信じているから
高校の時のお友達とお買い物をしていた時のこと。ガトーショコラの美味しいお洒落なカフェでおやつに舌鼓を打っていると、少し離れた席からこんな話が聞こえてきた。


「えーっ!?あんなに美人の奥さんがいるのに!?」

「そうなの、ビックリだよね!」

「まさかテイルマンが風俗店からねー……」


わたしは持っていたフォークをぽろっと落としてしまった。お友達からどうしたの?と心配されたけれど、なんだか目頭が熱くなってうまく声が出せなくて。ついにぽろりと涙をこぼしてしまったら、彼女は慌てて真っ白なハンカチを差し出してくれた。


それからの記憶はぼんやりとしかなくて、気がつけばお家のキッチンに立っていてミニサラダ、根菜と牛肉の煮物、鮭のムニエル、大根とほうれん草のお味噌汁、といつものようにたくさんのメニューの夕食を作り終えていた。配膳を済ませたところで玄関の鍵が開く音がした。旦那様のお帰りだ。


「……おかえりなさい。今日は早かったね。」

「ただいま、最近仕事が立て込んでて……いつもありがとう、今日は俺が風呂掃除と洗濯物畳むのやるよ。」

「うん……ありがとう……」

「真……?なんか、元気ないね……何かあった?」

「ううん……夕飯、できてるから一緒に食べよ……」

「あ、う、うん……」


わたしに元気がないからだろう、猿夫くんは少し尻尾をしゅんと垂れさせていた。最近帰りが遅いのは、そういった所謂いかがわしいお店に通ってるからだろうか。夜の愛の営みもしばらくしてないし、やっぱり見た目も綺麗でえっちなことが上手なお姉さんの方が、いや、若くて可愛い子が、いい、のかな……


夕食を食べ終えて、彼がお風呂の準備を済ませてくれたのをわたしに報告しにきた丁度その時、わたしの目からつーっと涙が流れてしまった。


「真!?なんで泣いてるの!?どうしたの!?何か怖いことでもあったの!?」

「あ……う、ううん、なんでも、ないの。」

「何でもなかったら泣かないでしょ!?俺には言えないこと?」


言えないよ。だって、言ってしまって、もうわたしは用済みだって、必要ないって言われたら、わたし……わたし……どうすれば、彼の心を繋ぎ止められるだろうか。いや、それよりも、この涙はわたし自身が彼を信じ抜くことができていないことの証、なのではなかろうか。少しの沈黙の後、わたしは勇気を出して、やっと思いついた自分なりの答えを口にした。


「ま、猿夫くん、あの、後で、え、え、エッチ、しない……?」

「……えっ!?す、する!したい!でも、いいの?そんなに泣いてるのに……」

「うん……わたし、頑張るから……えっと、お風呂、入ってくるね……」


彼のお返事を待たずにリビングを出て、少し長めの入浴を済ませてから、彼と顔を合わさずに寝る準備を済ませた。わたしが色々と準備をしている間に彼は先に寝室に入ったようだ。リビングにあったはずの洗濯物は既に片付けられていて、何とご丁寧にお皿洗いも済まされていた。わたしは寝室のドアをおそるおそる開けたのだけれど、彼はブンブンと尻尾を振りながらベッドのシーツを織り込んでいた。


「あ、あの、お待たせ、しました。」

「いや全然!真とエッチするの久しぶりだなあ……楽しみだ……」


その言葉で、わたしの中の何かが音を立てて崩れ落ちてしまった。真と、ってことは、他の人と、した、の?わたしたちのそれは、愛の営み、じゃなかった、の?頭を殴られたように意識が朦朧として、上手く、息ができない。目が、熱い。彼を信じられないのが、辛い。


「っ……ぐす……う、うぅ……」

「……!?ど、どうしたの!?えっ、俺、何か変なこと言った!?」

「……ごめんなさい、今日、やっぱり、やめる……わたし、自分のお部屋で寝る……」

「えっ!?な、何で!?お、俺ががっついてるのが嫌だった!?ごめん!」

「ううん……猿夫くんは、悪くないよ……わたしが、悪いの……ごめんなさい……」

「あ、せ、せめて一緒に……ま、待っ……!」


またしても、彼のお返事を聞く前にばたんとドアを閉めてしまった。わたしが自分のお部屋のドアを開けようとした時、寝室のドアが開く音がした。わたしは慌てて自分の部屋に入って鍵をかけて、静かに大きく息を吐いた。すると、とんとんとドアがノックされた。


「真!ごめん!俺、何が悪いかわからなくて……何か傷つけるようなことをしたなら謝りたいんだ!だから、教えてくれない……?」

「ごめんなさい……あのね、猿夫くんは、悪くないの……」

「俺は謝られるようなことされてないから!きっと俺が知らず知らずのうちに真を傷つけて……」

「ごめんなさい、今日は、もう寝るね。お仕事、お疲れ様。おやすみなさい。」

「真……わかった、おやすみ……また、明日……」

「うん、また、明日……」


一緒にいてもう10年以上経つのに、どうしてわたしはこうも心が狭いのだろう。ベッドに潜り込んでしばらくしくしくと泣いて、気付かぬうちに眠り込んでしまっていた。





翌朝、いつもよりかなり早く起きて、朝食と彼のお弁当を作ってリビングのテーブルに置いて、もう一度ベッドに潜り込んだ。しばらくして、彼がお家を出る頃の時間にとんとんとドアがノックされた。ドアを開けると青白い顔をした猿夫くんが立っていた。


「ま、猿夫くん!?大丈夫!?顔色悪いよ!?」

「真が心配であんまり眠れなくて……真が泣いてるのに、俺は涙を拭くことも抱きしめることも出来なくて……すごく、辛くて……でも、真はもっと辛かったんだよね……本当にごめん……こんなに目を腫らして……」

「猿夫くん……」


猿夫くんはぽろぽろと涙をこぼしていて、慌てて袖で拭いながら足早にお家を出ようとしたのだけれど、わたしははしっと彼の服の袖を掴んでしまった。


「あ、ご、ごめんなさ……きゃっ……」


パッと手を離した瞬間、彼の尻尾で抱き寄せられた。逞しい腕の中に閉じ込められて、ふわりと良い匂いが漂った。尻尾の毛先が首に当たっているのが擽ったくて少し気持ちがいい。やっぱり、好き……大好き……


「……今日ね、仕事、休みなんだ。」

「えっ……あ、カレンダー、見てない……」

「せっかく弁当作ってもらったから、散歩にでも行って食べようかなって思ってたんだけど……でも、真を放っておけない。ごめん、ひとりでいたいかもしれないけど、俺は心配だよ……」


彼の目をじいっと見つめてお話を聞くと、その世界はいろんな色でいっぱいだった。彼のとびきりの愛と優しさが伝わってきて、わたしはぽろぽろと涙をこぼしてしまった。猿夫くんはまた慌てていたけれど、もう大丈夫だよとニッと笑ってわたしも抱きしめ返したら、嬉しそうに尻尾をブンブンと揺らしていた。彼に、本当のことを聞こう。だって、彼を信じているから。きっと、大丈夫。


「猿夫くん……最近、いかがわしいお店に行ったでしょう。」

「え?あ、あぁ……ドラッグの取引の現場を取り押さえたんだけど……って見てたの!?」


やっぱり、お仕事だったんだ……また、わたしの、早とちり……


「たまたま、聞いちゃったの。それで、その、わたしじゃ、満足できないから、そういうお店に、って思って……早とちりしてごめんなさい……」

「そ、そうだったのか……ごめんね、もし同じような仕事がある時はちゃんと言うよ。でも、俺は真じゃないとダメだし……って言うか、その、満足しなかったことなんて一度もないから……」


猿夫くんはお顔も尻尾も真っ赤にさせながらぎゅうっと強く抱きしめてきて、わたしの顔を自分の胸に押し付けた。恥ずかしいから顔あげないでね、だって。わたし、この人のお嫁さんで良かった……わたしも、猿夫くんに、わたしがお嫁さんで良かったって思ってもらいたいな……


「猿夫くん、あの、お願いがあるの……」

「何?なんでも言ってごらん?」

「わたしも、今日おやすみなの。だから……今晩、しない……?」

「……!?い、いいの?真がいいなら俺は大歓迎だけど……」


猿夫くんはわたしの顔を自分の身体から少し離して、真っ赤なお顔でじいっと見つめてきた。やっぱりいつ見てもかっこいいや……


「昨日はごめんね、わたし、今日は頑張るから……」

「かっ……可愛すぎる……」

「えへへ、今日はご馳走たくさん作るから……夜は一緒にお風呂に入って、それから、ベッドで、ね……」

「よ、夜まで待てるかな、俺……」





この後は、彼と手を繋いで街へお買い物に出かけた。買い物の途中、わたしがお手洗いのため席を外していると、彼が綺麗な女の人に声をかけられていて、なんだかデレッとしているように見えた。でも、もっと彼を信じると決めたわたしに不安なんてなくて。近付いて、どうしたの?と聞いてみると、綺麗な女の人は雑誌の記者さんで、テイルマンの愛妻家っぷりのインタビューをしていたらしく、デレデレしていたのはわたしのことを話していたとのことで。あまりにも嬉しくて彼の頬にちゅっとキスをしてしまったのだけれど、どうやら写真を撮られてしまっていたみたいで、翌週届いた見本誌にしっかり掲載されてしまっていたのだった。





信じているから




「あ……ご、ごめんなさい、お外でこんな……!写真、恥ずかしい、よね……」

「ま、まァ、ね……でも、逆に良かったかも。こんな可愛い奥さんがいるってみんなに信じてもらえるしね。」

「や、やだ、か、可愛いだなんて、そんなこと、全然……で、でも、嬉しい……えへへ……」





back
top