お昼休み、透ちゃんから借りた数学の教科書を返しにA組の教室に行った時のこと。透ちゃんの席で、先日雄英のビッグ3と呼ばれる通形ミリオ先輩に全員お腹をパンチされて一撃でやられちゃったという話を聞いていると、教室の入り口のあたりが少しざわざわしていることに気がついた。ぱっと目をやると食堂から帰ってきたであろう猿夫くんがすごく綺麗な女の人に話しかけられていた。
「ねぇねぇ尾白くん!その尻尾は自分の身体を支えられるの?人を持ち上げることはできるの?どのくらい耐久性があるの?すっごく不思議!」
綺麗な女の人は猿夫くんにとても顔を近づけて話しかけた。その瞬間、わたしの心臓にずくんと嫌な痛みが走った。やだ……離れて、猿夫くん……
「あ、いや、あの……」
猿夫くんは顔を赤らめて、両手を前に出して距離を取ろうとしているのだろうけど、綺麗な女の人はぐっと尻尾に顔を近づけて、じーっと凝視している。
「触ってみてもいいかな?いいよね?」
「あっ、ちょ、ちょっと……」
あろうことか、その女のひとは猿夫くんの尻尾をにぎにぎと触り出してしまったのだ。彼はそのまま微動だにせず、あっとかえっととかを繰り返しているだけで、やめてください、なんて言う気配はない。それどころか顔を赤らめて照れている始末。それを見ているとわたしの中にモヤモヤした変な気持ちがたくさん広がってなんだかすごく気持ち悪くなってきて、目が、熱くなってきた。痛いとさえ感じてしまう。
「っふ、う、うぅ……ぐすっ……」
だめだ。涙を堪えきれなかった。猿夫くんはわたしのなのに!触らないで!いやだ!返して!、そんな気持ちでいっぱいになって、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。透ちゃんがわたしの名前を呼んで慌てて声をかけてくれているのが聞こえるけれど、目と喉が熱くて上手く声を出すことができなくて。透ちゃんにとても小さくごめんねと呟いて、わたしは猿夫くんがいる方とは反対側の出口に歩き出した。
「えっ!?真……!?待っ……!」
猿夫くんはわたしがA組の教室にいたことにとても驚いていたみたいだ。赤い顔が一瞬でさぁっと青ざめていた。彼はわたしの方へ手を伸ばして一歩踏み出したのだけれど、つられてあの綺麗な女のひとも一緒に一歩踏み出したのを見てしまったら、かっと頭が熱くなってしまって。
「来ないで!!猿夫くんなんて……きらい!!」
「きっ……嫌い……」
猿夫くんは細い目を見開いてとても傷ついた顔をしていた。綺麗な女の人も含めて、教室中の人たちがわたしと猿夫くんを交互に見て、シーンと静まり返ってしまった。空気に耐えきれずわたしはぷりぷり怒ったまま逃げるようにD組の教室に走った。涙で視界が滲んで、ぼやけてほとんど前が見えない。なんとか教室までたどり着いたけれど、目にゴミが入ってしまったのだろうか、視界はほぼ真っ暗だ。
「ちょ、ちょっと真、なんで泣い……な、何その目!?」
「えっ……?」
「うわっ!!統司、病気!?大丈夫か!?」
「えっ、えっ……?」
目にゴミが入ってるだけかと思ってゴシゴシと擦ってみたけれど、視界は真っ暗で何も見えない。わたしの目、どうなっちゃったんだろう……大好きな親友が、あたしの顔わかる?と聞いてくれるけれど、どこにいるのかわからない。手を伸ばしてみても、すぅっと空を切るだけだ。
「わ、わたしの、目、どう、なってるの……?」
「真っ白になっちゃってるよ……」
もう一人の親友の声がする。だけど、その姿は見えない。
「えっ?し、白?わたしの目、真っ白なの?」
「10年以上、真と一緒にいるけどこんなの一回も見たことないよ……」
本来わたしの目は真っ黒な色をしているはずだ。白色になんてなったことないのに……ひとまず座った方がいいよと近くの女の子から促されて、席に着こうと思って親友に手を引かれるまま歩き出したのだけれど、何かに躓いて前のめりに倒れてしまった。
「あうっ!!い、痛い……」
「統司!悪ィ!」
「う、うぅ、平気……ごめんね、ちゃんと見えなくて……」
「……うわっ!悪ィ、膝から血が……保健室行くか?転ばせたの俺だし、俺が連れて行くよ。」
「あうぅ、ごめんなさい……」
「いや、悪いの俺だし……ん、統司の前にしゃがんでるから……」
「は、はい。あの、ありがとう……」
「いーよ、俺、保健委員だし。」
すっとしゃがんで手を伸ばして、保健委員の彼の背に乗り、ゆっくりと立ち上がってもらった。見えないのが怖くてぎゅっと腕に力を入れたら、ううっ!と彼の悲鳴が聞こえた。
「ご、ごめんなさい!い、痛かった……?」
「い、いや、その、統司、胸が……」
「……きゃあああ!!」
「ご、ごめん!!あっ!!」
「ひっ!?」
「真っ!!」
保健委員の彼の背で悲鳴をあげたら彼は驚いてわたしの脚を支える手をパッと離してしまって。だけどわたしは地面に身体をぶつけることはなかった。わたしの身体は誰かに抱き上げられているからだ。わたしのことを真と呼ぶ男の子はこの学校にひとりしかいない。
「良かった……真が怪我す……け、怪我してるじゃないか!?なんで!?どうしたの!?」
「えっ、あ、あの、転んで……」
「血が出てる!!早く保健室に……ほら、ちゃんと捕まって!!」
「は、はい!」
猿夫くんが本当に慌てているのが声色だけでとてもわかる。そんなにひどい怪我なのだろうか。膝の裏に腕を通されているからきっとお姫様抱っこをされているに違いない。わたしはいつもの感覚でさっと手を伸ばして、ぎゅっと彼の首に腕を回した。落ちる、と思った時からぎゅっと目を瞑っていたので、彼にこの真っ白な目は見られていない。これ以上心配をかけたくなくてわたしはぎゅっと強く目を閉じたまま、彼にこの身を委ねた。彼はそのまま駆け出したのだろう、風を強く感じるから。
保健室に着いてから、リカバリーガールが手当てをしてくれたのだけれど、怪我はひどいですか?と聞いたら反応がおかしくて。猿夫くんに聞かれたくない、と小さく呟いたら、念のためお腹をぶつけてないかチェックするから男は外にでな!と猿夫くんを保健室の外に出してくれた。わたしは目を開けて、自分の目が真っ白なこと、視界が真っ暗なことを告げた。
「そうなのか……怪我は全然ひどくないよ。尾白の奴が血相を変えて来たから何事かと思ったよ……」
「ご、ごめんなさい……」
「尾白はあんたのこととなると人が変わるからね……はい、手当ては終わったよ。おや、目は少し黒っぽくなってるよ?」
「えっ、本当ですか?」
そう話していたら、ガラッとドアの開く音がして。わたしは再びぎゅっと目を閉じたのだけれど、ふわりと背後から誰かに抱きしめられた、まぁ、きっと猿夫くんだろうけれど。リカバリーガールは職員室に忘れ物を取りに行くから、落ち着いたら教室に戻りなさいよ、と残して保健室を出て行ってしまった。
「真、ごめんね……俺のせいで、走って転んで怪我しちゃったんだよね……」
「そ、そんなことないよ、わたしが勝手に転んだんだよ……」
「ううん、俺が傷つけちゃったから……ごめんね。俺、真が男子におんぶされてるの見てすっごく嫌だった。あんな苦しい気持ちにさせたのかなって思ったら、俺……」
猿夫くんの腕が震えて、ぎゅうっと力を込められた。あんなにひどいことを言ってしまったのに、彼はわたしを追いかけて来てくれて、落っこちそうなわたしを救けてくれて、こんなにわたしを大切に想ってくれているのに……どうして、どうしてわたしは彼にあんなにひどいことを言ってしまったのだろう……
「猿夫くん……」
「何……?」
「うっ……ぐすっ……ごめん、なさい……きらい、なんて、ひどいこと……」
「ううん、俺が悪かったから……傷つけた上に泣かせちゃって……嫌いって言われても仕方ないよ……」
「あ、あの……」
「ごめんね、仲直り、してくれる?」
彼はどこまで優しいのだろうか。わたしはぐいぐいと彼の腕を外して、くるっと振り向いて、彼に腕を伸ばしてぎゅうっと抱きついた。わたしに引っ張られた彼はわたしの隣にぼすんと座り、外れた腕をもう一度わたしの身体に回してきた。
「仲直り、する……」
「ありがとう。ね、キス、してもいい?」
「うん……仲直りのチュー、する……」
猿夫くんはわたしの顔を両手でそっと優しく包んで、ちゅうっと少し強く口付けてきた。唇を離してもわたしが目を閉じていたからだろうか、ちゅっちゅと何度も何度も口付けを落とされた。ぱちっと目を開けると、彼の綺麗な金髪と王子様のようなかっこいい笑顔が視界いっぱいに広がっていた。彼のキスはきっと愛のお薬に違いない。わたしは彼にありがとうと告げて、今度はわたしの方からそっと彼に口付けをした。
「えへへ、猿夫くん、だいすき!」
「うん、俺も大好きだよ。じゃ、教室に戻ろっか。」
「きゃっ!」
猿夫くんはわたしの身体に尻尾を巻きつけて、わたしを尻尾に座らせながら支えるという器用なことをして保健室を出た。教室に帰る途中であの綺麗な女の人に遭遇して、人を座らせられるくらい強靭な尻尾なんだね!すごい!と驚かれたのだけれど、今度はわたしが彼女の質問攻撃のターゲットにされてしまったのだった。
愛のお薬
「ねぇねぇ!あなたの目、とっても綺麗!それって個性なの?どんな個性?目からビームが出るの?それとも相手を石にするの?」
「えっ、えっと……」
「あっ、それより、尾白くんのとっても可愛い恋人ってあなたなの?3年生の教室でも噂になってるんだよ!学内一のラブラブカップルで、彼氏は普通だけど彼女の方はすっごく綺麗な目でとても小さくてとびきり可愛いって!」
「ふ、普通!?とんでもない!猿夫くんは世界一かっこよくて優しくて……!わ、わたしなんて全然……!」
「わー!もしかして惚気ってヤツ?もっと聞きたいな!ねぇねぇ、二人はもうキスしたの?それとも……」