今日は猿夫くんは出張ということで、わたしはひとりでお留守番。明日の昼に疲れて帰ってくるはずの彼に美味しいものをたくさん作ってあげたくて、今日中に明日の分までお仕事を片付けようと朝から自室でパソコンと睨めっこしていたのだけれど、突然スマホが鳴り出して。画面には非通知の文字。少し躊躇したけれども、もしかして新規の依頼だろうかと思ったわたしはスマホをそっと耳に当てた。
「お電話いただきありがとうございます、株式会社アップルワークスの尾白でございます。」
「ハァハァ……」
「……?もしもし?どこか体調でも……」
「い、い、今、勃起してるんだ……」
「えっ?」
「オジロさん……オジロさん……ハァハァ……うっ、イく……っ!」
「……きゃああああああああ!!!」
ガシャン!!
思わずスマホを壁に投げつけてしまい、派手な音を立ててスマホの画面は割れてしまった。全身がガタガタと震える。目がじわじわと熱くなって、心臓がどくどくとうるさい。怖い、怖い。気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い。いやだ、いやだいやだいやだ……突如、うっとむせ返る様な感覚に襲われたわたしはお手洗いに走って、胃の中のものを全て吐き出してしまった。少し服が汚れてしまったのだけれど、この服を見ると思い出してしまう気がして、わたしは服を脱いでゴミ袋に入れて中が見えないよう固く縛った。
「うっ、ぐすっ……ま、猿夫くん……」
下着姿のままフラフラと自室に戻って壊れたスマホを持ってリビングのソファにぼすんと腰掛けた。スマホはいくらタップしても全然動く気配はない。お家の電話はまだ設置してないし、パソコンのメールソフトには彼の連絡先を登録していない。どうしよう、怖くて怖くてたまらない。震えは止まらないし、はっはっと息が荒くなって、シーンとした空間にいると先程の気持ちの悪い声を思い出して、また吐き気がこみ上げてきた。涙も、止まらない。わたしは再びお手洗いで胃酸のような酸っぱい液体を吐き出して、歯磨きをして口を濯いで、猿夫くんのお部屋へ向かった。ドアを開けると、彼の匂いが広がってとても安心する。
「猿夫くん……ぐすっ……うぅ、早く、帰ってきて……」
わたしは目についた彼の黄色い大きなシャツを着た。彼の匂いに包まれていることで少しだけ、本当に少しだけ気持ちが落ち着いた様な気がする。それから寝室へ向かって、いつもふたりで寝ている大きなベッドにぼすんと寝転がったけれど、とても広く感じてしまう。お留守番をすることは初めてじゃないのに、今日はとてつもない不安に包まれてしまったからか寂しさが倍増でなかなか涙が止まってくれない。心が、壊れてしまいそうだ。
「猿夫くん……」
わたしは大きなお猿さんのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、泣き疲れてそのまま意識を失ってしまった。
「……真?大丈夫?何かあったの?」
「……!!ま、ま、猿夫くん!!う、うう、うわああああああん!!」
「何があったの!?こんなに目を腫らして……」
目を開けるととても心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる猿夫くんがいて。驚き、不安、緊張、安心、いろんな気持ちがぐるぐると混ざって、わたしは大泣きしながら彼にぎゅうっとしがみついた。ちらりと時計を目に入れたけれど、もう夜の20時で。彼がここにいるということはもしかしてあれから1日経ってしまったのだろうか。思わず、どうして、と小さく呟いたのだけれど、彼はその意図を汲んでくれたようで。
「今日、泊まりは先輩だけになってね、俺は日帰りできそうだから帰るねって連絡しようとしたんだけどメッセージに既読つかないし電話しても繋がらないし……もう気が気じゃなくて慌てて帰ってきたんだ。」
「ご、ごめんなさ……」
「ううん、何も謝ることなんてないよ。それより、何があったの?嫌だったら何も言わなくて良いけど……」
「あ、あのね……うっ、うぇっ……」
わたしは猿夫くんにコトの顛末を話そうとしたのだけれど、思い出そうとすると再び吐き気に襲われて。
「真?どうし……」
「……!!ご、ごめんなさい!!」
「真!?ど、どこに……!?」
慌ててお手洗いに駆け込んで、再び胃酸を吐き出してしまった。猿夫くんはすぐに追いかけてきてくれて背中をさすさすとさすってくれたのだけれどわたしはそれをパチンとはたき落としてしまった。
「あ……ち、違うの、ご、ごめんなさ……」
「……何か、怖くなるようなことがあったんだね。」
猿夫くんはプイッと背を向けてしまった。叩いてしまったから、きっと、怒っているに違いない
「ご、ごめ……」
「尻尾。」
「えっ……?」
「さっきから俺の目見ないし、もしかして男が怖いのかなって。だから、尻尾、いくらでもぎゅってしてもいいからさ。昔から不安な時は俺の尻尾に抱きついてたでしょ?」
少しだけ顔をこちらに向けて、困ったように笑いながら頬をかいていた。猿夫くんのとびきりの愛情と優しさに胸がいっぱいになってしまい、わたしはお言葉に甘えて尻尾にぎゅうっと抱きついた。すると彼は器用に尻尾の先でわたしの頭を優しく撫でてくれた。ふさふさの毛が擽ったくて、少しだけふふっと笑ったら彼はとっても嬉しそうにぶんぶんと尻尾を揺らしたのだけれど、わたしも一緒に動かされてしまった。
「きゃっ!」
「あっ!ご、ごめん!」
「えへへ、嬉しかったんだよね?尻尾、ぶんぶんしてたから……」
「う、うん、真が笑ってくれたから……やっぱり可愛いなって……」
「ありがとう……ね、チュー、してもいい?」
「……えっ!?い、いいの?」
「うん……おかえりなさいのチュー、まだでしょ……?」
「あ……う、うん……」
彼がゆっくり立ち上がって、わたしもゆっくり立ち上がる。いつも通り少し屈んでくれたから、わたしも少し背伸びをして。
「おかえりなさい……」
「ただいま、真、好きだよ。」
「わたしもだいすき……」
いつもと同じ言葉を交わして、ちゅうっと触れるだけのキスをした。唇を離したら、抱きしめていい?と聞かれたのだけれど、無意識に目線を下げたら彼のズボンの股間が少し張っていることに気がついてしまって。
「やっ……い、いや……」
「……!!ご、ごめん!泣かないで!い、いや、泣いてもいいんだけど、えっと……あっ、これ、これ使って!」
「ぐすっ……あ、ありがと……うぅ……」
猿夫くんが出してくれた青いハンカチを受け取って、目に当てて涙を吸い込ませた。あれだけ泣いたのに涙はまだまだ止まってくれない。世界でいちばん大好きな愛しい旦那様の愛の抱擁すらも拒否してしまうなんて、わたしはなんて悪い子なんだろう。そう自分を責めてしまって、涙はどんどん出てくるばかり。彼はわたしに触れることができずに躊躇してるみたいだったけれど、あっ、と小さく呟いてから一瞬リビングに行くね!と叫んで走り去ってしまった。けれどもすぐに戻ってきてくれて、片手にどっさりとわたしの大好きな一口サイズのチョコレートが。
「チョコ、好きでしょ?食べる?」
「うん、食べる……」
「開けてあげる。どれがいい?」
「……これ、これがいい。」
「ん……はい、あーんしてごらん。」
「あーん……」
彼は包み紙を開けて、小さくて可愛いチョコを口に運んでくれた。もぐもぐと口を動かすと、優しいミルクチョコの味が広がって、しっとりとした食感がとても楽しくて、あまりの美味しさに思わずにんまりと微笑んでしまう。もう一つ食べる?と聞かれて、ぶんぶんと首を縦に振ったら彼は目を細めてとっても嬉しそうに微笑んでくれて、同じチョコの包み紙を開けて再びわたしの口に運んでくれた。
「……俺、風呂入ってくるけどひとりでいられる?」
「……すぐ出てきて欲しい……」
「ん、わかった。ささっとシャワー浴びるだけだから大丈夫。浴室のドアと脱衣所のドア開けとくからさ、何かあったらすぐに呼んで。」
「うん、ありがとう……ごめんなさい……」
「何も謝ることないよ。大好きな妻に頼ってもらえてるんだから嬉しいよ。じゃ、行ってくるね。」
猿夫くんはわたしの額にちゅっとキスをすると、シャワーを浴びに行ってしまった。わたしはリビングから丸椅子とぬいぐるみを持って行って、脱衣所の前で彼がシャワーを浴びている音を聞きながらぎゅうっとぬいぐるみを抱きしめていた。
心の傷
真、何があったんだろう……まさか、変質者に襲われた……!?いや、でも怪我や部屋の乱れはなかったし……怖い夢でも見た?いや、でもあの怯え様……心配だ……