見えないものは



恐る恐るお家に入ったのだけれど、猿夫くんはとても心配してくれていて、寝ずに朝までわたしのことを探し回っていてくれたみたいで。なんてひどいことをしてしまったんだと、自責の気持ちでいっぱいになってついつい涙を流してしまった。とりあえずお風呂に入ったのだけれど、わたしの頭は轟くんの言葉でいっぱいだった。猿夫くんが、女の人と仲良くしていること。わたしのことで、相談をしていること。今まで彼に女の人の影なんてなかったから、なんだかとても不安な気持ち。彼のことは心の底から信じているのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。ここ最近、彼の心が見えない気がする。


お風呂から出ると、猿夫くんはリビングのソファですやすやと眠っていた。カレンダーを見ると、今日はお猿さんのシールが貼ってある。つまり、お仕事がお休みの日。大きいブランケットをかけてあげて、お腹が空いていたから彼の分とわたしの分のご飯を作ろうとキッチンに立った時だった。スマホの着信音がして、テーブルまで見に行ったのだけれど震えているのはわたしのスマホではなくて彼のスマホ。画面には女の人の名前。透ちゃんでも百ちゃんでもない、知らない女の人……と思った瞬間、パッとスマホは失くなった。猿夫くんの尻尾がテーブルからひったくるようにスマホを取ったのだ。彼は慌てて電話に応答しながらお家の外に出て行った。


10分は経っただろうか、ご飯を作り終えたと同時に彼がお家に入って来た。少し顔色が悪いような気がする。ひとまず一緒にご飯を食べ始めたのだけれど彼は無言。さっきの女の人は誰?なんて聞く勇気はない。食器の当たる音だけがお部屋に響く。食べ終わったと同時に、彼が小さな声で話しかけてきた。


「上鳴の家で、何もなかった?」

「うん、上鳴くん、すっかり元気になったよ!お酒の席でハメを外しちゃったって……」

「いや、そうじゃなくてね。真、何もされなかった?」

「……えっ?」


わたしはとても驚いてしまった。いや、少しばかり怒りも覚えたくらいだ。なんて失礼な質問なんだ、と。まさか、彼はわたしと上鳴くんのことを疑っているのだろうか。でも、心配をかけてしまったのは全部わたしのせい。ここで怒る資格なんてない。きっと彼は不安なんだ。いつもいつもわたしのことを本当に大切にしてくれて、心配してくれているのだから。


「何もないよ。わたしと上鳴くんは、大好きな親友だから……」

「……ごめんね、器の小さい男で。」

「ううん……心配かけちゃったのはわたしだから……ごめんなさい。」

「真……もう、さ、その、上鳴と……いや、男と二人で会うの、やめてくれない、かな。」

「えっ……?」


こんなことを言われたのは初めてだった。猿夫くんは少し嫉妬深いというか、ヤキモチ妬きさんなところがあるのは知ってはいるけれど、男と会うな、なんて言われたことはない。でも、授業やバイト、帰り道で出会すだけで自ら会いたいと思って会う人なんてほとんどいないし、何よりわたしは彼を、彼だけを愛しているのに。雑誌にも載るくらいわたしと彼の関係はそこそこ世間に知れてしまっているはずだ。林檎ちゃん、なんてちょっぴり恥ずかしい渾名まであるのだから。


「え、っと……そ、それは、困る、よ。お、同じ授業の人もいるし、それに、波間くんや上鳴く……」


バンッ!!


「ひっ!!」


机が叩かれる音がして思わずびくっと跳ねてしまった。怖くて猿夫くんのお顔が見れない。


「あっ、ご、ごめん、尻尾が当たっただけ……!」

「そ、そんなに、お、怒ら、なくても……うっ……うぇ……」

「ち、違う!!い、今のは本当に……!」

「ひっ!!」


手を伸ばされて、ぶたれる!と思ったわたしはとっさに身を縮めて手で頭を守ってしまった。けれど衝撃は飛んでこない。恐る恐る目を開けるとそこにはとても悲しそうな顔をした彼がいた。今、絶対に彼を傷つけてしまった。


「あっ、わ、わた、し……」

「あ、い、いや、ご、ごめん、俺……」

「ご、ご、ごめん、なさい……ごめんなさいっ!!」

「あっ!?真!待って!」


猿夫くんの制止の声は聞こえていたけれど、彼を傷つけてしまったことに耐えられなくて、スマホも持たずに外へ飛び出してしまった。しばらく走ったけれど追いかけては来ないみたい。ようやくほっとして、ふと顔を上げると先日上鳴くんが酔い潰れていたあのコンビニが目に入った。店内の雑誌コーナーにはよく知っている人が立っている。金髪に黒い稲妻模様がお洒落な、スタンガンヒーロー・チャージズマこと、上鳴電気くんだ。ぱちっと目があってしまい、なんだかバツが悪くてくるりと背を向けて歩き出したのだけれど、あっという間にガシッと肩を掴まれた。


「真ちゃん!待って!」

「あぅ……な、何?」

「何でここにいんの!?尾白は!?も、もしかして俺のせいで追い出されたり……!」

「ち、違うの!出て来たのはわたしなの……猿夫くんは悪くないの!」

「えっ?で、出て来た?なんで?」

「……お話、聞いてくれる?」

「もちろん!あ、ちょっと待って……これ、あげるよ!」


上鳴くんがくれたのはわたしの大好きなチョコのお菓子だった。ウエハースやプレッツェルにチョコがコーティングされたサクサクした感触がとても楽しいお菓子。上鳴くんはいつもいつもわたしが困っていたらチョコを食べさせてくれる。こんなにわたしのことを心配してくれるいつも優しい上鳴くんの気持ち、ちょっと考えればわかるはずなのに。わたしは一度も考えたことがなかったのだ。いつもいつも、尻尾のヒーローに夢中で、他のことなんて何も見えてなかったのだから。


「どうする?立ち話もなんだ……し……」

「……?上鳴くん?」

「……真ちゃん、ちょっとごめんな。」

「えっ?……!?きゃあ!!な、何するの!?」

「ぶわっ!!痛って〜!!ご、ごめん!!」

「あっ、ご、ごめんなさい!大丈夫!?」


あろうことか上鳴くんはいきなりわたしの右胸をむにゅっと掴んだのだ。突然見えないところから手が伸びて来て、しかも身体を触られたことにびっくりしたわたしは思い切り彼の頬をビンタしてしまったのだ。


「な、何でいきなりこんなこと……?」

「真ちゃん、そっちの目、見えてる?」

「えっ?……あ、あれ?そういえば、上鳴くんの左手、見えなかった……あ、あれ?わたしの右手……見えない……?」


どういうことだろうか。自分の両手をすっと顔の前に出してみたけれど、右を向かないと右手が見えない。再び上鳴くんが、ちょっとごめんね、と言いながらわたしの左目を彼の大きな掌で隠してきた。なんてことだ。視界は真っ暗、右の目は完全に見えていない。


「な、なんで?どうして?」

「真ちゃん、目の個性だろ?何か知らねーの?」

「わ、わかんない……あっ!あの、わ、わたしの目、ど、どうなってる?」


両目を開けてじいっと上鳴くんを見上げてみると、彼の頬にぽっと赤みがさした。彼はハッとしたように、こっちの目だけ白くなってる!と少し大きな声で教えてくれた。確か高校生の時、猿夫くんが綺麗な女の人と一緒にいて、わたしがヤキモチを妬いた時、あの時も目が白くなって、視界が真っ暗になってしまったのだ。


「……あ、あの、わ、わたし、行きたい、ところがあるの。」

「ん?どこ?」

「えっとね、優盟大学附属病院……お兄ちゃんのところに。お兄ちゃん、お医者さんなの……」

「……そっ、そうなの!?うっわー……マジでエリート家族じゃん……ま、いいや、危ないからさ、今日は手、引いてもいい?」

「えっ?あ、う、うん、そう、だよね、危ない、もんね……あの、ありがとう……」


わたしは上鳴くんが出してくれた手を握ろうと自分の右手を前に出したのだけれど、距離感がうまく掴めなくてすうっと空を切ってしまった。見えないのは彼の心だけじゃない。今目の前にあるものすら見えないのだ。上鳴くんの顔は少しだけきつくなったけれど、口調はとても優しいまま、歩きながら話そうか!とわたしの話をとても優しく聞いてくれたのだった。





見えないものは




「そっか……ごめんな、俺のせいで……でも尾白そんな嫉妬深いヤツだっけ……?」

「上鳴くんのせいじゃないよ!でも、あんなこと言われたのは初めてで……ちょっと、余裕がないのかな。わたし達、最近お家であまり一緒にいれてないの。」

「そーなん?尾白が遅くまで帰ってこないの?珍しいね。」

「……あ、あの、と、と、轟くんから、聞いたんだけど…………」








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