠伸をしていたから、今日はもう休もうかなと思って、一緒に寝る準備を済ませて彼の手を引いてベッドに入った。電気を消して、ふたりで身を寄せ合って、ぎゅっと抱きしめ合っているととても幸せな気持ちになる。先月まで彼のことを忘れていたわたしは本当に勿体無い時間を過ごしていたなあと呆れてしまうほどに、わたしは彼に夢中で夢中で仕方ないのだ。


「すき……」

「俺も大好き……」

「何度忘れても、何度でもすきになるから……」

「俺もだよ……真しか、好きになれない……」


真っ暗だけど、きっと彼と目が合っているに違いない。ぐっと首を伸ばすと、彼も同じことを考えていたのだろう、お互いの唇が重なった。もうしばらくすれば彼との同棲が始まる。きっと毎日こんな風に甘い幸せな時間を過ごすことができるのだろうと思えば自然と口角は上がってしまうわけで。しかし真っ暗でもどうやら彼にはなんでもお見通しらしい。


「笑った顔、やっぱり可愛いね。」

「……見えてるの?」

「そんな気がしただけ。俺もそんな顔してるし。」

「そっかあ……えへへ、同じだね……」

「そうだね……」


もう一度、今度はおやすみのチューをして、むぎゅっと抱きしめ合ってふたりで一緒に眠りについた。どきどきして全然眠れないんじゃないかな、なんて考えていたけれど、逆にとても安心しながらすぐに眠りにつくことができたのだった。こんな穏やかな日常がこれからもずっと続くといいな……





穏やかな日常




「おはよう猿夫くん!朝だよ!」

「ん、おはよう。今日も可愛いね。」

「……そ、それ毎日言うの?」

「可愛くない日なんてある?」

「ま、毎日だよ!」

「そういうところも可愛いよ。」

「……一緒に住める自信ないよ。」








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