ラブホテルに行ってセックスをせずに帰ってきました、なんて誰が信じるだろうか。けれどこれは紛れもない真実で。まさかあんな序盤で躓くとは。しかしこればかりは誰が悪いわけでもない、仕方のないことなのだ。正直、したくないと言えば嘘になってしまうが、彼女が嫌ならばたとえ一生できなくても構わないとさえ思う。だって、彼女を愛しているから。
手を繋いで一緒に帰る道はなんとも心地が良い。別れることなく同じ家に入り、同じソファに座り、同じ空間で時間を過ごす。俺は至極贅沢な男に違いない。可愛い彼女をじいっと見つめていると、側にあったクッションを抱いて顔を隠して、恥ずかしいよ……なんて。こんなの可愛すぎてついつい手が伸びてしまう。
「急にごめん。あんまり可愛くてつい。」
「も、もう……あっ、あ、ちょ、ちょっと待ってて!」
「え?う、うん、どうぞ。」
真の鞄から振動音がして、彼女はサッと鞄からスマホを出し、画面を確認するとパタパタとリビングを出て行ってしまった。数分後着替えてから戻ってきた彼女は、ちょっと出かけてくる!と鞄を持って慌てて出て行ってしまった。家を出る間際に、夕飯までには帰るから!と叫んでいたから心配はいらないだろう。
帰ってきた真は少しぼんやりとしているようだった。どこに行っていたのかを尋ねると、波間くんと会っていたとのこと。波間くんといえば、昨日は上鳴と会っていたはずだ。その翌日に真を呼び出すなんて、やっぱりこの三人には何か共通の秘密があるに違いない。だが、どうしても彼女に嫌われたくない俺にそれを問いただす勇気などなくて。ふと時計を見上げると、そろそろ寝る時間になっていた。俺はいつものように真に声をかけたのだが。
「……猿夫くん、今日は自分のお部屋で寝ていい?」
「えっ?な、なんで?」
「ちょっと、ひとりになりたいの……だめ?」
こんなことを言われたのは初めてだ。昨日、あんなに愛し合ったのがまるで嘘のようだ。困ったような顔で俺の返事を待っている真は首を傾げてもう一度小さく、だめ?と呟いた。
「ううん、いいよ。おやすみ、また明日……」
「うん、おやすみなさい。また明日……」
真は俺の背に手を回してぎゅっと抱きついてきた。俺も小さな背に手を回して抱きしめて、学生の頃から変わらない、寝る前の習慣のおやすみのキスをした。
でも、やっぱり彼女のことが気になって眠れなくて。寝室を出て、リビングでお茶を飲むことにした。胸のあたりがもやもやして気持ちが悪い。一体、俺の知らないところで何が起こっているのだろうかと思考を巡らせていると、ふと、真はゆっくり眠れているだろうかと気になった。音を立てないように真の部屋へ行き、ゆっくりドアを開けたけれど、彼女の姿はない。尻尾の毛がざわっと逆立ち、俺は慌てて玄関へ向かった。
ない。彼女の靴が一足足りない。なんで、どうして。昨晩痛い思いをさせてしまったからだろうか、俺に愛想を尽かしてしまったのだろうか、それとも誰かに会いに行った?こんな時間に?誰に?俺に見つかってはまずいということだろうか。
急いで着替えて、何も持たずに家を飛び出した。この際こんな時間に出て行った理由について咎めるつもりはない。彼女が無事ならばそれでいい。ただ、それだけ。心配で心配で堪らなくて、俺は心当たりのある場所を探し回った。
あれから1時間は経っただろうか。真は見つからない。家に帰ってきたけれど彼女の靴はない。スマホを見ても連絡は入っていない。一体どこへ行ってしまったのか、と頭を抱えたところで玄関のドアが開く音がした。走って行くと上鳴と真が立っていた。
「真!良かった、探したんだよ……!」
「えっ?わたし、テーブルの上にお手紙置いてたよ?」
「えっ?」
「卵がないの思い出したから買ってくるって……あっ、あのね、上鳴くんもコンビニにいたから少し話し込んじゃって……遅くなってごめんなさい。スマホ、忘れて行ってて……」
「こんな夜遅くに……声かけてくれれば俺が……」
「尾白が疲れて寝てるかもーって気を遣っただけだろ?責めるなよなー。」
上鳴がへらりと笑って真の背を押した。その瞬間、俺の胸の辺りでぶわっと気持ちの悪いもやのようなものが広がって。
「痛っつ!」
「真に触らないでくれ。」
「ま、猿夫くん!?や、やめて!上鳴くん、大丈夫……?」
「……!ご、ごめん!」
俺は上鳴の手を力強く掴んでしまった。つまらない嫉妬心だ。真が上鳴の服の袖を捲ると俺の手の跡が付いてしまっていた。上鳴はへらへらと笑っている。
「尾白、ヤキモチかよ〜!心配すんなって、俺と真ちゃんは親友だって!な?」
「う、うん!」
二人して顔を見合わせて微笑みあっているのを見ると、まるで俺だけ取り残されたような気持ちになった。焦燥感というか、不安感というか、とにかくこんな気持ちになったのは初めてで。なんとなくこの場にいるのが嫌で、俺はくるりと背を向けた。
「猿夫くん……?」
「ごめん、ちょっと汗かいたから風呂入ってくる。先に寝てて。」
「う、うん、わかった……あっ、上鳴くん、今日はありがとう……」
「んーん、いーよ全然。んじゃ、またね。尾白もおやすみ!」
「ああ、おやすみ。」
上鳴が帰って、俺もシャワーを浴び、再びリビングへ戻ると下を向いた真が椅子に座っていた。俺に気がつくととても不安そうな顔で見上げてきた。さっきまでは彼女が無事ならそれでいいと思っていたのに、上鳴と一緒にいるのを見てからなんとなく苛立ちがおさまらない。親友に対しても、可愛い恋人に対しても、こんな感情を持つ自分が醜くて仕方がない。
「猿夫くん、ごめんなさい……」
「何が?」
俺はいつも通り返事をしたつもりだったが、真にとっては冷たいものだったのだろうか、ビクッと肩を震わせた。上鳴にはあんなに可愛らしく微笑んでいたのに。どうしてそんなに不安そうな、怯えた顔をするんだ。
「だ、黙って、そ、外に出た、から……」
「手紙置いてたんでしょ?気づかなかった俺が悪いから。」
「う、ううん、あの……ご、ごめんね、これからは、ちゃんと言うから……」
「……もういいから。早く寝なよ。明日も学校でしょ?」
「う、ん……ぐすっ……ひっ……うぅ……」
真はぽろぽろと涙をこぼし始めてしまった。また、傷つけてしまった。泣かせてしまった。別に怒ってるわけじゃないのに。彼女が涙することに対して苛立ちや不快感は一切感じない。あるのは罪悪感や自責の念ばかり。それに、親友に対してのあの態度。悪いのは全部俺なのだ。涙を拭ってあげたいが、今の俺にそんな資格はないような気がして。せめてもの気持ちとして、洗面所からタオルを持ってきて、そっと彼女の前に置いた。
「おやすみ、また明日……」
「お、やすみ、なさい……」
極力優しく声をかけて、そっと頭を撫でてやった。けれど彼女はまたしてもビクッと肩を震わせて、タオルで顔を覆ってとても小さな声で返事をした。
翌日、真が作ってくれた朝食を食べて、仕事に行く準備を済ませて、玄関で弁当を受け取った。ここまでは、いつも通り。いつもならいってきますのキスをする。けれど今日はその素振りはなくて。いつもよりも少し下がった位置で、いってらっしゃいと作り笑顔を向ける真。目は赤く、瞼は腫れてとても痛々しい。きっと一晩中泣いていたのだろう。
「……困ったことがあったらすぐ連絡するんだよ。」
「うん……ありがとう……」
会話は続かない。
「今日、学校終わってからの予定は?」
「え?えっと、今日はね……お、お友達とおやつ食べに行こうと思ってる、よ。」
気のせいだろうか。少し言葉が不自然な気がする。
「そう……気をつけて行っておいで。」
「う、うん!えっと、猿夫くんも、気をつけてね……」
「ん……じゃ、行ってくる。帰りが遅くなるなら連絡するんだよ。」
「うん、行ってらっしゃい。あ……」
真が何かを言いたそうにしていたけれど、これ以上醜態を晒したくなくて、逃げるように家を出てしまった。折角同棲を始めたのにこんなにギスギスとした雰囲気なのは互いにとって良くないのはわかりきっている。今日の夜は真にちゃんと謝って、自分の心の内を明かそう。きっと、彼女なら受け入れてくれると思うから。早く彼女の可愛い笑顔が見たい。せめてものささやかなお詫びに、帰りに彼女のお気に入りの店のケーキを買って帰ろうと決めて、俺は足取りを進めたのだった。
不安と苛立ち
愛情に比例して不安も日々募っていくばかり。この不安や苛立ちは、真剣に彼女を愛しているからこそなのだろう。俺はただ、彼女を大切にしたいだけなのに、どうしてこうも不器用になってしまうのだろう。