愛が重いのは
「ただいまー!……あれっ、真?」


いつも満面の笑みで出迎えてくれる最愛の妻が玄関に来てくれないなんて初めてで。一体どうしたのだろうかとリビングへ歩いて行くと、思いもよらない言葉を耳にしてしまった。


「うん……やっぱり、離婚……かな?」


離婚……?いや、聞き間違いに決まってる。けれど心臓の鼓動はどくどくと加速するばかり。冷や汗も止まらない。身体というものはなんて正直なのだろう。俺はリビングのドアにそっと耳を当てて真の言葉に集中した。


「うん……だよね。愛が重いのは嫌だよねえ……」

「うん、わたしもそう思う!やっぱり、離婚、かな……」


愛が重い。離婚。聞き間違いなんかじゃない。真は……真は、俺の愛が重いから、離婚、したい、のか……目の前が真っ暗になったような感じがして、目頭が熱くなってきた。


「あっ、ごめんね、もうすぐ彼が帰ってきちゃうから、またね。」


真が電話を切ったのだろう、ドアの方へパタパタと駆けて来た。慌てて涙を拭って立ち上がると、丁度ドアが開いた。


「きゃっ!!あ、お、おかえりなさい!やだ、気付かなくてごめんね、お腹空いてるよね、すぐご飯の……あれっ、猿夫くん……?」

「ごめん、ちょっと気分が優れなくて……俺、夕飯はいいや……」


真の横をふらふらと通り過ぎて、俺は自室へ閉じこもった。何がいけなかったのだろう、何が彼女を追い詰めてしまったのだろう。離婚なんて、絶対に嫌だ。けど、愛が重いと思われているのは紛れもない真実で。男のくせに情けないのはわかっているが、溢れる涙はどうやっても止まってくれなくて。俺は自室のソファに横になって、声を押し殺して一晩中泣き続けた。





翌日、俺は幸い仕事が休みで、真は仕事の都合で早朝から出かけているみたいだった。腫れた目蓋を擦りながらリビングに行くと、美味しそうな朝食と彼女からの手紙が置いてあった。


猿夫くんへ。
具合は良くなった?朝ご飯、食べれそうだったら食べてね。今日はお休みだと思うから、ゆっくりしてください。晩ご飯、食べたいものがあったら教えてね。美味しいもの、つくるよ!
真より。


……やっぱりあれは俺の勘違いなのだろうか。離婚したい相手にこんな優しい文章を綴れるだろうか、いや、あの可愛い声でハッキリ離婚と言っていたじゃないか、なんて疑心暗鬼にとらわれながらも胃に優しいものばかりで作られた朝食をぺろりと平らげてしまった。こんなにも愛情を感じるのに、彼女は俺と離婚したがっているなんて信じられない……またしても目頭が熱くなって、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちてきた。


……やはり、彼女からちゃんと話を聞こう。シャワーを浴びてから外出する準備を整え、家を出た。まるで俺の心を映しているかのような曇り空の中、どうすれば真を失わずに済むのか、とぼとぼ歩きながら考え続けた。


しばらく歩いていると真の所属するデザイナー事務所の近くに辿り着いていた。彼女のことで頭をいっぱいにしていたからだろうか、無意識に足を運んでしまっていたようだ。ふと、近くのカフェに目をやると、真剣な顔つきで同僚と打ち合わせをする真の姿が目についた。何事にも一生懸命な姿もなんとも可愛らしい、と目を奪われていたが事態は一変、またしても彼女の口からあの言葉が飛び出した。


「ところで、昨日の話なんだけど、多分来週には離婚するんじゃないかな……?」

「えっ!?来週!?早くない!?」

「うん、あの後もう一度考え直してみたんだけど……間違いないよ、うん、絶対来週離婚する!」


絶対来週離婚する。今、確かにそう聞こえた。俺達の夫婦生活は来週には終わってしまうのか……そう思うと涙が止まらなくなってしまった。俺の愛が重いばかりに、随分心労をかけてしまっていたようだ。この10年近く、一日たりとも彼女を想わない日などなかった。それが、間違いだったのか。どうしたらいいのかわからなくなった俺はふらふらとした足取りで家へと帰った。





リビングのソファで横になっていたらいつの間にか眠っていたみたいで。気がつくとほわっと食欲をそそるとても良い匂いがした。これは、カレーの匂いだろうか。目を開けると俺の身体にはタオルケットがかけられていて、ソファの前にぺたんと座り、俺の手を握りながらすやすやと眠る愛しい妻の姿があった。本当に、本当に、離婚、したがっているのだろうか……そっと柔らかい頬に指先を滑らせると、彼女はびくっと身体を跳ねさせてぱちぱちと瞬きをした。


「……猿夫くんっ!具合は?大丈夫?カレー作ったんだけど、食べられる?無理だったら……」

「真、聞きたい、こと、が……」

「えっ?……!?ど、どうしたの!?どこか痛いの!?やだ、大丈夫!?」


丸くて大きい綺麗な目を見開きながら、俺の頬や額に小さな掌を当てる真。世界一可愛い、俺の、お嫁さん。もうすぐ、彼女は、俺の側から、いなく、なる。そのことが本当に悲しくて、辛くて、涙をぼろぼろと零してしまった。


「……真、俺のこと、嫌い、に、なった、の?」

「えっ!?な、何言ってるの!?そんなわけ……」

「俺、知ってる、よ。真、来週、離婚、する、んでしょ……?うっ、ぐすっ……」

「来週……離婚……?えっ!?し、知ってるの!?」


やっぱり、そうなんだ……


「真、俺は、嫌だ。真と、ずっと、一緒に、いたい。嫌なところ、直すから。真が望むなら、何だってする。だからお願い、離婚、しない、で……」

「す、するわけないじゃない!!なんでわたしが猿夫くんと離婚するの!?わたしだってそんなの、やだ、よ……う、うぅっ……ぐすっ……」


どういうわけか真も泣き出してしまった。もうわけがわからない。でも、俺のやらなきゃいけないことだけははっきりわかる。彼女の、最愛の人の笑顔を守ることだ。俺はすぐに身を起こして彼女の小さな身体を抱きしめた。するとすぐに首に腕を回してくれて、何の言葉もなしにお互い何度も何度も唇を擦り合わせるようにキスをした。そのまま床に押し倒して、愛してるの言葉と共に愛の営みを開始した。


真は全く抵抗すること無く、むしろ俺の全てを受け入れてくれた。行為の最中、何度も何度も愛してると伝えたら、涙を流しながら、だけど、とても可愛らしい微笑みを見せてくれて、わたしもあいしてる、と何度も何度も甘い吐息と共に漏らしてくれた。





愛の営みを終えた俺達は繋がったままぎゅうっと固く抱きしめあっていた。それからあの来週離婚する、という言葉の真意を尋ねると、最近同僚と一緒に見ているドラマの話だったとのことで。来週の放送回で主人公の親友夫婦が離婚するのではないかという予測を立てていたらしい。漸く誤解が解けて安堵した俺は、ひとまずお互いの身なりを整えて、夕飯を食べ終え、ふたりでソファに寄り添って座り話の続きをすることにした。


「早とちりしてごめんね……しかもこんなところでいきなり襲っちゃって……俺、最低だよね……」

「ううん、猿夫くん、不安だったんだよね。ごめんね、わたし、気付かなくって……」

「真が謝ることなんて何一つないよ!本当にごめん!俺が……んむ。」


真は俺の言葉を遮るように、俺の唇に自分の柔らかいそれを強く押しつけてきた。


「えへへ、謝るのはもうおしまい!そうだ、今日は一緒にお風呂入ろっか。」

「許してくれるの……?」

「わたし何も怒ってないよ。猿夫くん、泣いちゃうくらいわたしのことだいすきなんだなあって嬉しかったよ!」

「……愛が重い、のは、嫌、じゃないの?」


俺が小さく呟いたら、真はぱちぱちと瞬きをして、それから歯を見せてニッと笑って俺に思いきり抱きついてきた。


「猿夫くんの優しい愛が重いのは良いの!もーっと重くても平気だよ!だからもっともっと頂戴ね!」





愛が重いのは




「そっか……ありがとう……」

「ね、お風呂、あがったら……する?」

「……えっ!?い、いいの!?」

「うん……猿夫くんがちゃんと安心できるくらい、いっぱい、愛し合いたいな……だめ?」

「う、ううん!ぜひ!喜んで!真!愛してる!」

「きゃっ!ま、待って!んっ……ぁん……!」


結局ソファでもう一回、その後風呂場でもう一回、さらにはベッドでも三回ほど、愛の営みを繰り返してしまった。流石に怒られると思ったけれど、彼女は優しく微笑みながら、満足できたかな?と聞いてくれた。その微笑みのおかげで元気を取り戻した俺はやっぱりもう一回、と彼女に覆い被さったのだった。


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