あれから1週間、俺と真の関係が変わった。あんなに気まずい雰囲気だったのが嘘のように、まるで高校生の頃……いや、それ以上に親密で甘々な関係になったような気がする。あんなに気まずかったのは全部俺のせいなのだが、彼女は世界一と言っても過言ではない程優しいからか、困ったように笑いながら、お互いが大好きすぎて見えなくなっちゃってたねぇ、なんて一言であっさり片付けてしまったのだ。
高校生の時はほぼ毎日顔を合わせて一緒にいたけれど、俺が社会人になって真が大学生になって、中々一緒にいれなくなってからはすれ違うことも多かった。だけどもう大丈夫。ふたりで一緒にいれば、手を繋げば、目を合わせれば、どんなことだって乗り越えられる。もう二度と、あんな辛い思いはさせない。
真がすぅすぅと規則正しい寝息を立てて眠っている姿を見るととても安心する。他にも、俺が仕事から帰ってきたら玄関まで走ってきて思いっきり抱きついてきてくれたり、いってきます、ただいま、おやすみのタイミングで必ずキスをしてくれたり……真と穏やかに過ごせることが何よりも幸せなのだ。付き合っているのだから一緒にいるなんて当たり前で普通のことと感じるかもしれないけれど、俺にとっては何よりも贅沢なことだ。
「んっ……すぅ……すぅ……」
「今日も可愛いな……」
「すぅ……すぅ……」
今日は土曜日、珍しく土日が休みで真と休みが重なって今日と明日はふたりでプチ旅行をすることになっている。まだ朝の6時だけれどなんだか目が冴えてしまったし、ゆっくり準備をしようかな。ベッドから出て、昨日の夜に準備した旅行鞄を玄関に持って行き、場所の確認や手持ちの鞄の荷物の整理なんかをしていると、寝室のドアが開く音がした。彼女も目が覚めたのだろう。
「おはよう……」
「おはよう、よく眠れた?」
「うん……昨日は課題を頑張ったから……今日と明日が、とっても楽しみなの……」
「……こっち来て。」
「うん……えへへ、良い匂い……」
とろんと眠そうな顔でゆっくりと話す真が可愛くて、両腕を前に出しておいでの合図をしたら嬉しそうにとてとてと歩いてきた。ぎゅっと抱きしめればとても嬉しそうに擦り寄ってくる。朝っぱらからなんだこの可愛さは……なんて思っていたら、俺も彼女も同時にぐぅっとお腹を鳴らした。ぱちっと目を合わせてお互いぱちぱちと瞬きをしたら、なんだか可笑しく思えて同時にぷっと吹き出してしまった。
「えへへ、朝ご飯、食べようね。」
「ん、そうだね……」
「昨日の夕飯の残り、食べちゃおう。」
「あ、肉じゃがまだ残ってる?あったら食べたいな。」
「うん、あるよ。お鍋温めるからちょっと待っててね。」
真が用意してくれた朝食をふたりで食べて、彼女が化粧をしている間に俺は皿を洗った。さて、顔も洗ったし歯磨きもしたし、着替えも済ませて、出かける準備は万端だ。
「真、用意できた?」
「え、えっと……あのね、こっちの花柄のスカートと、こっちのチェック柄のスカート、どっちがいいかな……」
「どっちも可愛いね、うーん……あっ、でも動きやすそうだからこっちの方がいいかも。」
「じゃあチェック柄にするね!」
嬉しそうに部屋に戻って、彼女はすぐに出てきた。俺が選んだ方のスカートを着て可愛らしい笑みを浮かべてこちらへ駆け寄ってきて、どうかなあ?なんて言ってるけど、何を着ても可愛いんだから似合わないはずがない。
「とっても似合ってる。すごく可愛いよ。」
「えへへ、嬉しい……」
「忘れ物、ない?」
「うん、大丈夫!」
しっかり戸締りを確認して、ふたりで手を繋いで外に出た。ドアの鍵を閉めて、ふたり並んで駅までゆっくり歩いていると、真が片手を頬に当てて嬉しそうに話し始めた。
「温泉かぁ……楽しみだなぁ……」
「夕食、真が大好きなガトーショコラがデザートに付いてるって。あと、チーズの盛り合わせも付いてたよ。」
「ガトーショコラ……チーズ……!うわあ……!えへへ、嬉しいなあ……」
「真は食べてる時もすっごく可愛いから俺も楽しみだよ。」
「も、もう……」
恥ずかしくなってしまったのだろう、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。けれど繋いだ手にはぎゅうっと力が込められた。俺もぎゅっと力を込め返したら、ぱっとこちらを振り向いて、えへへと可愛らしい笑顔を見せてくれた。
駅に着いて早速電車に乗り込んだ。真は窓際の席に座るとリュックから本を取り出した。これもいつものことだ。彼女とふたりきりの旅行は何度か経験したことがある。遊園地や水族館へ行ったり、プールや遊戯施設が併設されたちょっと豪華なホテル泊まったり、歌手のコンサートに行ったり……しかし、温泉旅行は初めてだ。
今回の目的は彼女の心を癒すこと。この1週間、なんとなく気がついた。真はひとりで外に出れなくなってしまっているということに。学校へ行っているはずの日に、たまたま俺が忘れ物をして家に帰ったら真の靴とリュックが玄関に置かれたままだったのだ。こっそり部屋を覗くと、猿の大きなぬいぐるみをぎゅっと抱きしめてかたかたと震えていた。小さな身体を抱きしめてあげたかったけれど、余計に怖がらせてしまうんじゃないかと思うとそれすらもできなかった。というわけで、今日こそは彼女の心を少しでも癒してあげられるよう、真の意味で彼女にとってのヒーローになれるよう努めたいのだが……
「猿夫くん?大丈夫?」
「えっ?あ、う、うん、大丈夫だよ。ちょっとぼーっとしてただけ。」
「電車酔い?わたし、お薬持ってきたよ?」
「大丈夫大丈夫、それより窓、見て。海が綺麗だよ。」
「わぁ……えへへ、綺麗だねぇ……」
彼女の輝く漆黒の瞳の方が海よりも何倍も美しくて一瞬息が止まってしまった。こんなに可愛くて綺麗で優しくて愛しくてたまらない彼女をあんなに傷つけてボロボロにしてしまった自分を心の中で何度痛めつけたって全然足りやしない。
「猿夫くん、やっぱり変……わたし、心配……」
「あっ、う、ううん、大丈夫だよ。」
「隠し事……?」
「違うよ、真のこと、沢山傷つけちゃったこと思い出して後悔してただけ。本当にごめっ……んむ……」
謝罪の言葉を口にした途端、彼女の柔らかな唇が俺の口を塞いでしまった。ちゅっと音をたてて唇が離れたら、彼女はとても不機嫌そうな顔で俺の顔をじぃっと見つめてきた。
「もう謝っちゃだめって約束したよ。」
「うん、ごめ……ありがとう。」
「傷ついても大丈夫……一緒にいればへっちゃらだよ。わたしは猿夫くんがすき。猿夫くんじゃなきゃ、いやなの。猿夫くん、だいすきだよ。」
昔はたった一言、好き、と言うのも恥ずかしがってしどろもどろになっていた彼女も今では毎日何度も何度も好きだ好きだと言ってくれる。あまりにも可愛すぎて電車の中だというのに彼女の頬にそっと手を添えて唇を重ねてしまった。
「……俺も大好きだよ。」
「……えへへ、嬉しい!」
「んっ……電車だからこれでおしまいだよ。」
「うん……」
一度触れ合うキスをして、もう一度、触れるだけのキスをした。ゆっくり長く彼女の唇の柔らかさを堪能して唇を離すと、顔を林檎のように真っ赤にした真がぱっと両頬に手を当てて、顔が熱いよう!なんて言いながら窓の方を向いてしまった。それから暫く彼女は読書、俺は宿泊先の周りの観光地なんかを調べて時間を過ごした。
「わあ……綺麗なところだね。」
「レビューもすっごく良かったけど……すごいな……」
電車を降りて、バスに乗って20分ほどで宿泊先の温泉旅館に到着した。周りの景色もとても綺麗だけれど、旅館自体の外観もとても綺麗で、建物の中も清潔感に溢れてとても過ごしやすそうだ。真は落ち着かない様子でちょこちょこと俺の後ろを着いてきた。
「あ、すみません、2泊予定してる尾白です……」
「尾白様ですね、お待ちしておりました。」
受付作業を済ませて、すぐに部屋に通してもらったのだが、これまた綺麗な部屋で驚いた。部屋には最新のゲーム機や映画見放題の特典なんかもあって防音設備も万全だからリラックスして過ごしてくれとのことだった。食事のことや布団のことも聞いて従業員が部屋を出て行ったところで、後ろからくいっと手を引っ張られた。
「お話終わった?」
「うん、ばっちり聞いといたよ。」
「あのね、お部屋のお風呂が温泉だったの!」
「喜んでくれて嬉しいな……風呂は夜に楽しむとして、お昼も食べに行きたいし出かけようか。」
「うん!えへへ、楽しみ……」
この旅行で真の心を癒すことができると良いんだけど……そう思いながら、ニコニコ笑う彼女をふわりと優しく抱きしめたのだった。
はじめての温泉旅行
「ま、猿夫くん……?」
「ごめん、あんまり可愛いから……」
「もう……いつもそんなことばっかり……えへへ、猿夫くん、だいすき……」
「俺も大好き……」