「うっ、うぅ……ぐすっ……」
「ただい……な、泣いてる!?真!帰ってきたよ!どうしたの!?」
ヒーローとしての勤めを終えて帰ってくるなり愛しい妻の啜り泣く声が聞こえて、慌てて靴も鞄も放り出してリビングに走ったら、頬を濡らす真がいた。そっと優しく抱きしめると俺のシャツの胸の辺りをぎゅっと掴んできた。彼女が俺の背に腕を回してこない時は大抵何か不穏なことを疑うような不安がある時だ。
「どうしたの?」
「…………」
「話せないこと……?」
「…………」
何も言わずにただ俺の顔をじいっと見上げてくる。これももう10年以上経験してきたことなのに、慣れるどころか毎度毎度俺の胸は高鳴るばかりだ。なんて綺麗な目で見つめてくるのだろう。このまま見ていると吸い込まれるか石になるかしてしまいそうで、思わず目を逸らしてしまう。しかし目を逸らされたのが悲しかったのだろうか、真は再び泣き始めてしまった。
「あっ、ご、ごめん!嫌とかじゃないんだ!その、あまりにも綺麗で、その、石になっちゃうかもとかそんな馬鹿なこと思ってただけで……!」
「…………」
「な、何か言ってくれない……?」
「お……」
「お?」
「……おかえり、なさい。」
「た、ただいま。えっと……」
本当にどうしたのだろうか。涙を流す理由が全くわからない。俺が何かしてしまったのだろうかと思いこそすれ、おかえりなさいという言葉をかけてくれたためにどうやら見当違いなのは明確で。だけど、抱きしめる力を強くするとビクッと肩を震わせて、小さく、ひっ!と声をあげた。怖がっている……?
「お、俺のこと、怖い?」
「こ、怖く、ない。」
なんとか口がきけるくらいには落ち着いてくれたようで少しホッとした。けれど、彼女の震えは止まっていない。
「どうしたの?言いたくない?」
「…………」
また無言になってじいっと俺の顔を見上げてきた。今度は目を逸らさないよう、美しい漆黒の、涙色に輝く宝石の様な目をまじまじと見つめた。揺れている瞳が本当に綺麗で、まるで時が止まってしまったかのような錯覚に陥ってしまう。
時が止まってどれくらい経っただろうか、ちらりと時計に目をやるとわずか2,3分しか経っていない。てっきり10分以上経っているかと思っていたのだが、なんて呆けているのも束の間、俺の視界はぐるんと動いてぼふんと大きな音がした。気づけば俺はソファを背に身動きが取れなくなっていた。顔の左右には真の手、そして目の前には可愛い可愛い妻の顔。よいしょ、と小さく声を漏らして、ちょこんと俺の脚に跨ってきた。なんて可愛らしいんだろう。しかしこの状況、所謂、壁ドン、ってやつだろうか……
「あ、あの、真、さん?」
「……お、怒らないで、聞いてね。」
「……?うん、わかった。なんでも言って。」
「……浮気、してない?」
「…………!?う、浮気!?俺が!?そんなことできるわけないだろ!?俺が好きなのは真だけなのにそんな……!」
真はうるうると瞳を揺らしている。彼女が涙を流す理由はこういうことかと悟ったけれど、なぜいきなりこんなことを……何か不安になるようなことがあったのだろうか。けれど、昔とは違ってきちんと俺に確認をとってくれて、話を聞かずに逃げ出すなんてことはしないでいてくれている。そんな彼女が愛しくてたまらなくて、俺は彼女の顔に両手を添えて、少しだけ顔を前に出して、そっと唇を重ねた。そして、綺麗な目をじいっと見つめる。
「俺が愛してるのは真だけだよ……」
「……ほんと?」
「逆にどう見えてる?」
「……色がいっぱい。」
「良かった……信じてくれる?」
「うん……変なこと聞いてごめんなさい……」
「ううん、何か不安だったんでしょ?」
「うん……」
やっと不安が解消されたのか、真は俺の首に腕を回して、俺の胸に思い切り顔を押し付けてきた。小さな背中に腕を回してそっと抱きしめると、すりすりと頬擦りをしてきて。なんて可愛いんだ……軽く頭を撫でると、小さく、えへへ、と笑う声が聞こえてきた。やっと安心してくれたのか、顔をあげた彼女の頬は少し濡れているものの、もう泣き顔ではなく柔らかい微笑みを浮かべてくれていた。改めて何があったのかを聞くとゆっくりはっきり話してくれた。
「あのね、今日、お醤油が切れちゃったから、近くのスーパーまで買いに行ったの。そしたらね、お店の前に、占いヒーローっていう人がいたの。」
「占いヒーロー……あぁ、最近出てきてたっけ……彼がどうかしたの?」
「うん、あのね、お嬢さんお嬢さん、って声をかけられて。」
「うん?」
「手相を見てあげるから左手を出して、って言われてね。左手を出したらじーって見られて……」
「うんうん。」
「これは浮気の相です、って言われたの!」
「……はぁ!?」
真は頬を赤くしてぷりぷりと怒っているのだろうが、こんな顔も可愛らしくてたまらない。思わず赤い頬をつんっと指で突いてしまったら、ひゃっ!と小さく驚いていた。ところが、ごめんねと謝って話の続きを促すと再び美しい目にじわじわと涙が溜まってきた。痛かった!?と慌てて聞いてみたけれど、違うよ!と手をぶんぶん振って否定しながら続きを話してくれた。
「えっと、それでね、旦那さんはヒーローですね?って言われて、モテモテで、う、浮気、し、してますよ、って……それで、も、もうすぐ、お嬢さんは、す、す、捨て……う、うぅ……ぐすっ……」
真を泣かせたどころか、俺が真を捨てるだなんて……例え地球と真が天秤にかけられたとしても俺は真を選ぶ自信がある。ヒーローとしてはあるまじき選択なのかもしれないけれど、俺はそれほどまでに彼女に惚れ込んでいて、彼女を守るためならどんな犠牲も厭わないとさえ思ってしまうのだ。
「……俺、そのスーパーに行ってくる。どこのスーパー?」
「……えっ?」
「俺の妻を泣かせておきながらヒーローを名乗るなんて笑わせてくれるよね……」
「ま、猿夫くん……?」
真の涙は止まったようで、丸くて大きい綺麗な目をぱちぱちと瞬きさせている。
「ちゃんと教えてあげなきゃ。ヒーローは人を笑顔にする仕事なんだってね……」
「ま、猿夫くん、あ、あの、あのね、聞いて、ほしいの。」
「ん?何かな?」
「あのね、えっと、わたし、猿夫くんのこと、だいすき、なの……」
前言撤回。こんな可愛い妻を置いて外に出る夫がどこにいるというのか。林檎っ面で頬に両手を当てながらえへへと笑う可愛い真。ああ、こんなに可愛い姿ばかり見せられ続けると堪らずクラクラしてしまう……
「えっと、だから、その……す、捨てないで……」
「……俺が真を捨てると思う?」
「お、思わない……けど、やっぱり、その、不安に……んっ……」
なんて馬鹿なことを、と思った俺は堪らず瑞々しい果実のような桃色の唇に齧り付く様にキスをした。何度も何度も角度を変えて、酸素を求めて口を開いた隙にすかさず舌を捻じ込んで彼女のそれと絡ませた。彼女のくぐもった声と、ちゅっちゅと可愛らしい音が部屋に響く。しばらくしてから唇を離すと、透明な糸が俺達を繋いでいて、真はくたっと力無い様子で俺の胸にもたれかかってきた。
「……はぁ……ごめん、我慢できなかった。」
「はっ、はぁ、う、ううん……だ、いじょ……ぶ。」
肩を揺らしてはぁはぁと小さく早く息をする彼女が愛しくて堪らない。こんなに可愛い女の子を捨てるような男がどこにいようか、いや、いまい、というか彼女は他の誰でもないこの俺のものなのだから、俺の中にそんな選択肢が存在しない以上、彼女が捨てられる日なんて未来永劫訪れることはない。
「真、今日は泣き疲れちゃったかな?」
「えっ?う、ううん、大丈夫……」
「そっか。じゃ、一緒に風呂に入った後、ベッドで気持ち良いこと沢山しようか。」
「……えっ?」
「捨てられる、なんて……そんな不安、二度と持たないように安心させてあげるのが夫の仕事だからね。」
真の小さな身体を抱えて、そっとソファにおろしてあげた。頭を優しく撫でて、風呂のお湯を貯めるために風呂場へ歩いて行こうとしたら、突然後ろからどんっと衝撃が。やや下向きに振り向くと、うるうると瞳を揺らしながら俺を見上げる可愛い妻の姿が。
「わ、わたしも、お仕事、する……」
「ん?今日の仕事終わってないの?」
「んーん、違うよ……」
「うん?どうしたの?」
「だ……」
「だ?」
「だいすきな旦那様を、癒してあげるのが……お嫁さんのお仕事、だから……」
「……!!そ、そっか。じゃ、じゃあ、お願いしよう、かな……」
夫婦のお仕事
「っ……!はっ……!真ッ……!」
「んぅ……ちゅ……ひもひい?」
「ッ……!良すぎッ……!ヤバいって……!」
「んっ……んん……」
目も心も綺麗で、仕草も発言も外見も可愛くて、その上、優しくて料理も上手で手先も器用で……おまけにこんなに尽くしてくれる最っ高に愛らしい妻がいる俺はきっと世界一の幸せ者に違いない……愛する妻のために今後も夫として、ヒーローとしてのお勤めを頑張らなくては、と心に決めたのだった。