覆水盆に返らず



やってしまった。自分の醜い嫉妬心が表に出てしまい、真を困らせてしまった。俺はただ、尻尾で頬を撫でたかっただけだった。そうすれば彼女が目を細めて笑ってくれると思ったから。なのに、尻尾が上手く動かせなくて机に当ててしまい、彼女の小さな身体はびくっと大きく跳ねた。真は俺が怒っていると思い込んで泣き出してしまった。頭を撫でようと腕を伸ばしたら、心底怯えきった表情で身を固く縮めてしまっていた。今までこんな顔を向けられたことは一度もない。彼女はハッと我に返ると、心底傷ついた表情で大粒の涙をこぼしながら何も持たずに家を出て行ってしまった。


「はぁ……どうしてこうなるんだ……」


俺の目からもぽろりと涙がこぼれてしまった。男のくせに情けない。真は昔からよく泣く方ではあるが、最近は泣き顔を見る頻度がかなり増えた気がする。俺のせい、なのだろう。俺は彼女を守るどころか、傷つけることしかできていないような気がする。ただ、愛しているだけなのに。どうして、こうも上手くいかないのだろう。どうすればいいかわからなくなった俺は、先程の電話の相手、あの女性事務員さんにもう一度電話をかけた。どうすれば彼女に釣り合う余裕を持てるのか、どうすれば彼女の笑顔を守れるのかを相談するために。





あれから1時間程経った。真は帰ってこない。今もどこかで泣いているのかもしれない。いや、怒ってしまっているのかもしれない。上鳴と何もなかったか、なんて失言をしてしまった時、一瞬だけ彼女の眉が動いたのを俺は見逃さなかった。もしかして俺に呆れ果てた彼女は上鳴のもとへ……なんて悪い妄想が一瞬頭を過った。


俺は真を探すために再び外へ出た。例の事務員さんが車を出してくれて、二人で周辺を探したけれど見つからない。一体どこにいるのだろうかと必死に思考を巡らせて、まだ一箇所だけ行っていないあの場所へ向かった。





真はいた。俺と真が初めて触れ合ったあの公園に確かにいた。けど、目に入ったものはとてもショッキングな図だった。彼女は顔を林檎のように赤くしながら、上鳴と手を繋いで公園の中を歩いていた。正確には手を引かれている、というのが正しいのだろうが。あまりのショックに目眩がしたのだが、その瞬間、隣にいた事務員さんが大きな声で真を呼び止めてしまった。


「あーっ!ちょっとぉ!やーっと見つけましたよぉ!テイルマンの彼女さん!」

「ひゃっ!!だ、だ、誰?誰ですか?」


真は上鳴の後ろに隠れてキョロキョロと辺りを見回している。事務員さんは俺の腕を引っ張りながらずんずんと歩いて彼女に近付いた。


「……あれっ!?チャージズマと手を繋いでる!?」


言わないでほしい。せめて、見ずに済めばと目を瞑っているのに。


「えっ?あー、いや、ちょっと事情が……つーかお姉さん誰?」

「私ですかぁ?私は……」


その時、真が衝撃的な発言をした。


「……多分、猿夫くんの、新しい、好きな人、だよ。」

「……えっ?」

「ごめん、真ちゃん、今なんて……」

「……尾白くんの、好きな、ひと…………」


堪忍袋の緒が切れる、とはよくできた表現だ。尾白くん、と聞こえた瞬間、俺の中でブチッと何かが切れたような音がした。


「何だよそれ……!そっちこそ……そっちこそ!手なんか繋いでさ!地味でフツーで嫉妬深くてかっこよくもない俺なんかより、上鳴の方が良いってことじゃないの!?上鳴が好きなら上鳴と付き合えばいいだろ!?」




 
やってしまった。




真の閉じられた目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始めた。可愛い顔はくしゃくしゃに歪んでしまっている。今まで一度も見たことのない泣き顔だ。


「あ……真、い、今のは……違……」





もう遅い。





ハッとして、今の心にもない失言を謝ろうと彼女の可愛い顔に目を向けた時だった。彼女の閉じられた目がゆっくりと開いていく。漆黒の、宝石、が…………


「真っ……!?えっ……な、何……それ……」


彼女の美しい漆黒の瞳は、真っ白に、いや、少し濁った白というのが正しいか、とにかく、瞳の色がとんでもないことになっていたのだ。あまりの衝撃に俺は言葉を失ってしまった。事務員さんも上鳴も彼女の目を見つめたまま口をぽかんと開けている。まるで時が止まってしまったかのようだ。けど、彼女の時は止まらず一刻一刻を刻んでいるようで。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、何も言わずに震える脚で駆け出してしまった。追いかけようとしたけれどそれは叶わなかった。上鳴に思い切り殴られてしまったから。


「ッ……!!」


口の中を切ったのだろう、血の味がする。


「お前!!マジ……ざっけんな!!真ちゃんが、どんだけお前のこと……!!つーか、こんな時に女連れて……マジねーよ!!」

「あ、あの、わ、私、テイルマンの所属事務所の事務員で、全然そんな関係なんて無いんだけど……」

「んなのどーでもいいっつの!!つーかアンタも気遣えよ!そんな指輪してっけどさァ、自分の旦那が他の女と車に乗ってたり遅くまで飲み歩いてたら心配すんじゃねーの!?」


俺と事務員さんは下を向いたまま何も言えなくなってしまった。全部、上鳴の言う通りだから。きっと、真は知っていたのだ。俺が事務員さんと二人で会っていたこと。話の内容は全て俺が自分に自信がないことばかりだったのだが、それは知られていないのかもしれない。なんてぼーっとしていると、上鳴が吊り上がった目でキッと俺を見下ろしていることに気がついた。


「尾白、俺、殴ったこと謝んねーから。今はお前と話すことねーわ。」

「……謝る必要ないよ。さっきのは俺が悪かった。」

「もうバレてっと思うけど、真ちゃん、右目見えてなかったんだよ。だから俺が手引いてただけ。お前から見たら繋いでるよーに見えてたんだろーけど。あれはねーよ、マジで。」

「えっ……み、見えてない……?」

「俺、真ちゃん探してくっから。一応、見つけたら連絡くらいは入れてやるよ。」

「あっ……」


上鳴は真の後を追って走って行ってしまった。俺は地面に座り込んだまま何も言えず、立つこともできないままただただ自分の馬鹿さ加減を呪うことしかできなかった。事務員さんには先に帰ってくださいと告げ、誰もいなくなった公園で俺は静かにあの大きな木に近付いた。


「真……ごめん……ごめんよ……俺、あんな酷いこと……」


もちろん返事などあるわけがない。 


人は失って初めて大切なものに気がつく、という言葉がある。けれど、いかに彼女が大切なものなのかなんて、失わずとも重々承知していたはずなのに。あの目、涙、表情……俺は、彼女の美しい目も心も壊してしまったのだ。永遠の優しい愛を誓ったこの場所で。もはや彼女を殺してしまったと言っても過言ではないだろう。覆水盆に返らず、とはまさにこのことだ。俺は、何よりも大切な宝物を自らの手で壊してしまったのだ。


目の前が真っ暗で頭の中がパニックで支配されていた俺は、気がつけば家に帰ってきていて、寝室で真の所有物である猿のぬいぐるみを抱きしめていた。彼女の姿はない。この家にある荷物はどうするのだろうか。リビングに戻ってもスマホに財布、鞄、何もかもがここにある。次に帰って来てくれる時が最後のチャンスになるかもしれない。土下座でも何でもする。許してくれとは言わない。俺の望みはただひとつ。もう一度だけ彼女の笑顔が見たい。ただ、それだけだった。





覆水盆に返らず




「キミ!!危ない!!」

「えっ……?」

「統司!!っぶね……大丈……統司!?お前なんだそのアザ!!」

「あ、う……え、っと、波間、くん……?」

「とにかくこっち来い、つーか痛いよな……ほらおぶってやるから!早く!」

「あ……ど、どこ?どこに、いるの……?」

「……お前、目が……?」










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