消失、再び



数日前、事務所でデスクワークに勤しんでいた時のこと。胸の真ん中に穴が空いたような、ひゅっとした不安感に襲われた。真が俺に救けを求めているような気がして、すぐにでも彼女の元へと駆けつけようと思ったけれど、テスト前に邪魔をするわけにはいかないと踏みとどまってしまった。けれど、その判断は間違いだった。俺は一分一秒でも早く、彼女の元へ駆けつけるべきだったと後に後悔することなんてこの時の俺が知るはずもなくて。彼女のためならいつだってどこだって駆けつけると誓ったはずなのに。どうして俺はこうも意気地なしなんだろうか。





今日は真の大学のテスト期間が終わる日だ。あの日から彼女の勉強の邪魔にならないよう連絡も我慢して、やっと今日を迎えることができた。この数日間の間、上鳴や砂藤をはじめとした雄英高校ヒーロー科A組の同期達に何度も何度も相談に乗ってもらった。そして、決めたんだ。今から二年後、彼女が大学を卒業する直前に、俺は彼女に結婚を申し込む、つもりだ。セックス云々の件はまぁ、流れというか雰囲気というか……そもそもそんなことしなくたって俺と彼女は心が繋がっていて、誰よりも深く愛し合っているから要らぬ心配に過ぎないのだ。さて、あと2時間後には可愛い彼女に会えるのだから、急いで準備を済ませよう。





おかしい。何度連絡しても彼女からの返信がない。チャットには既読がついているのに、なぜか返信が来ないのだ。こんな事は今まで一度もなかったはずだ。もしかして、今日までずっと連絡しなかった事で不機嫌になってしまっているのだろうか……むくれている姿を想像してみたら、とても可愛らしく頬を膨らませている彼女の顔が浮かんでしまいどうしようもなく顔が綻んでしまう。怒っている姿さえも可愛くて仕方がない……なんて冗談はさておき、本当にどうしたんだろうか。心配になった俺は彼女の家まで足を運ぶことにした。





チャイムを鳴らしても留守の様だ。これは本格的におかしい、というか何かあったに違いない。真は待ち合わせ場所には必ず10分前に到着しているタイプで、何の連絡もなしに遅刻、況してやすっぽかすなんてこともあり得ない。どうしたもんかと彼女の部屋のドアに寄り掛かっていると、遠くから青みがかった黒髪の男が歩いてくるのが見えた。


「……武闘ヒーロー・テイルマン、ですよね?」

「そう、ですけど……?」

「……すんません!!」

「えっ!?い、いきなり何ですか!?ちょっ、や、やめてくださいよ!」


黒髪の男は突然俺の前で土下座をした。訳がわからず俺もしゃがみ込んで相手の肩に触れてみると、その肩は小刻みに震えていた。一体何だというのか。


「統司が……」

「真……!?真に何かあったんですか!?」

「……統司はある男の個性によってある記憶を消されました。すんません……俺のせいで……」

「ある男?ある記憶?はっきりしないな……詳しく教えてください。」

「男については後で話します。消されたのは……統司の最も大切なものの記憶で……」

「……は?」


わけがわからない、何故こんな悲痛な表情で俺なんかにそんな話をするのだろうか、なんて暗示をかけて、そうであって欲しくない現実から必死で目を逸らす。


「そ、それって、家族、とか、ですよね?」

「家族のことは……バッチリ覚えてる……」


男は顔を上げず、地面に額を付けたまま一向にその体勢を変えようとはしない。男のこの態度が俺が目を逸らしている仮説が真であることを裏付けている。


「…………俺、なんですね。」

「……そう、です。」


幸か不幸か、統司真にとって最も大切なものはどうやらこの俺、尾白猿夫だったというのだ。そして、彼女の世界からその最も大切なものは消えてしまった。そう、つまり、俺が、消えてしまったのだ。彼女の世界から、再び俺という存在は消失してしまったという、こと。


「はぁ……とりあえず、顔、あげてください。」

「いや、アイツは俺を庇って……俺のせいで……」

「真はあなたにそんなことさせたくて庇ったわけじゃない。」

「でも、あんたに合わせる顔が……」

「顔をあげてください。」


男はゆっくり顔をあげた。真が言っていた特徴通り。少しうねった感じの黒髪、黒い目、耳には青いピアス。彼が波間操だろう、幼少期に俺も会ったことがあるはずの男だ。


「詳しく話聞かせてもらえませんか?それと、彼女は今どこに……?」

「あ、ああ、もちろん。とりあえず、どっか座れるところに……あっ、統司は普通に学校にも通ってバイトにも行って、ます。今は、その……知らない人から連絡が来て怖いっつって……その、バイト先のパン屋にいます。」

「そっか……普通に生活できてるのなら良かった……」

「……ひとまず行きましょう。この近くに、コーヒーの美味い店あるんで。」


俺と彼は一定の距離を開けてゆっくりと歩いた。彼女が記憶喪失だなんて言われたら普通の人間はパニックに陥るだろうが、生憎それなら5年近く前に既に経験した。彼女が俺のことを忘れ去ってしまった時のこと、今でもはっきり思い出せる。あの時は何を食べても美味しいと感じられなかったり、毎日ほとんど眠れなかったり、周りの人間に心配をかけたり、彼女を困らせてしまったり、とにかく散々だった。けれど、彼女の心の中には確かに俺の欠片が存在していた。そして無事に思い出の木の下で彼女は再び俺の気持ちを受け入れてくれて、全てを思い出してくれたのだ。大切なのは、諦めないこと、そして、信じること。大丈夫、きっと今回も大丈夫。俺が彼女を信じてさえいればきっと……





彼に連れられて来た喫茶店で、詳しい話を聞いた。やはり先日の胸騒ぎは間違いではなかったのだ。彼等を襲った銀髪の男は波間くんの旧友で、幼稚園の時に真をいじめていた片割れだとか。どうやら波間くんと真が付き合っているものだと思い込み、自分と違って幸せそうにしている波間くんに対して募った憎しみをぶつけてきたというわけらしい。そして真はあの小さな身体で二人の男の間に立って、彼を守ったらしい。その姿は小さい頃の俺とそっくりだったとか。こうして話している間に少し彼と打ち解けて、砕けた感じで話せるようになった。


「俺のせいで……悪かった……」

「いや、キミが謝ることじゃないよ。真が自分の判断で人救けをしたんだから。」

「でも……」

「それより、どうしてその、俺のこと……」

「ああ……襲われる前、統司と話してたんだ。その、好きな人がいるかどうかって。」

「……えっ?」

「俺の勘違いだったらごめん。その、統司が小さい頃からずっと好きだった尻尾のヒーローってテイルマン……だと思う。」

「あ、あぁ……」


好きな人、というか恋人同士なのだが。


「その、統司がテイルマンの大ファン、って話を店長から聞いてたんだけど……最も大切なものがテイルマンってことは、二人は……」

「……お察しの通り、かな。俺の恋人は彼女なんだ。」

「……ごめん。本当に、ごめん。」


彼は頭を抱えて何度も何度も俺に謝ってくる。


「いや……それより、その個性、どうやったら解除されるの?」


そうだ。結局は個性なのだ。つまり、可逆性があるはずだ。俺の知り合いでいうと、相手に変化を及ぼす系統の個性なら……例えば麗日の無重力なら麗日の意思で解除できるし、心操の洗脳だって衝撃を与えるか彼の意思によるかで解除できるはずだ。


彼女は一度俺のことを忘れても思い出してくれたこと、そして個性のこと、これらの経験則に基づいて、まぁなんとかなるだろう、なんて甘い考えを持っていた俺はコーヒーに口をつけたが、彼の言葉に頭をガツンと殴られたような衝撃を受けて持っていたカップを落として派手に割ってしまったのだった。





消失、再び




「アイツの個性、解除されてるの見たことないんだ……」

「……は?」

「記憶を奪う個性じゃなくて、消す個性で……相手が記憶を取り戻したのを、少なくとも俺は見たことない。」

「そん、な……」


先程までの慢心は何処かへ消え去り、数年前のあの絶望感が再び俺を襲ってきた。









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