キミじゃなきゃ
「…………」

「真っ!これは違うんだ!俺……!」

「……最っ低!!だいっきらい!!」

「だっ……!?ああ!待って!!」

「いやっ!近寄らないで!気持ち悪い!」

「きっ……!?そ、そんな……」

「もう知らない!別れるっ!」

「わっ……!?ま、待って!!話を……!」


真は大粒の涙をこぼしながら走り去ってしまった。またしても彼女を泣かせてしまった。どうしてこうもタイミングが悪いのだろう……ひとまず彼女を追いかけようと思って下の階まで来たはいいものの、一体どんな言葉をかければいいのか。出てくるのは言葉よりも涙ばかりで。


「なぁ、今、真ちゃんがすげぇ速さで走って行ったけど……」

「上鳴……」

「えっ!?なんで泣いてんの!?そ、そーだ、これ使え!な?」

「ありがとう……」


彼から受け取ったスポーツタオルを目に当てたけれど、涙は全く止まらない。今までも何度か喧嘩はして、嫌いと言われたことはあってもそれは口を衝いたものに過ぎなかったけれど、別れると言われたことはただの一度もなかった。もしかして、今の俺はもう真の彼氏とはいえないのだろうか。胸の真ん中に穴が空いたような気がする。身体中が震えて、立っているのもままならない。


「おい!尾白!?だ、大丈夫か!?」


膝から崩れ落ちかけた俺を上鳴が支えてくれた。彼の叫び声をきっかけに少し離れたところにいたはずの砂藤と轟が近寄って来てくれ、ひとまず彼等に事情を説明した。


「そ、そりゃどっちが悪いっつーか……しゃあねェな……」

「そ、それ、俺らのせいじゃん……ごめん、尾白……」

「いや、上鳴は悪くないよ……俺がうかつだった……」


なぜ真が怒ったのか。理由はこうだ。彼女が受験勉強の間、夜を共にすることができなくて。先日、それをネタに峰田と上鳴が俺を揶揄いに来て、いわゆるAVを俺の部屋に置いて行ったのだ。正直俺は真相手じゃなきゃ性欲も湧かなければ男性特有の反応も一切無い。しかし、AVのパッケージが問題だった。女性の裸がいくつも写っているのだ。これを返さねば、と手にしたところで彼女が勉強の質問のために俺の部屋にやって来てしまったのだ。まさか真が連絡無しに突然来るとは思っていなかった俺は、ノックをされてすぐにドアを開けてしまい、手に持ったそれを彼女に見られてしまって。彼女が悲しんで泣き出すと思って慌てて事情を説明しようとするも、彼女はキッと目を細めて軽蔑や侮蔑といった眼差しを向けてきた。


「ま、猿夫くん……わ、わたしとえっちなことできないからって他の女のひとの裸見てるなんて……」

「えっ!?ち、ちが……」

「……やだ!えっち!すけべ!変態!」

「い、いや、ちょっと待って……!」

「…………」


そして冒頭に至るというわけだ。こうして彼女は良からぬ勘違いをして走り去ってしまったのだ。俺もすぐに言えばよかったのだけれど、彼女のあんなに傷ついた顔を見てしまっては説明もままならず、言葉に詰まってしまったのだ。


正直、これから先、真がいない人生なんて考えられない。けれどこの2年半で築いてきた愛と信頼は脆くも崩れ去ってしまったわけで。彼女が他の男の前であの可愛らしい笑顔を振り撒いて、林檎の如く真っ赤な顔で照れて、美しい瞳を揺らして泣いて、その綺麗な目に俺ではない違う男を映して、そして、他の男を愛し、愛され…………考えただけでも身が引き裂かれる思いだ。嫌だ、嫌だ嫌だ、絶対に嫌だ。例えそれが上鳴だろうが轟だろうが、とにかく他の男に彼女を奪われるなんて絶対に耐えられない。


「真……真……」

「……なぁ、尾白。」

「うん……?」


徐に口を開いたのは轟だ。いつも冷静で必ず中立の立場から意見をくれる彼に全員が注目する。


「統司から謝ってくるまで待った方がいいんじゃねェか?」

「……えっ!?真から!?そ、そんな……何も悪くないのに謝らせるなんて……」

「いや……俺は統司がお前に謝んのが筋だと思う。」

「ど、どうして……?」


全員が轟の言葉に真剣に耳を傾ける。


「2年半も一緒にいれば、お前がクソ真面目な上に、統司以外の女に興味持つ奴じゃねェことくらい、俺にだってわかる。」

「た、確かに……尾白の統司への惚れ込み方を知ってりゃ尚更……」


砂藤の言葉に上鳴も轟もうんうんと頷く。


「ああ。だから、尾白のことを信じてやれねェどころか、話すら聞かねェ統司がちょっとな、と俺は思った。」

「……確かに一理あるよなぁ。」

「ああ。けど、統司はバカじゃねェ。多分、距離置いて落ち着いたら謝りにくるだろ。」


上鳴も真剣な顔で轟の言葉を後押しする。けれどやっぱり迂闊だった俺が悪かったと思ってしまう。あんなに傷ついた顔で、しかも、別れるとまで言わせてしまったのだから。しかし今回ばかりは俺の方からは謝罪に行かないことにした。というのも上鳴と峰田に罪悪感を背負わせたくないというのが大半の理由だが。





それから五日後。あれから俺は真に一度も会えていない。いや、一方的に彼女の様子は確認してはいるのだが。葉隠さんに頼んでわざと真の元へ教科書を借りに行ってもらったり、砂藤に頼んでお菓子を差し入れしに行ってもらったり。けれども彼女はこの数日で随分痩せて、目を真っ赤にして毎日泣き腫らしているであろう目元が痛々しく、おまけに足取りはふらついていたとか。全て、俺が与えた心の傷が原因なのだろう。このまま受験にまで影響が出るのではと心配だ。轟はああ言っていたけれどやっぱり真が心配だ。もう俺が彼氏じゃないとしても、俺が彼女を愛していることに変わりはない。いてもたってもいられなくて昼休みにD組の教室へ足を運んだ。





やはり嫌な予感とは的中するもので。D組の教室のドアを開けた瞬間、中から女子の悲鳴が聞こえた。教室の真ん中の人集りに目がいって、尻尾を使って上から覗くと、床に倒れている真が見えた。俺はパニックになりながらも、人混みを分けて彼女の羽のように軽い小さな身体を抱きかかえて保健室へ走った。ベッドに寝かせてからはずっと彼女の小さな手を握っていた。元々小柄で細いのに、この数日でさらに細くなっているのが見てわかる。おまけに顔色は真っ青で。全部、全部、俺のせい……





「な……かない……で……」

「真っ!大丈夫!?どこか痛くない!?」

「転ん……じゃった、の……えへへ……」

「えへへ、じゃないよ……なんで……こんなに…………」


真の小さな手をギュッと握ると、とても弱々しくきゅっと握り返してきた。久しぶりの彼女の甘い香りに脳が麻痺しそうになる。いつもは漆黒に美しく輝く綺麗な目……今は虚で薄ら白っぽくなってしまっている。俺が、傷つけてしまったのだ。彼女の美しい目も、心も。涙が、止まらない。


「なか、ないで。」

「……もう、ダメなの?」

「な、に……が……?」

「俺のこと……嫌い?」

「…………」


真は答えてはくれない。


「……やっぱり、俺なんて……い、要らな……」

「ッ!!」


俺なんて、要らないよね。そう言おうとしたら、彼女は勢いよく起き上がって、俺の首にふわっととても弱い力で抱きついてきた。


「ごめん、なさい。」

「何が……?」

「……あなたは、浮気、なんて、しない……嘘も、つか、ない。なのに、わたし、また、お話、聞いて、あげなかった……」

「ううん……俺が、ちゃんと説明すれば良かったんだ。聞いて、真。今、こんなこと言うの、おかしいんだけど……」

「待って……」

「えっ?」

「あの……わ、別れる、って、い、言った……けど……ご、ごめん、なさい……やっぱり……」

「……俺は別れたつもりないよ。真のこと、何があっても絶対嫌いになったりしない。今でもこんなに好きだよ。」


俺は真を優しく、だけど力強く抱きしめた。彼女はぐすぐすと泣き出してしまったけれど、しっかり俺の身体に抱きついてくれている。たった五日ぶりに抱き締めただけなのに、もう何年も抱いていないような感じがする。小さな身体がさらに小さくなったせいだろうか。リカバリーガールがくれたスニッカーズを開封して彼女の口に持っていくと、小さくではあるけれど、少しずつ齧ってくれた。


「あのさ、食べながらでいいから、聞いてくれる?」

「うん……聞く……」

「……俺さ、その……自分で、してたんですよ。」

「……?何を?」


気まずい。真は見た目も中身もやや幼い純粋な子だ。黒真珠のような美しい漆黒に戻った丸くて大きい綺麗な目でじいっと俺を見上げている。


「じ、自慰行為をしてまして……」

「……じーこーい?」


それでも伝わらないみたいで。仕方がないからカタカナ言葉でぼそっと耳打ちすると、彼女の顔は林檎のように真っ赤になって、両手を頬に当てていた。この反応、この林檎っ面、いつもの彼女のそれに心底安心する。


「え、えっと……あ、あの、えっちな女のひとの動画は、そのため?」

「あ、え、えっと、それは違うんだ……あれはね……」


というわけで一応彼等の尊厳も守らねばと思って名前は伏せながら説明したけれど、真の中では峰田だと確定しているようだった。そして、俺は正直にキミじゃなきゃダメなんだ、と自分の身体の反応について話した。彼女は顔を真っ赤にして布団の中に隠れてしまった。あと半年近く……果たして俺は我慢できるだろうか……




キミじゃなきゃ




「動画、友達が勝手に再生したんだけど、俺、勃たなかったんだ……」

「……えっ?」

「俺、真じゃなきゃ、勃たないみたいなんだよね……」

「……じゃ、じゃあ、どうやって、ひとりで、その……え、エッチ……してるの?」

「真の写真見たり、気持ち良くなってえっちな声出してるのを想像したり、エッチの練習してる時を思い出したり……あ、ほら、想像したら、こうなるんだよ……」

「そ、そうなんだ……じゃ、じゃあ、受験、終わったら、たくさん、えっちなこと、しよ……?」

「……!!う、うん……!」


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