キミの香り
「ま、猿夫くん、恥ずかしいよ……」

「あと少しだけ。」

「もう……」


彼がトレーニングをしている間、勉強しようと思って机に向かっていたのに気がついたら彼の腕の中にいて。後ろから彼にずっと抱きしめられたままこの会話を何度繰り返しただろう。彼はわたしの首元に顔を埋めて、わたしの匂いを嗅いでいる。


「真の香り……優しくて甘い……好きだ……」

「そんな匂いしてる?」

「うん……ずっと嗅いでたら頭がクラクラする……」

「それ、おかしな化学物質でも出てるんじゃ……」

「ううん、そうじゃなくて、香りに酔ってるっていうか……真、すごくいい匂いしてるからさ。」

「そ、そう、なの、かなあ……」

「本当にいい匂い……俺、真がいる時は匂いですぐにわかるよ……」

「……猿夫くん、犬みたい。」


彼はこの後もずっとわたしを抱きしめたままで、わたしがお部屋に帰るまで一度も離してくれなかった。でも、わたしも猿夫くんの匂いが大好きだから、ずっとくっついていたくなる気持ちはよくわかる。





翌日、いつも通り授業を受けていたのだけれど、先生の都合で5限の数学の授業が急遽現国の授業に変わってしまった。お昼休みになると、みんな慌てて別のクラスに教科書を借りに行っていて、当然わたしもそのひとり。大好きな彼がいるA組の教室へと足を運んだ。


師匠と、隣の席のマスクをつけている大きな男の子……確か障子くんだったかな、猿夫くんはお友達と三人で、購買で買ってきたであろうお昼ご飯を食べているところだった。わたしは後ろからそろりそろりと彼に近づいた。正面にいた師匠と目があったから、口元に人差し指を置いて、彼には秘密、の合図を送る。師匠は猿夫くんに見えないよう、机の影から指でOKサインを作ってくれた。そして、わたしは猿夫くんの後ろに立って、彼の目を両手でふわっと覆った。


「うわっ!あれっ!?」

「誰だろうな?」

「む……」


猿夫くんは尻尾を軽く揺らしながら戸惑っている。師匠はニヤニヤしながらだーれだ、なんて声をかけていて、障子くんはぽかんとしている様子。クスクス笑ってしまいそうになるけれど、もう少しこの状況を楽しみたくて頑張って笑いを堪える。もう一度師匠がだーれだ、と言いかけた時、猿夫くんは突然くつくつと笑い出した。


「真でしょ。」

「本当に?」


わたしの後ろから急に聞こえた声、それは上鳴くんのものだった。彼はわたしの隣に立って、猿夫くんに話しかけ始めた。


「愛する彼女と後ろの席の友達を間違えるかフツー。」

「間違えてないよ、この柔らかくて小さい手は真の手だよ。」

「俺の手も小せーよ?なぁ、障子?」

「ああ……俺や砂藤に比べれば小さいな……」


上鳴くんが猿夫くんに意地悪をしているのがちょっとだけ面白い。ここまで言われたら流石の彼も自信をなくして、やっぱりわたしじゃないと言ってしまうのではないかと思ったのだけれど。


「いいや、俺にはわかるよ。これは絶対真の手。真、いるんでしょ?」

「……やっぱ流石だな。」

「ああ、手だけでわかるんだな……」

「これが愛……」

「な、なんでわかったの?」


上鳴くん、師匠、障子くんは目を丸くして感心している。わたしも同様に驚いている。どうしてここまで確信めいて答えられるのだろうかと。わたし達の様子が面白いのか、彼は尻尾をゆらゆら揺らしながらくつくつと笑い始めた。


「くくっ、理由なら昨日言ったでしょ?」

「昨日……ッ!?う、嘘!?そ、そんなにわたし……!?」

「きっと俺だけにはわかるんじゃない?」

「や、やだもう……恥ずかしい……」


顔が熱くなって、彼から離した両手を頬に当ててしまう。三人は何のことだと言わんばかりに顔を見合わせて首を傾げている。わたしと彼、ふたりだけの愛の秘密なんだと思うとむずがゆくなるような恥ずかしさを感じて、ああ〜とか、うう〜とか、声にならない唸り声が出てしまう。それを見た彼はくつくつと笑っている。


「それで、何か俺に用事があったのかな?」

「あ……そ、そう!あのね、5限が現国に変わっちゃったから、教科書を貸してほしくて……」

「いいよ。はい、どうぞ。」

「ありがとう!えへへ……」

「あっ、それ……」


猿夫くんはくつくつ笑いながら教科書を差し出してくれて、わたしは自分の顔を隠すように教科書を顔に近づけた。すると、上鳴くんが小さく声を漏らした。どうしたの?と言おうとしたけれど、教科書から香った紙の匂いだろうか、とにかく匂いに少し違和感を感じた。

「…………これ、猿夫くんのじゃない?」

「「えっ!?」」


驚いているのは猿夫くんと上鳴くん。


「ど、どうしてそう思うの?」

「え?うーん、なんかこの教科書の紙の匂いかな、嫌とかじゃないんだけど、なんかこれじゃないって思って……」

「……真ちゃん、こっちの教科書は?」

「え?……あっ!こっちがいい!えへへ、こっちの方が猿夫くんの匂いに似てて好きだなあ……」


上鳴くんが机から出した教科書の匂いをすんすんっと嗅ぐと、猿夫くんのお部屋にいる時みたいな優しい香りを感じた。わたしは猿夫くんに借りた教科書を返して上鳴くんの教科書を借りることにして、教室に戻ろうとしたのだけれど。


「あのさ、そっちの教科書が尾白のなんだよね……真ちゃんが最初に出されたのが俺の教科書で……」

「……えっ!?」

「ほら、裏表紙にテープ貼ってあるっしょ?それ瀬呂ってやつがふざけて貼ってきたやつ。」

「ほ、本当だ……」


上鳴くん曰く、朝の現国の時間、ペアワークをした時に猿夫くんと教科書が入れ替わってしまったのだろうとのこと。猿夫くんは気づいていながらわたしに上鳴くんの教科書を差し出したみたい。今の話の流れで、もしかして教科書の匂いをわたしが嗅いで気付いたりするんじゃ、なんて期待をしていたようで、思惑通りにいったからか彼はお顔と尻尾を赤くして照れ照れしながら口を開いた。


「真も俺の匂いわかるんだね……」

「あ、あ、う……うん……猿夫くんの、や、優しい香り……だいすきだから……」

「お、俺も、真の優しくて甘い香り、大好きだよ……」


彼は立ち上がって少し屈んで、わたしの頬にそっと手を添えた。ついいつもの癖で、ちょっとだけ背伸びをしてしまって、唇が重なるまであと数センチ、目を閉じようとしたところですぐ隣の席の女の子の声が耳に入った。


「うわー!教室でキスなんて尾白だいたーん!」


わたし達はハッと目を丸くして、同時に真っ赤な顔になって、お互いくるっと背を向けてしまった。わたしは教科書をぎゅっと抱きしめて、学校が終わったらお部屋に返しに行くね!と大きな声で告げながら走ってA組の教室を後にした。





キミの香り




「ねえねえ尾白!彼女可愛いね!教室でキスなんて大胆だね!」

「芦戸、止めてくれてありがとう……」

「あの勤勉で冷静な尾白を惑わすとは……」

「あァ、ほら、峰田が言ってる灼熱地獄カップルってヤツだよ。」

「なるほど……」

「尾白……なんつーか、真ちゃん、匂い?香り?っつーか……色香がこう、すげぇな……」

「……わかる?真、ここ最近ぐっと綺麗になったっていうか……彼女の香りを嗅いでたら落ち着くのと理性が飛びそうになるのと物凄く葛藤するんだよね……」



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