わたしの世界から
彼が消えた日



「……幼稚園の時、って、あの木の下で真を泣かせてた子?」

「そうなの……ずっと、謝りたかったって。これ、もらったの。」

「そう……でも、良かったね。今はいい人なんでしょ?」

「うん、すごく親切にしてくれるよ。」


やっと波間くんのことを猿夫くんに話すことができた。でも、彼がわたしのことを好きだって言ったことは秘密にした。猿夫くんは昔からわたしが誰かにとられてしまうかもっていつもいつも心配してて、ちょっと独占欲が強いところがあるみたいで。パン屋さんでのバイトを辞めなさい、とか、彼と会っちゃダメ、なんて言われちゃうかもと思うとなんとなく言えなかった。それに、案の定、真のこと好きなんじゃないかな、と尻尾をさすりながら不安そうに呟いていて。


「わたしにはあなたしかいないよ。だから大丈夫。何度だってあなたしかすきにならないもの……」

「俺だってそうだよ……」


どちらからともなく唇を重ねて、猿夫くんの腫れてしまった瞼にちゅっと触れるだけのキスをしたら、彼はとても嬉しそうに尻尾をゆらゆら揺らしていた。けれど、開いている細い目はわたしと全然合わなくて。どうして目を合わせてくれないんだろうかと思っていると彼から妙な質問をされた。


「あ、あのさ、真、け、け……」

「け?」

「けっ……こう大変なの?その、三年生になったら、ほら、ゼミ?ってのがあるんでしょ?中学の同級生から聞いたんだけど……」

「あ、うーん、どうだろう。わたしは卒論じゃなくて卒制だし、ゼミ分けも来年だから、そんなに忙しくないよ?」

「あ、そ、そうなんだ……じゃなくて、け、け……」

「け?」

「けっ、血行良いのかな、最近、低血圧で……」

「……?そうなの?」

「そ、そうなんです……」


猿夫くんはふぅっと一度大きく溜息を吐いて、わたしをすっぽり腕と脚で閉じ込めてぎゅーっと力強くだけど優しく抱きしめてきた。今日の猿夫くんはなんだかとっても甘えん坊だ。わたしだけが知っている、猿夫くんの……テイルマンのこんな姿に少しだけ謎の優越感を覚えてしまう。えへへ、猿夫くんはわたしの王子様でヒーローだもん、誰にもあげないんだから……と思いながら、わたしも彼の背に手を回してぎゅうっと抱き返した。


すっかり元気を取り戻した猿夫くんと一緒にリビングへ降りて、持ってきたパンを彼の家族とわたしでおやつとして食べきった。もう夕方になっていて彼がお家まで送るから、と一緒にお外へ出てくれた。高校生の時と同じように、指を絡めて手を繋いで並んで歩きながら、テストが終わったらデートをしようねと楽しく話し合った。


「送ってくれてありがとう!」

「ううん、俺の方こそ。来てくれてありがとう。」


彼は自分がプロヒーローだという自覚はないのだろうか。人がちらほら歩いているにもかかわらず、わたしをぎゅうっと抱きしめてきた。本当はこの広くて大きな背中に腕を回したいけれど、少し遠慮しながら彼の胸に顔をすり寄らせて、服のお腹のところをきゅっと掴んだら彼は嬉しそうに尻尾をゆらゆら揺らしていた。身体を離すと、テスト勉強頑張ってね、とわたしの額にキスをして名残惜しそうにお家へと向かって歩き出した。彼が見えなくなるまで見送ってからわたしもお家に入った。


翌日、わたしは午後からバイト先に顔を出していた。というのも、波間くんと店長さんの二人だけのシフトで少し不安だから様子を見に来たからで。何かあったらいつでも出勤できるよう、休憩室でテストの勉強をしていたのだけれど、わたしが来る必要はなかったようだ。気がつけば辺りは暗くなっている時間になっていた。危ないから波間くんに送ってもらいなさい、と店長さんに言われて、わたしは彼と一緒に帰路に就いた。


「ごめんな統司、テスト勉強で大変な時に……」

「ううん、大丈夫だよ。」

「ん、ありがとう。」


それから波間くんと話をして、今日のお礼に何か奢るよ、と言われて、遠慮したのだけれど彼はとても頑固だったから仕方なく近くのカフェで軽く食事でもして帰ろうということになった。カフェでは手作りのグラタンドリアをいただいたのだけれどとても美味しくてほっぺが落ちそうだった。


お店を出てから彼にご馳走してもらったお礼を言って、再び二人で歩き出した。最初は学校のことやパン屋さんでのバイトの話をしていたのだけれど、話はだんだん恋愛の話になってきて。彼は外見はかなりのイケメンだとは思うけど、これまで彼女はいなかったらしい。ふと、以前の、ずっとわたしのことが好きだった、という言葉が頭を過った。けれど、甘い胸のときめきは感じられなかった。それはそうだ、わたしの心は、大好きな彼に……尾白猿夫くんに奪われてしまったのだから……


「……統司?聞いてる?」

「あっ、ご、ごめんなさい、えっと、何だっけ……」

「あ、いや、その、お前に、好きなヤツがいるのかどうかって話……店長からちょっと聞いちゃったんだよ。」

「えっ?」

「なんか、その、あるプロヒーローの大ファンだとか……それって、好き、なのか?その、恋愛対象として。」


そうだ、言わなくちゃいけない。わたしのためにも、波間くんのためにも、そして、大好きなヒーローのためにも……


「……うん、わたし、小さい時から、ずっと、ひとりのひとが好きなの。」

「……小さい時から?」

「うん……あの日、大きな木の下でわたしを守ってくれて……それから10年経ってからも、あの木の下でわたしを救けてくれた……」

「それって……あの、尻尾の……テイル……」


わたしが熱くなった頬に両手を当てて、大好きな彼に想いを馳せ、察した波間くんが尻尾のヒーロー、テイルマンと言おうとしたその時だった。


「波間!!喰らえ!!」


突然、大声を出しながらガラの悪い感じの銀髪の大きな男の人が手を光らせながらこちらに向かって走って来た。波間くんが危ない、咄嗟にそう思ったわたしは、大好きなヒーローがいつもそうしてくれるように、両手を広げて彼らの間に立ち塞がってしまったのだ。


「ッ!?統司!?」

「波間くん、逃げてっ……!?きゃわああああああっ!!」

「ハッハァー!!ザマァねェ!!」


身体中からバチバチと音がする。痛い、たすけて、猿夫くん。骨が軋む。痛い、たすけて、テイルマン。頭が割れそうだ。痛い、たすけて、尻尾のヒーロー。痛い……脳に直接電撃を浴びせられたかのような、鋭い、痛み。痛い……痛い痛い痛い痛い痛い…………たすけて……たすけて……たすけ…………



「統司っ!?おい!!統司!!ッ……!!テメェ何しやがった!!」

「本来ならテメェの大切なモンを消すつもりだったんだがなァ……まさかテメェの女からテメェが消えることになるとはなァ!」

「ま、待てッ!ど、どうすれば……」


銀髪の彼が口元に三日月形の弧を描きながら走り去っていくのが見えた。しばらくこのまま動けなかったけど、波間くんに何度も呼びかけられて、ハッと気が付いたらもうお家の前に着いていた。どうやら彼がわたしを抱きかかえてくれて、わたしは無意識のうちに彼をわたしのお家まで案内していたみたいで。


「あ、お、送ってくれてありがとう。」

「統司!大丈夫か!?」

「う、うん、もう平気だよ。どこも痛くないし、気持ち悪くもないよ。あの人、なんだったのかな……」

「……あ、あのさ、俺の名前、わかる?」

「えっ?波間操くんでしょ?違うの?」

「ま、まさか……な、なぁ、統司、お前、好きなヒーローいるか?」

「えっ?うーん……チャージズマとかクリエティとか……でも、いちばんは……」

「……一番は?」

「…………わかんない。」

「……そういう、ことかよ…………」





わたしの世界から
彼が消えた日





波間くんは困ったような泣きそうな顔で笑って、早くお家に入るようにと促してくれた。どうしてあんな悲しい顔をしているんだろう。とりあえずお家に入ってソファに座ったら、何かがわたしの頭から落っこちてかちゃんと音を立てた。


床を見てみると、大学生のわたしにはちょっと子どもっぽいデザインの、赤くキラキラと輝く林檎の飾りが付いた可愛らしいバレッタが落ちていた。わたし、こんなの持ってたっけ…………








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