彷徨うしるし


苦しい!心臓が爆発しそう!!

路地裏をひたすら走る。この両足を止めたら殺されてしまう。
格闘はできないわけじゃないが、体格のいい男二人相手は分が悪すぎる。唯は諜報向きなのだ。
というか、なんでこんなところで黒ずくめの男たちと出くわすのだ。しかも奴らがターゲットを消している場面。裏通りとはいえ、人が行き交うすぐのところでなんてやめてほしい。こちらだってあまり人目につくところを通りたくないのだ、職業柄。
待て、と言われて待つ奴が本当にいるのだろうか。甚だ疑問であるが、唯だって捕まるわけにはいけないので待つことなどしない。

「もうっ、最悪だ!」

こんな時に限って、ヒールの高い靴と明るい茶色のロングヘアーのウィッグにひざ下の長めのスカート。走りにくいことこの上ない。このまま逃げてもすぐ捕まってしまう。どうしたものか……考えている暇もないかもしれない。
こんな間抜けな殉職なんて。
不吉な単語が頭に浮かんだ瞬間、グイっと腕を捕まれ引き寄せられた。そのまま、地面に組み伏せられる。背中を打ち付けた痛みを感じる暇もなく、首に回された両手に力が込められた。

「っ……あっ、ぐぅ……」

苦しい、息ができない。必死にその手を外そうともがくが、馬乗りになって絞めるその手はビクともしない。
ああ……本当に死んじゃうかも……。
生理的に流れる涙で視界が歪む。その先に見えたのは、唯が焦がれてやまない上司と同じ青い瞳だった。




ベルモットから邪魔者を始末するという指令がきたのは、つい先日のことだ。どうやら、バーボンが直接手を下すものではないらしい。端的に言えば、邪魔されないように見張り、失敗したときに対処できるように動けということだろう。
実行犯は上手くターゲットの始末に成功したが、目撃者がいたらしい。もう一人の見張り役は何をやっていたのだろうか。男二人で一人の女を追いかける滑稽なさまを、ビルから高みの見物でもしよう。バーボンがそんな暢気なことを思っていられたのは、ほんの一瞬だった。

「……あのバカは何をやっているんだ」

思わず素が出てしまった。頭を抱えたくなったが、そんな時間も惜しい。
彼女を男共から逃がすための策を考えなければならない。とりあえず先回りをしなければ、とバーボンは颯爽と駆け抜けた。




動かなくなった女の始末は自分がやる、とバーボンが黒ずくめの男へ告げた。目撃者を出すという失態を犯した二人に反論はない。
女が死んだ後どうするかの追加指令は上からはなかったため、面倒である死体処理はバーボンに任せることとなった。横抱きにしたまま動かない女を自分の車の後部座席に乗せ、尾行されないよう細心の注意をはらって自宅へと向かう。組織の目を欺くためとはいえ、まさか自分の部下である女性、唯を絞殺しようとするなど・・・。ハンドルを握る手が震えないようぐっと力を込めた。

「……ぅう……げほっ!……ぅえ……」

「……起きたか、唯」

「うう……あむ……さ……」

まだ意識がはっきりしないらしい。バックミラー越しに見る唯は、焦点の合わない目でぼーっと口が開けっ放しだ。間抜けな顔をしている。
目を覚ましたことにバーボンは一息ついた。

「助け出すためとはいえ、手荒な真似をしてすまなかったな」

暫く瞬きを繰り返していたが、バーボンもとい降谷零から謝罪の言葉を聞くとはっと覚醒した。

「ふっ降谷さん!?わたし、本当に殺されるかと思いましたよ!自分の上司に!!」

がばっと起き上がって、意識が飛んでいたせいで流れた涎を拭きつつ怒りだした。降谷は気絶していた方が静かでよかったなと思わなくもなかった。

「あんなところにいるお前が悪い。これでも上手く動いたんだ、感謝して欲しいものだな」

「うう……任務の邪魔をして申し訳ありませんでした」

思考がはっきりしてきた唯は自分のしでかしたことを思い出した。
ああ、最悪だ。潜入捜査中の上司の邪魔だなんて。
降谷は一つため息をついて、唯に指示をだした。

「つけられてはいないと思うが、念のためヅラは外して上だけでも着がえろ。座席の下に俺の服がある」

「ヅラって言わないでください……ああ、この恰好気に入ってたのになぁ」

公安所属である身の唯は普段からも変装を好んでいた。自分の見た目で動きにくいことがあるのを気にしているのだろう。被っていたウィッグをぽいっと外して、地毛である黒髪を露わにした。




何事もなく降谷の自宅に着き、今日はもう外へ行かないほうがいいとの命令が下された。必然的に、降谷の家に泊まることとなる。
唯は走ったからシャワーを借りたいといえば、浴室に放り込まれた。
車内で着替えた降谷の服は大きすぎて動きにくいだろうと気を使ってくれたのか、適当な大きさのスウェットとタオルも抱えさせられた。用意がいいことで。それでも降谷のサイズ的に、唯にはかなり大きいのだが選んでくれることがありがたい。自分のため何かをしてもらうという行為に、思わず頬が緩んでしまう。
しかし、命を狙われているかもしれない、という状況が前提である。あまり浮ついた気持ちにもなれないのが悲しいな、と唯は服を脱ぎ始めるのだった。

がちゃっといささか乱暴に浴室の扉を開けて唯が出てきた。そのままずんずんと、ソファで寛ぐ降谷の元まで詰め寄ってくる。

「降谷さん!」

「なんだ、すっきりしたか?」

確かにスッキリした、スッキリしたのだが浴室の鏡を見て愕然としてしまった。

「これ、どうするんですか!?このただ事じゃない痕!」

唯は自分の首を指した、何ならスウェットの襟もぐいっと広げながら。はしたないな、と降谷は顔をしかめる。

「ああ、綺麗な鬱血痕だな」

「綺麗な、じゃないですよ!明らかに事件に巻き込まれましたっていうのじゃないですか!どうするんですかこれ!」

「不可抗力だ、自分の間が悪かったと思って諦めろ」

女の身としては大事件なのに、降谷の返答はあまりにもあっさりしたものだった。大声を出した唯の方が馬鹿らしくなるくらいだ。

「あー……もう……しばらくハイネックしか着れないじゃないですかぁ……」

がっくりと項垂れるようにして、降谷の隣に座った。確かに自分に非があるのは認めよう。この上司は殺されそうなところを助けてくれたのだから。でも、これは普通の傷痕とはちょっと違う。唯はただでさえ色白なのだ、目立ち過ぎる。

「すぐ鬱血しちゃうからって、手の痕って……こういうのって、普通キスマークとか、そういうのでときめきとか!あるんじゃないんですか!これじゃあ、ときめきも色気も何もあったもんじゃないです……」

はぁ、と唯はため息をつく。
痕を付けられるなんて、キスマーク以外であるなんて思ってもみなかった。そんなものつけてくれる相手もいないけど。憧れの降谷の手だと思って喜ぶか、なんて考えてもみたけど、それじゃあただの危ない人だ。そっちの趣味はない。
ソファに備え付けられていたクッションを抱えて顔を埋めた。

「そんなに痕が残りやすいのか?」

「そうですよ、重いもの肩に掛けただけで鬱血しちゃうんです……」

「ほう……」

降谷の何かを考えるような声に、唯は顔を上げた。
ああ、これは何か企んでいる顔だ。安室透のときに何度か見たことがある。
思わず後ずさってしまったが、降谷が距離を詰めるほうが早かった。

「えーっと、なんでしょうか降谷さん、近いのですが」

「そんなに簡単に鬱血するのか試してみたくなった」

「……何を言い出すんですか、頭大丈夫ですか」

「仮にも上司に言う台詞じゃあないな」

ただの部下に迫る上司がいるものか。逃げようにも、右には降谷、左には降谷の右腕、後ろはソファの背もたれ。既に退路を断たれていた。じりじりと降谷の顔が近づいてくる。唯が先ほど見たのと同じ、焦がれてやまない人の青い瞳だ。
やばい、この人本気だ、目をみてわかってしまった。あの時も苦しかったが、今も苦しい。心臓が煩くて、上手に息ができない。

「……あのっ、ちょっ……っ」

「ときめきが欲しいんだろ」

そういって、降谷は唯の首を舐める。ちょうど掌の鬱血痕が残ったところだ。変な声が出そうになるのを唯は必死で堪える。
舐めるなんて聞いてない!

「なに、して……ぁっ」

「……」

降谷は答えない。初めての感覚に唯は降谷の顔を見る余裕なんてなかった。
もう一度、唯の首を翻弄するように舐める。

「ふ……ふるや……さん、やめて、っ」

「……名前で呼べば、やめてやる」

なまえ・・・、ふるやさんのなまえ・・・?
回らない頭で降谷の問の意味を必死に考えた。

「……れい……さん」

シャワー後だからか、今の行為のせいか。上気した頬、潤んだ瞳、涙声で唯から呼ばれる自分の名前。
降谷は生唾を飲みこんだ。

「……いい子だ」

「んっ……」

その首筋に強く吸いつく。ちゅっとリップ音をのせて、降谷の唇が離れた。

「本当だな。そんなに強くしてないのに、綺麗に残るもんだな」

赤い掌の痕の上に、それよりも強く赤い綺麗な痕がひとつ刻まれた。それを指でなぞって、満足そうに降谷が笑う。

「……な、なにを」

何を笑っているんだ、この上司は!
そういいたいのに、上手く言葉が発せられない。
唯の心臓はまだ煩く音をたてて、息苦しくてたまらない。きっと顔は真っ赤になっているのだろうと思うと、唯は羞恥心でいっぱいだった。

「さて、俺もシャワーだけでも浴びてくる。ベッドはお前が使え、先に寝ていて構わない」

そういって、何事もなかったように降谷は浴室へ去っていった。
浴室の扉が閉まったところで、ようやく動くようになった唯は側に落ちていたクッションを降谷に向かって投げつけた。しかし、既に彼は扉の向こう。クッションは空しく床の落ちた。

「−−っ!!」

首に残された降谷の舌の、唇の感触。それにそっと触れた。自分が彼の所有物だと勘違いしてしまいそうになる。この気持ちはきっと永遠に口にすることはないと決めていたのに。こんなことをされてしまうと揺らいでしまう。
わたしは、あなたのものでいいんですか?
そう扉の向こうの上司に向かって問いかける。当たり前だが、返事はない。
この痕が一生消えなければいいのに、と唯は密かに思った。




「……何をやっているんだ、俺は」

浴室の扉を閉め、ずるずるをその場にしゃがみ込む。自分よりも年下の部下相手に、制御が効かなくなるなど。今まで何度も我慢してきたものが、堰を切ったようにあふれ出た気がした。
この両手で掴んだ唯の首は細くて、あれ以上力を籠めたら本当に折ってしまいそうだった。普段からは考えられないほど、か弱く感じた。そして、降谷は確かに聞いた。彼女の意識が途切れる前に、微かに自分の名前を呼んだのを。
あの時から、もっと唯に触れたいと思ってしまった。自分が馬乗りになる下で、潤んだ瞳で手を伸ばした彼女に。

「あの顔は、反則だ……」

冷たいシャワーでも浴びて、気持ちを静めよう。ここから出たら、またただの上司と部下に戻らなければ。
しかし、自分が残した赤い痕が鮮明によみがえる。降谷の所有物だと、誰にも渡さないと主張する証。立場上、自分の気持ちすら伝えられないというのに。
それでも、あの痕が一生消えなければいいのに、と降谷は思って自嘲するのだった。
(2018/5/17)

back