お部屋で勉強をしていた時のこと。お部屋の外がどたどたと慌ただしくて、少しだけドアを開けてお顔を覗かせたらその原因ははっきりわかった。上鳴くんと師匠が走り回っていたのだ。あの二人がD組の寮の女子棟に来るなんてわたしに用事があるに違いない。二人の名前を呼ぶとぱっと振り向いてこちらに駆け寄ってきた。
「統司!ここだったのか!部屋がわかんなくてよ……」
「あ、わたし、ネームプレートつけてないもんね……それより、何か御用?」
「お、尾白!尾白が、大変なんだ!だから今日は俺らの寮に……」
「……えっ!?猿夫くんが!?わ、わかった、すぐに行く!」
「あっ!?真ちゃん!?」
息を切らせた上鳴くんの言葉を聞いたわたしはすぐにお部屋を飛び出した。猿夫くんに何かあったかと思うと気が気じゃなくて。A組の寮の共同スペースに入ると、クラスメイトのほぼ全員がそこにいて、猿夫くんが長い脚を組んで椅子にかけていた。あんな座り方をしているのは見たことがない。ぱちりと目があったのだけれど、彼の目はつり上がっていて少し怖いとさえ思ってしまう。周りにいた人達の視線はなんだかとても不安そうだ。
「あ、あの……」
「真……どうしたの?俺に会いに来てくれたの?」
「えっ?……う、うん!そうなのっ!」
とても優しくニコッと笑ってくれたのはいつもの猿夫くんだ。わたしは上鳴くんの言葉を最後まで聞いていなかったから、彼の何がおかしいのかわからなくて、いつものように彼に駆け寄った。すると、彼はにいっと口元を三日月型に歪ませた。優しい笑顔じゃ、ない。一瞬背筋がぞくっとして、わたしは石になってしまったかのようにその場にぴしりと固まってしまった。
「あ……」
「真は今日も可愛いね。」
「ま、猿夫、くん……?」
「どうしたの?こっちへおいでよ。」
「あ……う……」
「そんなに怯えて……可哀想に……何か怖いことがあったんだね?みんな、俺、真を休ませてあげたいから席外すね。」
猿夫くんはすくっと立ち上がると、よいしょとわたしをお姫様抱っこしてすたすたと歩き始めてしまった。上鳴くんが言わんとしていたことが今ならわかる。いつもの猿夫くんじゃない。いつもなら、わたしが怖がっておどおどしていたら慌てて駆け寄ってきてどこか怪我でもしていないかとチェックしたり、優しく抱きしめて背中をとんとんと叩いてくれるはずだもの。だけど、彼のことが心配でこの腕の中から抜け出せないわたしはそのまま彼のお部屋へと運ばれてしまった。
「あ……あの……」
「何か怖いことがあったの?」
「あ、う……あ、あの、猿夫くん、どこか、変じゃない?具合、悪くない?」
「俺?全然、いつも通り普通だよ。それより、真はびくびくしてても可愛いね……」
「……!?」
やっぱり変だ。自分のことを、普通だよ、だなんていつもの彼なら言うはずがない。だって普通だと言われることに心を痛めているはずだもの。それに、怯えているわたしにこんなことを言うのはやっぱりおかしくて。ベッドに座らされたのだけれど、やっぱりみんなのところへ戻ろうと思って立ち上がろうとした時だった。
「逃がさないよ。」
「きゃうっ!!ま、ましっ……ん……ふ……!」
「真、可愛い……」
猿夫くんは突然肩を掴んできて、わたしをベッドに組み敷いた。そして噛みつくようにキスをされて、彼は片手でわたしのブラウスのボタンを素早く外していった。はらりとはだけたブラウスをさっと広げてわたしの身体を弄っている。こんな風に無理矢理身体を触られるのは初めてだ。逃げようにも、わたしの両手首は彼の手に掴まれてベッドに押し付けられている。
「やだ……怖い……」
わたしの声が届いていないのか、彼はどんどん手を進めてきて、スカートの中に手を入れて厭らしく太腿を撫でてくる。
「いや……やめて……」
「どうしたの?いつもだったらもっともっとって物欲しそうな顔するのに……」
「や、やだ……今日の猿夫くんは、いや……」
「嘘。こんなに濡れてるよ?」
「やっ……!いや!ちがうもん!」
「違わないよ?ほら、見てごらん。」
彼は口元をにやりと歪ませながらわたしの目の前に手を翳し、てらてらと光っている指と指を擦り合わせてゆっくりと離した。すると、彼の指と指の間には透明な糸が垂れていて、恐怖と羞恥心が限界を超えたわたしはついに泣き出してしまった。
「う、うぅ……ふ、ぐすっ……は、恥ずかし……ぐす……こ、怖い……」
「…………真?」
「ひっ……う、うぅ、うわあああああん!!!」
「…………!?真!?どうしたの!?なんで泣いてるの!?」
またしても両肩をぐっと掴まれたけれど、先程とは反対に勢いよく身体を抱き起こされた。どこか痛いの!?大丈夫!?ととても心配してくれていて、ぎゅうっと優しく抱きしめてくれているのはいつもの猿夫くんだ。わたしは彼に縋るようにぎゅうっと力強く抱きついた。
「ぐすっ、う、ふぇ、う、うぅ……ま、ま、猿夫……くん……?」
「なんで泣いて……って、どうしてこんな格好で……!?早くこれ着て!!」
「きゃっ!う、う、うん……ぐすっ……」
猿夫くんは壁にかけていたパーカーを掴むとすぐわたしの肩にかけてくれた。それからもう一度ぎゅうっと強く抱きしめてくれて、とんとんと背中を叩いてくれた。よかった、わたしの大好きな猿夫くんだ。いつもの優しい猿夫くんだ。
「ごめん、全然覚えてない……けど、真を泣かせるようなこと、したんだよね……」
「ううん……大丈夫……すごく怖かったけど、痛いこととか酷いことはされてないよ……」
「俺、彼氏失格だ……」
「そ、そんなこと……」
「真を傷つけて怖がらせて、その上泣かせて……ごめん……」
「う、ううん、あ、あの、そ、そんなに思い詰めないで……」
「……ごめんね、今日はひとりにしてくれる?」
猿夫くんはわたしをぎゅっと強く抱きしめるとぱっと身体を離して後ろを向いてしまった。しゅんと垂れた尻尾がとても寂しそうだ。こんな状態の彼をひとりにしたくなんてないけれど、彼が望むなら仕方がない。
「うん……また、明日……」
「…………」
肯定の返事をもらえなかったことが悲しくて、つーっと涙が流れてきた。ここで泣いてしまったら彼はもっと自分を責めるだろう。わたしは彼のお部屋を静かに出て、ハンカチで涙を拭いながら自分のお部屋へと戻った。
翌日、とても早く目が覚めてしまった。土曜日の夜をひとりで過ごしたのは久しぶりで、彼が隣にいない日曜日の朝に違和感を感じる。もう、彼と一緒に朝を迎えることはないのだろうか。そう思うとぽろりと涙がこぼれ落ちた。掛け布団にぱたぱたと涙が落ちて止まらない。
「猿夫くん……寂しいよ……」
そう呟いた時、背後からとても小さな音がした。ベッドから出てカーテンを開けると、ベランダに小さなお猿さんのマスコットが落ちていた。これはわたしが彼にプレゼントしたお揃いのマスコットだ。窓を開けて、ベランダから下を見ると、猿夫くんがちょいちょいと手招きしているのが見えた。わたしは急いで着替えて自分のお部屋を飛び出した。
「猿夫く……きゃうっ!」
「真……ごめんね……」
「猿夫くん……あ、あ、あの……」
彼に駆け寄るとすぐに彼の腕の中に閉じ込められてしまった。腕どころか尻尾まで身体に巻きつけられてしまい、全身が密着してどきどきが止まらない。手のひらをぴったりと彼にくっつけて軽く押してみると、ハッとして慌てて腕と尻尾の力を緩めてくれた。
「ごめんね、こんな朝早くに……散歩してたら電気がついたの見えてさ……」
「ううん、いいの……会えて嬉しい……」
「……俺のこと、嫌いになってない?」
「なるわけないよ……すき……猿夫くん……だいすき……」
「真……俺も大好き……」
もう一度ぎゅうっと抱きしめられて、お互い引き寄せられるように唇を重ねた。唇を離す時、ちゅっと可愛い音がして、ちらりと彼を見上げると真っ赤な顔になりながらきょろきょろと目線を泳がせていた。顔が熱くなってさっと頬に手を当てたら、可愛いね、と言われてもう一度唇を重ねてきた。もう一度、また、もう一度、何度も、何度も。
「昨日は本当にごめん。あの後上鳴とかに聞いたんだけど、誰かの個性の影響みたいで……あんなに怯えさせて……ごめん……怖かったよね……」
「え、えっと……」
「昨日、ひとりでずっと考えてた。真を傷つけたくない……だから、その、フラれても、仕方、ない、よなって……」
猿夫くんの細い目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。ビーズのような、とても小さな涙。それはいくつも流れ落ちた。ぽろりぽろりとどんどんあふれてくるもんだから、いつも彼がしてくれるように目尻にキスをしたくてぐっと背伸びをしたのだけれど。
「と……と、届かない……!」
「…………くくっ……」
「わ、笑っちゃダメだよ!」
「だ、だって……可愛いから……あははははっ!」
どれだけ背伸びをしても、わたしより20センチ以上も背が高い彼の目に顔が届くはずもない。案の定、足がぷるぷると震えてバランスを崩しそうになってしまった。恥ずかしくて両手で顔を覆ってしまったら、彼は楽しそうにくつくつと笑っていた。やっぱり、彼にはこんな風に笑っていてほしい。
「わたし、猿夫くんの、優しい笑顔がだいすき……昨日はちょっぴり怖かったから……」
「……もう二度とあんなことはしないから……だから、仲直り、してくれる?」
「うん!でも、もしまたあんな風になって困っても、ちゃんと話して仲直りしようね。」
「うん……ありがとう……」
ぐいっと涙を拭った猿夫くんと目を合わせてニッと笑い合ってから、目を閉じてもう一度キスをした。目を開けると、いつもの優しい笑顔を向けてくれる彼がいたのだった。
優しい笑顔
「えへへ、猿夫くんの優しい笑顔だぁいすき!」
「俺も、真の可愛い笑顔大好きだよ。」
「か、か、かわ……!?や、やだ、恥ずかしい……」
「お、俺だって恥ずかしいよ……」