彼の腕の中
今日のお仕事はお外だったから暗くなる前に帰らなきゃとお家への道を早足で進んでいる。早足なのは、早く愛する旦那様の元へ帰りたいからだ。早く彼の胸へ飛び込みたい。彼の腕に抱きしめられたい。大好きな猿夫くんに。


「ただいまっ!猿夫くんっ……」

「真なんて嫌いだ……」

「えっ……」


お家に帰ってきた瞬間、猿夫くんからこんな言葉をかけられてしまった。思わず鞄を落としてしまうほど驚いた。これまで10年以上彼と共にいて、嫌いだなんて言われたことは一度もないのだから。


「あ、あの……い、いま……」


靴を脱いでそっと一歩踏み出すと、彼はわたしをキッと睨んで大きな声を出した。


「出て行けよ!二度と俺の前に現れるな!」

「……!!うっ……ひっ……な、んで……ぐすっ……う、う、うぇ……」

「……泣けばいいと思ってるわけ?」


世界の色は鮮やかだ。突然こんなことを言われて理解できるわけもなく、ただただ涙を流すことしかできなかった。喋ろうとしてもうまく声は出ないし嫌われる理由だってわからない。浮気はもちろん、男の人と接触した覚えもない。彼は細い目を吊り上げてじろりとわたしを睨んで来た。ひっ!と悲鳴を上げて肩を竦めたらあからさまに溜息をつかれてしまった。もう、ここに、わたしの居場所は、ないんだ。


「ご、ごめん、なさい……ぐすっ……っふ……で、出て、う、うぅ……行きます……」


彼はフンと鼻を鳴らすと何も言わずにリビングへ行ってしまった。わたしは廊下にぽろぽろとたくさん涙をこぼしながら自分のお部屋へ行って、今必要な通帳や印鑑、カードやお金を持てるだけ持って、学生時代に使っていた大きなリュックに詰めて、ひとりで寂しくお外に出た。





わたしがわがままだから?小さいから?可愛くないから?作ったご飯が美味しくないから?ヤキモチ妬きだから?すぐにぷんぷん怒るから?それとも、他に好きな人ができたから?いくら考えても答えは出ない。わからない。夜の街を行くあてもなくふらふらと歩いていると、突然知らない男の人に腕を掴まれてしまった。


「お嬢ちゃん、こんな時間にひとりかい?」

「やっ……は、離して、ください……」

「ああ、ごめんごめん……そんな大きな荷物持って……家出?」

「……そんなところ、です、多分。」

「多分……?出て行けとでも言われたの?」

「……ひっ、う、うぅ……ぐすっ……」

「こんな所で聞く話じゃなかったね、そうだ、ついてきてごらん。」


どうしようかと困ったけれど、今のわたしに行くあてなんかない。お兄ちゃんの家にはお兄ちゃんと一緒に住んでいる可愛い女の人がいるし、厄介になるわけにはいかなくて。仕方なくわたしは彼の後ろをついて行った。





「ふぅん……キミみたいな超可愛い嫁さんにそんなこと言う旦那がいるなんてねェ……」

「そ、そんなこと、ない、です。わたし、全然彼に釣り合ってなくて……」

「テイルマンだろ?まぁ、ある意味釣り合ってはないねェ。」

「し、知ってるんですか!?」

「そりゃもちろん。キミは林檎ちゃんだろ?一目でわかったよ、そんだけ可愛い子なかなかいないし。」

「可愛くなんて……ない、です……」


本当に可愛いのならわたしは彼に嫌われたりしていないだろう。彼はいつもわたしを可愛い可愛いと言ってくれていた。お世辞でしかないのはわかっていたけれど、やっぱり好きな人から可愛いと言われれば舞い上がって嬉しくなってしまうわけで。ばかだな、わたし。


「ふっ……ぐす……う、うぇ……」

「あーあーこんなに泣いちゃって……テイルマン、嫁さん泣かせちゃ世話がないねェ……」

「ひっ……ぐすっ、ふ……あぅ……」

「……俺さ、店経営してんの。ちょっとオトナのお店。林檎ちゃんさ、可愛いしウチで働かない?住み込みもあるし。」

「住み、込み……?」

「そ、大丈夫、女の子ひとりでもじゅーぶん稼げる仕事だよ。林檎ちゃん可愛いからさ、すぐお客さんたくさん引っ張れるから。」

「ひっぱる……?」


お店を覗いてみるかと言われて、とりあえず住むところがあるのなら、と思って見るだけ見てみようと一緒にお店を出た。そして、彼の指差す方向へ歩き出した途端、わたしの身体は背後から誰かに思いっきり抱き竦められた。お腹が少し苦しい。


「真!!やっと見つけた……!!ごめん!!俺、あんなひどいこと思ってないよ!!真を愛してる!!嫌いだなんてこれまで一度も思ったことあるわけないよ!!俺は!!俺はキミじゃなきゃダメなんだ!!」

「ひっ……!!や……いや!!」

「あっ、ご、ごめん!あ、その、お、大きい声、嫌だよね、ごめんね……あの、俺の話、聞いてほしいんだ……」

「わ、わたし、のこと、い、い……」

「要らないなんて思ってないから!!一秒でも早く帰って来て欲しいよ!!ほら、俺の目、見て……」

「…………あ……」


世界の色は鮮やかだ。屈んで目線を合わせてくれる彼の少し垂れた細い目をじいっと覗き込んだら、目の周りが腫れていて涙を流した跡が見えた。今もうるうると潤んでいて、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。好きな人の泣いちゃう姿なんて、見たいわけ、ない。わたしは猿夫くんの首に両腕を伸ばして、そっと彼に抱きついた。


「泣かないで……」

「ごめん……真……帰って来て……」

「帰っても、いいの……?」

「当たり前だろ!?キミは俺の妻で、家族で……俺達の家なんだから……あ、でも俺が出て行けなんて言っちゃったから帰れなかったよね……ごめん……お、思ってないよ、出て行けなんて全然思ってない!!むしろキミが居てくれなきゃダメなんだ!!だから……」


ここまで言われてどうして彼を信じずにいられるだろうか、いや、いられない。わたしは彼の頬にぴったりと自分の頬をくっつけた。



「……一緒に、帰っても、いい?」

「……!!も、もちろんだよ!!あ、えっと、じゃ、じゃあ、手、繋ごう。一緒に帰ろう、ね?」

「うん、帰る……あ、あの、ご……」

「真が謝ることなんて何一つないから!!後でちゃんと説明するから、早く帰ろう……」

「あ、ちょっと待って……」


帰る前に先程の男の人に話を聞いてくれたお礼を言おうと思って振り向いたのだけれど、男の人は凄い形相で猿夫くんを睨んでいた。あまりの恐ろしさに、ひっ!と小さく悲鳴を上げて猿夫くんの後ろにさっと隠れてしまった。


「あ、あなたは……?妻が何か……?」

「チッ……もう解けちまったのかよ。」

「えっ?」

「俺の個性は天邪鬼……俺は他人に嘘だけを喋らせる個性なんだよ。」

「……!?そ、その爪……!!お前、今朝の詐欺師だな!?」

「さ、詐欺師……?」

「チッ!ここは分が悪い……!」

「あっ!!ま、待て!!」


あの男の人は身を翻して走り去ってしまった。しかし今の会話……わたしはそんなに頭は良い方ではないと思うけど、わたしでも少し考えればわかることだった。猿夫くんは彼に嘘を喋らされていたのだ。わたしの個性でも見破れない、本音だと思い込むほどの嘘を……きっと、彼はとても辛くてたくさん傷ついたに違いない。でも、それでも彼は、こんなに目を腫らして汗だくになって、こんなに遠くまで走って来てくれたのだ。


「……猿夫くん、わたし、猿夫くんのことだいすき……嫌われちゃっても、だいすきなの……」

「だから嫌いになんて……」

「もしも、の話だよ。わたしでも、わかるよ。うそ、つかされてたんでしょ……?猿夫くん、いつも正直で真面目だから、うそ、つかされて辛かったよね、傷ついたよね……ごめんね、わたし、気付いてあげられなくて……」

「な、何を言うんだ!真は何も悪くないよ!俺の心が弱かったんだ……でも、信じてほしい。俺は一度たりともキミを要らないなんて思ったことはもちろん、嫌いだなんて思ったこともない!俺はキミが愛しくて愛しくて堪らない……」

「猿夫くん……」

「真……」


ここが街中で、しかも往来のど真ん中なんてことは忘れていて、わたしたちは強く抱きしめ合って何度も何度もキスをした。小さな子どもが、テイルマンが女の人とチューしてる!なんて言うもんだから、わたし達はハッと慌ててその場を後にした。なんて恥ずかしいことをしてしまったのだろう……





仲直りの晩はやっぱりお決まりのふたりで作るカレーライスだ。いつも通りの手順で隠し味にチョコをひとかけらだけ入れる美味しいカレーを作ってふたりで仲良く食べた。その後はふたりで一緒にお風呂に入ってお互いの身体を洗いっこ。ドライヤーでお互いの髪を乾かしたら、寝る準備を済ませて、彼に抱かれて寝室へ。


彼はわたしをそっと優しくベッドに降ろすと、ぎゅうっと力強く抱きしめてくれた。彼の匂いに、温かさに、とても安心する。これが、ここが、彼の腕の中が、わたしの帰るところなんだ。


「猿夫くん……すき……だいすき……」

「俺も大好きだよ……ずっと一緒にいよう……」

「うん……一緒にいる……」


ちゅっちゅと何度もキスをしながら、彼の手がわたしの身体を優しく弄ってくる。今日も優しい愛の営みが始まるのだろう。





彼の腕の中




「真、愛してるよ……」

「わたしも……えへへ……幸せだなあ……」

「はぁ……本当可愛い……でも、あの詐欺師には気をつけなきゃな……」

「あ、そ、その話なんだけど……」

「ん?今朝仕事で強盗の現場に出会してね、見た目が少し違ったからわからなかったけどその時の犯人の仲間。目撃者に嘘の証言させてて散々だったよ……」

「そ、そうなんだ……悪い人だったんだ……」


もしかしたらわたしも個性にかかって、ついて行っちゃうなんて言ってしまったのだろうか。もしついて行っていたら……そう思うと体がぶるっと震えて、わたしは慌てて彼の腕の中でぎゅっと彼にしがみついたのだった。






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